花天月地【第64話 真紅の獰猛】
七海ポルカ
第1話
的の中央に矢が突き立った。
拍手が後ろから響く。
「
異母妹で、
郭嘉はどちらかというと曹操側の人間なので、
これは瑠璃には言っていないが郭嘉は、
もし自分にこの遠征で何かあった時は、妹がこれから困らないように見守って下さったら嬉しい、とそこまで言っていた。
「私が死んだ時は
そこまで異母妹を大切にしているのかと驚きつつ、お断りしますと曹娟は言った。
「私が引き受けて、これで安心だなどと郭嘉様が思われ、戦場で華々しく亡くなられても困ります。
他の方に頼まれるか、ご自分でなさって下さい」
「でも引き受けて下さらないとそれが心の迷いになって私が涼州遠征の任務に集中出来ないかも」
「それも困りますが、それでも私が引き受けるわけには参りません。どうかご容赦を」
重ねて断ると、郭嘉は声を出して笑った。
「さすがは
ではこの件は私が引き下がりましょう。
瑠璃が私が戻るまで、ここで過ごせるようによろしくお願います」
とにかく彼は、女遊びの噂しか聞いたことが無かったからだ。
だが瑠璃を頼む姿は
曹娟は滅多に他人に心を開かなかったが、
郭家と関わらずに生きて来たという瑠璃が、不思議と兄に似た聡明な娘だということはすぐに分かった。
彼女は身分を弁え、ここにいられることに感謝し、曹娟にも、兄にも深く感謝を示してくれている。
勝手な行動などはしないし、侍女としての仕事もきちんとこなした。
賢い娘なのだ。
これならば「郭嘉の妹」ということを
もし甄宓がここで預かることは出来ないということであれば、曹娟はそれは、自分がしっかりと瑠璃が安心して過ごせるよう、後見人となるつもりだった。
瑠璃には侍女としての仕事を任せているが、郭嘉からの大切な預かり物だとも思っているので、半分は客人として扱っている。
しかし侍女としての仕事は経験として非常に為になるため、瑠璃も自らやってみたい、と言ったので任せたりしている。
彼女は郭嘉の頼みとはいえ、自分がここで客人としてただ豪華な暮らしを約束されているというのは、やはり落ち着かないらしい。
瑠璃はこんな立派な書庫は見たことがないと感動していて、書庫で過ごすことが好きなようだった。
それから
私個人の道具箱なので好きに使って下さいと刺繍道具を渡すと、目を丸くしてこんなにたくさんの色の糸を見たことが無いと、熱心に糸の色を見つめていた。
曹娟は子供の頃から不遇だったが、思えば曹家の娘として貧しさなどとは無縁だったのだと、瑠璃を見て改めて思った。
周囲の人間に冷たくされ、心が凍り付いてしまって、小さい頃から色んな色や物は溢れていたはずなのに、その豊かさに感動などしたことがない。
だから瑠璃を見ていると、微笑ましく思えた。
しかし
今は甄宓に大切にしてもらっているから、自分がどんなに幸せか実感が出来る。
異母兄である郭嘉の庇護だけを頼りに生きているような瑠璃を見ると、そんなに心許ないものに縋っても、明るさや素直さを失わない瑠璃を、見守ってやりたいと思えた。
瑠璃がここへやって来るのは珍しかった。
「お見事です、
的の中央に並んで突き刺さっている矢を見て、瑠璃は本当に驚いたようだった。
「曹家の方々は抜きん出た才ばかりと聞いていましたが、本当なのですね」
「確かに曹家の方々は並外れた方が多いですけど、私は弓はごく最近打ち始めた素人です」
「そうなのですか?」
「はい。
「そんなついこの前に初めて弓を持たれたのに、もうこんな腕前に?」
素直に目を丸くしている瑠璃に、曹娟は小さく笑う。
「瑠璃殿も今まで刺繍をしたことが無かったと仰ったのに、もう随分編まれるようになっておられますよ」
瑠璃は言われて気付いたようだ。
「はい……今まで刺繍などしたことがありませんでした。ここではあんなに綺麗な色の糸をたくさん使わせていただけるから楽しくて……。本当にあんなに使ってよろしいのでしょうか?」
「私は刺繍はあまり得意では無くて……ですから糸はいただくのにどんどんああやって溜まってしまうのです。
私に娘や妹がいたら、きっと全てその子にあげましたわ。
ですからどうか遠慮なさらないで下さい」
瑠璃は安堵したようだ。
「
「そうですね、確かに……弓を打つと、心が晴れます。集中出来ますし、落ち着きます。
それに何か一つ武芸を身につけているというのもいいとも思いますし」
「貴人のお側仕えは、余程の覚悟が必要なのだと思います」
瑠璃が言った。
「私は今までそういうこととは無縁でしたが……短い間ですが郭嘉様の側にお仕えして、この方に何かあれば、自分の全てを投げ打ってでも守って差し上げないといけない方なのだと、そのことは強く感じました」
曹娟は弓を立てかけ、手甲を解いた。
「……大変だったでしょうね」
「えっ?」
「郭嘉様は病に伏せっておられました。
私も、奥方様や殿下に何者かが襲いかかって来るならば、この身体くらい投げ出すのは容易いですが、病に伏せって苦しんでおられたら、快癒を祈るくらいしか出来ません。
自分の無力を痛感し、苦しむと思います」
「はい。私も自分の命を誰かに差し出して郭嘉様が快癒なさるなら、それで構わないと心の底から願いましたが、それは叶わなかったので辛かったです」
「大丈夫ですよ。魏軍には優秀な将官がたくさんいます。
それに
「そうでした。陸佳珠殿の弟君も従軍されているのでしたね。辛いのは私だけではないのでした。しっかりしなければなりません」
「陸佳珠殿の弟君は
「まあ。そうなのですか?」
「はい。司馬懿殿に仕えておられるなら、郭嘉様も近くにおられましょう。
きっと
「はい」
瑠璃は微笑んだ。
「お茶を淹れましょうか。奥方様がおられないと、飲んで下さる方がいなくて寂しいのです。瑠璃殿が飲んで下さい」
「光栄ですが、喜んで」
二人で笑いながら、庭を歩いて行く。
すっかり冬の風だ。
郭嘉が花の海のようだと言っていた
だが冬が来たということは、春が近づいて来たということだ。
春になれば、きっと郭嘉は遠征から戻って来る。
そうだ、春の花園の大きな刺繍を作ろう。
郭嘉は花が好きだからきっと喜んでくれる。
戻って来て、自分が刺繍など出来るようになっていたら、笑ってくれるだろうか。
そんな想像をして刺繍を編むのはとても楽しいことだ。
(郭嘉さま、どうかご無事で)
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