【特殊清掃恋愛短編小説】あなたのいない部屋で恋が始まる ~死を掃除する男と、愛を知らない女~(約11,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

序章:ゲーム・スタート

 東京という街は、私のための巨大なゲーム盤だ。

 そして、そこにいる男たちは私の駒に過ぎない。


 グラスの中で琥珀色の液体がゆらりと揺れる。西新宿の高層ホテル最上階。眼下に広がる宝石を撒き散らしたような夜景さえも、私を飾るための陳腐な背景にしか見えなかった。


「……響子さん。君は本当にミステリアスだ。君をもっと知りたい」


 目の前に座る男が、熱に浮かされたような瞳で私を見つめている。彼は今をときめくIT企業の若き寵児。世の女たちが喉から手が出るほど欲しがる男。そして今、


「あら、嬉しい。でも私の全てを知ったら、きっとあなたは退屈してしまうわ」


 私は蠱惑的に微笑みながら、彼の高価な腕時計にそっと指を這わせる。計算され尽くしたボディタッチ。彼の喉がごくりと鳴る。


 チェックメイト。

 ゲーム終了。


 煌月響子、三十一歳。

 ウェブメディア「TOKYO BUZZ」のスターライター。私の書く記事は常に数十万のアクセスを稼ぎ出す。私の周りには常に富と名声、そして私を崇める男たちが渦巻いている。


 欲しいものは全て手に入れてきた。恋愛もその一つ。それは私にとって心を交わす神聖な儀式などではない。相手の欲望を読み解き、弱点を突き、支配下に置くスリリングなチェスのようなゲームだ。そして私はこのゲームで一度も負けたことがなかった。


 私のテクニックは芸術的だった。


 まず相手の心理分析から始まる。

 SNSをチェックし、過去の恋愛パターンを探る。母親との関係性、コンプレックス、仕事への姿勢。

 全てが攻略のヒントになる。


 次に自分を相手好みにカスタマイズする。


 知的な男性なら教養を、体育会系なら健康的な魅力を、芸術肌なら儚い美しさを演出する。

 まるで色とりどりの仮面ペルソナを使い分ける女優のように。


 そして最も重要なのは、絶妙な距離感の操作だ。

 近づいては離れ、与えては奪う。

 相手の心を揺さぶり続け、私なしでは生きられない状態まで追い込む。


 過去五年間で私が「攻略」した男性は三十七人。有名企業の役員、売れっ子俳優、政治家の息子、外資系金融マン。まるで贅沢なコレクションのように、彼らの名前が私の戦歴として刻まれている。


 だが最近、そのゲームがひどく退屈になっていた。

 


 翌日。

 編集会議で私は次なる「バズ記事」の企画をプレゼンしていた。


「……孤独死。これほど現代社会の闇を象徴するテーマはありません」


 私はモニターに映し出されたショッキングな写真を指し示した。


「有名人のスキャンダルなんてもう古い。読者が今求めているのは、もっとリアルで生々しい隣の家の悲劇。このテーマ、私がやれば必ず月間MVPを獲れます」


 編集長は私の自信に満ちた言葉に満足そうに頷いた。私の目には孤独死という悲惨な現実さえも、自分の価値を証明するための美味しい「ネタ」としか映っていなかった。その先に転がる本当の人の痛みなど、想像する気もなかった。


 数日後。


 私は密着取材の許可を取り付けた特殊清掃専門会社「クリーン・ソウル」の小さな事務所を訪れていた。下町の古びた雑居ビルの一室。壁には「迅速・丁寧・誠心誠意」というありきたりな社訓が貼られている。


 社長の佐々木と名乗る人の良さそうな初老の男が私を迎えた。


「いやあ、煌月先生。テレビでいつも拝見してますよ。先生のような有名な方に我々の仕事を取り上げてもらえるなんて光栄です」


「こちらこそ。よろしくお願いしますね、佐々木社長」


 私が愛想よく微笑むと、佐々木は奥の部屋に向かって声をかけた。


「おい、静真!ちょっと来てくれ!」


 現れたのは一人の若い男だった。


 作業着に身を包んでいる。歳は私より少し下だろうか。無駄な肉のない引き締まった身体。少し色素の薄い髪と、感情の読めない静かな瞳。整った顔立ちをしていたが、その表情はまるで能面のようだった。


「現場主任の入江静真です。彼が今回の取材で先生の担当をしますので」


 入江静真。


 私は彼を見た瞬間、いつもの私の中のゲームのスイッチがカチリと入るのを感じた。


 少し影のある整った顔立ち。

 無口で何を考えているかわからないミステリアスなタイプ。

 こういう難攻不落に見える駒を自分の意のままに操るのが、私は何よりも好きだった。


「煌月響子です。色々教えてくださいね? ……静真くん」


 私は最高の笑みを浮かべ、彼の手を両手で包み込むように握手をした。そしてわざと指を絡める。いつもならこれでどんな男も動揺する。


 だが彼は違った。


 彼は私の顔を一切見なかった。その視線は私のさらに奥にある何か別のものを見ているかのようだった。そして握手もそこそこに静かに手を離した。


「……入江です」


 それだけをボソリと呟くと、彼はすぐに自分の作業場へと戻ってしまった。


 鉄壁のガード。

 私の媚薬が全く効かない。


 ……面白いじゃない。


 私の完璧なゲーム盤の上に初めて現れた予測不能な駒。


 必ず落としてみせる。


 私の闘争心に静かに火がついた。

 この退屈なゲームが、少しだけ面白くなりそうな予感がした。

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