第一章 第五話

朝の光は、わたしの部屋には届かない。重たいカーテンは、閉ざされた未来を象徴しているかのように、ぴたりと閉まったままだ。アラームが鳴る前に、わたしは目を覚ました。昨日からずっと、心臓が不規則なリズムでドクドクと鳴り続けていたからだ。


わたしの手には、一枚の切符が握られていた。母が用意した、片道の切符である。

この切符は、わたしをどこか遠い場所へと連れて行くだけで、もうわたしの意思とは関係がない。わたしは、この切符を握りしめるたびに、自分の手の中に、わたしではない誰かの人生が握られているような感覚に陥った。


重たいコートを羽織り、わたしは家を出た。母は、すでに起きていて、わたしを玄関まで見送りに出てきた。


「頑張ってね」

その声は、わたしには届かない。

わたしは、ただ、うなずくことしかできなかった。そのうなずきは、わたしの本心から出たものではない。ただ、母の期待に応えるために、反射的に動いた、わたしではない誰かのうなずきだった。

駅までの道は、普段よりもずっと遠く感じられた。見慣れた景色が、まるで知らない街のように見えた。いつも通っていたはずの道なのに、どこをどう歩いてよいのか、わからなくなってしまった。わたしは、まるで、迷子になった子供のように、ただただ、足を進めた。

駅のホームは、朝からたくさんの人で賑わっていた。みんな、それぞれの目的地に向かって、足早に歩いてゆく。わたしは、その人々の波に飲み込まれないように、必死で歩いた。けれど、わたしは、人々と同じようには歩けなかった。わたしの足は、鉛のように重く、前に進むことを拒んでいた。

やがて、わたしが乗るべき電車がホームに滑り込んできた。その電車は、まるでわたしをどこか遠い場所に連れて行くために、わたしを待っていたかのようだった。わたしは、躊躇しながら、その電車に乗り込んだ。

電車の中は、窓の外の景色とは、まるで違う世界だった。静かで、誰も話さない。他の人は、スマートフォンをじっと見つめていたり、目を閉じていたりする。わたしは、窓の外の景色を見た。けれど、景色は、わたしの心の中には入ってこなかった。ただ、流れてゆくだけだった。

わたしは、この電車の中で、どこに向かっているのだろう。わたしは、これから、どこにゆくのだろう。

そんなことを考えていると、わたしの心臓が、またドクドクと鳴り出した。不安の音が周囲に漏れていないかと不安になり、当たりをキョロキョロと見渡した。

わたしは、電車の中で、ただひたすらに、時間が過ぎるのを待った。一時間、二時間、三時間。時間が経てば経つほど、窓の外の景色は、見慣れないものになってゆく。

見慣れない街並み、見慣れない看板、見慣れない人ゞ。わたしは、少しずつ、少しずつ、わたしが知っている世界から遠ざかっていった。

四時間。わたしは、その駅に降り立った。そこは、わたしが今まで一度も来たことのない街だった。駅のホームに降り立った瞬間、わたしは、自分がこの街にいることが、まるで夢の中の出来事のように感じられた。

わたしは、駅の改札を出た。改札の向こうには、たくさんの人がいる。けれども、その人たちは、わたしのことを誰も見ていない。わたしは、この街では、ただの通りすがりの、誰も知らない存在だ。

わたしは、スマートフォンを取り出して、地図アプリを開いた。地図の上には、今日わたしが向かうべき会社の名前が表示されている。そこまでは、あと少しだ。だが、その「少し」が、わたしには、果てしなく遠く感じられた。

わたしは、蹌踉めきながら歩き始めた。

一歩、また一歩。

わたしの足は、重い。それでも、わたしは、歩き続けなければならない。わたしには、もう、引き返す道がないからだ。

わたしは、この電車の中で、わたしという人間を、少しずつ失っていった。わたしの心は、もうこの電車の中に置いて来てしまったのだろうか。


わたしは、もう、わたしではない。

わたしは、そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。わたしという人間が、もうこの世には存在しない。ただ、わたしという名の、魂のない抜け殻が、この街を歩いている。

わたしは、このまま、どこまで歩いてゆくのだろう。このまま、歩き続けて、どこにたどり着くのだろう。

わたしには、もうわからない。

わたしは、ただただ、足を進めた。冷たい風が、わたしの頬を撫でてゆく。その風は、わたしの頬の涙を、否応なしに、無情に乾かしてゆく。わたしは、もう、涙を流すことすらできなくなってしまったのかもしれない。

わたしは、もう、何も感じなくなってしまった。

それは、わたしにとって、死よりも怖いことだった。

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