2025年8月11日 06:17 編集済
第1話 批判されるということへの応援コメント
卯柿魯安さん、こんにちは。バズるかな? と思ってみておりましたが、意外と盛り上がっていないので、せっかく書いたのに何の反応もないのでは拍子抜けではなかろうかと、お邪魔いたします。前提として、「アンチコメント」について語られておられますが、アンチとは、反対・対抗・排斥の意味をもっています。一般的にはあまりよろしくないものとされています。アンチからのコメントを我々は真剣に検討する必要があるでしょうか?「ある」というのが、あなたのスタンスであることは承知しました。そしてアンチコメントや批判の中には、憂さ晴らしや、無責任な罵倒があることも、ご承知の上でのご発言であることも。アンチが役に立つ場合も、場合によってはもちろんあるでしょう。たとえば、ホーム球場における試合で、対戦チームが、「この球場は通路が暗いぞ!」と野次る。それによって球場側が、「確かに暗い」と照明を改善するかもしれません。しかしそれを拾い上げるには、その何百倍もの暴力的なアンチコメントに晒されなければなりません。一個人が毎日それを浴びるというのは、どんな強靭なメンタルの人にも難しいことではないでしょうか。悪意満載のその言葉の暴力のせいで、創作するモチベがさがり、活動を停止してしまうのならば、創作者にとってそれは害悪です。誰だって、創作仲間の誰かがアンチに絡まれ、毎日のようにねちねちと作品の粗探しをされているのをみたら、「ブロックして!」と勧めるのではないでしょうか。》「思考にとって本当に必要なのは、調和や賛同だけでなく、異なる声、鋭い反論、そして時には攻撃的な視点である」賛同いたします。しかしこの点においては、それが「誰から」もたらされるかも、同時に重視いたします。憂さ晴らし的な攻撃的な視点、悪意や人格否定を大量に含んだ「アンチコメント」はちょっと性質が違うかなと。》また、古代中国の唐の太宗・李世民と、名臣・魏徴の関係も、その象徴的な例だ。はい、まさにここです。魏徴は『名臣』なのです。相手をただ叩きたいだけのアンチではありません。》真の賢者とは、耳に心地よい言葉ではなく、耳に痛い言葉にこそ耳を澄ます者なのだろう。これはこうもいえます。真の賢者とは、きくべき意見と排除する意見を分けることが出来る者だと。魏徴は、その知性を惜しみなく治世の為に提供してくれる協力者であって、李世民のアンチではありません。》そうした「否定」の中にこそ、創作者にとっての成長の契機が眠っている。》それでも、そうした批判に対して、ただ感情的に防御するのではなく、そこに“気づき”の種がないかどうか、冷静に見極める姿勢を持ちたい。この箇所、べつに「ことごとく否定して反対してやる気をそいで排斥してやる」と燃え上がっている感情的なアンチからもらわなくても、と思ってしまいました。感情的なアンチからのコメントにも有益なものはあるでしょう。それが本稿の趣旨ですよね?何故ならアンチというものは、相手の弱点や欠点をこれでもかというほどに暴き立てて、悪意ある曲解をしてでも、猛烈に糾弾するものだからです。しかしその目的は、彼らの攻撃欲を正当化し、相手を潰すための容赦ない暴力です。リンチを浴びるのと同じです。おそらく卯柿魯安さんとしては、「アンチコメント」を排斥活動をもとにしたそこまでの悪意あるものとしてではなく、「違う視点からの意見。異論」「他者からのアドバイス」として書かれておられるのだろうと拝察いたします。おっしゃりたいことはちゃんと伝わっております。しかし、その程度のことならば、親しい者同士でやりとりしている方が大半ではないでしょうか。わたしたちは名臣にはなれませんが、「どうしたらいい?」と訊かれれば、「ここを直したらよくなるかも」と自分の見解を差し出し、相手のやる気を引き出すくらいの言葉はかけられます。それにしても、自分の意見は絶対ではないことをくどいほどに繰り返し、言葉もひじょうに選んでいるものです。「耳に痛い意見こそきくべき」こういった正論というものは強いものです。ですが、批判したらブロックされたとわめき立てる人は、なぜ相手からブロックされたのか、自分の側にも問題はなかったのかと考えることは稀です。というか、皆無です。「あいつは他人の貴重な意見に耳を傾けずに引きこもってる」と全てを相手のせいにして、腹立ちまぎれに罵って、それで終わるからです。私事ですが、かつて、押しかけアドバイザー(女性)に絡まれたことがあります。「貴重な指摘をしてやるから感謝しろ」と居座られ、他の人との交流が阻害されて、コメント欄も正常に機能しなくなったことから、お断りしました。人のプライバシー侵害まで平気でやる人間でしたので、反社で、論外でしたが、しかしその人物が、反省することはないでしょう。彼女の『孤立した自己満足の箱庭』の中では、自分が絶対正義であり、人に拒まれる態度や云い方しかできない自分を疑ったりすることは一切ないのです。好意的ではない視点というものを、他者にぶつけるだけでなく、他者に指摘コメントをする側だって自身に向ける必要があるのではないでしょうか。また、好意的でない視点や感情を、わざわざ「お前きらいw潰れろw」とぶつけに行く人間と知り合いたいとも思いません。貴稿はきっと、「アンチ行為正当化」の方々には涙を流して歓迎されるでしょうが、おそらく、卯柿魯安さんとても云いたいことの本質はそこではありませんよね。「いやそれでも、そこに違和感があるのならば、どんなアンチコメントにも耳を傾けるべき」と唱える人がいるならば、わたしは、「あなたの創作意欲を潰しにくるような批判やアンチコメントは遠慮なくブロックしていい」と云うでしょう。それは「逃げ」ではなく、自分を護るための権利です。せっかく熱意をこめて書いておられる原稿なので、応えてみました。ご不快でしたらさらっと消去なさってください。
作者からの返信
朝吹さん、こんにちは! コメントありがとうございます。ご指摘の通り、悪意や人格攻撃を目的とした言葉は、受ける側の精神を削り、創作意欲を奪う危険があります。これは否定しませんし、私自身も「無制限に受け入れ続けろ」と言うつもりはありません。ただ、私が本文で言いたかったのは、「耳を傾ける」という行為を一律に放棄してしまうと、思考が停滞し、やがて“ドグマ”に陥る危険がある、ということです。ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』の中で、次のような趣旨を述べています。『たとえ誤っていると思える意見でも、それを議論の俎上に載せることには意味がある。どんなに正しいと思っている意見でも、異論や反論を経なければ、それは「生きた真理」ではなく「死んだドグマ」に変質する。』極端な例を挙げれば、「人を殺しても良い」という意見でさえ、それを一度は検討し、なぜそれが許されないのか、或いは本当にそうなのかを改めて論じ直すことで、私たちはその倫理の根拠を再確認できます。もし一切の異論を排除してしまえば、「それは悪いから悪い」という循環論法だけが残り、思考は自己完結の殻に閉じこもります。これは、極端に悪意を持ったアンチコメントにも適応されると、私は考えています。また、李世民と魏徴の話も、あなたは「魏徴は名臣だから聞いた」とおっしゃいますが、ここには順序の逆転があります。李世民は“魏徴だから”聞いたのではなく、“聞いてみた結果、魏徴が有用な人物だと分かった”のです。最初から「有用な人物の意見しか聞かない」という態度なら、魏徴はそもそも評価の土俵に上がれませんでした。意見を精査するのは「聞いた後」の話であり、「聞く前に切り捨てる」ことは、創作者にとって自ら可能性の芽を摘むことです。もちろん、意見を受け入れる義務はありません。しかし「聞く」という行為は、受け入れるかどうかを判断するための最低限のプロセスです。そのプロセスを丸ごと省き、「精神的に害だから排除する」というのは、最初から議論を放棄する態度であり、自分の思考を自分で閉じ込める行為に他なりません。そうやって守られた創作は、一見安全でも、外部からの刺激を失い、やがて自己完結の温室で枯れていく――私はその危うさを強く感じています。だからこそ、私はあえて言います。「お前きらいw潰れろw」などの誹謗中傷に見える意見であっても、一度は自分の思考のテーブルに載せてみるべきだ、と。誹謗中傷を含めた、気に入らない意見や気に入らない人からの意見から逃げることは、残念ながら現代においては「権利」とされていますよ。法律的にも、社会的にも、それはある程度まかり通ってしまうんですよ。けれど、世に何かを出す――つまり、他者に何かを伝える、あるいは僭越ながら影響を与える――という営みの中では、それはどうにも無責任な態度に見えるんですよね。オルテガの『大衆の反逆』で言うところの、大衆的人間のふるまいそのものであって、あまり褒められた姿勢とは言えません。最後に、朝吹さんのコメントは、私に新たな思考の入り口を開いてくれました。こうして言葉を交わす機会そのものが、私にとっては創作の一部です。本当にありがとうございます。また、不快でもないですし、消去もいたしません。犯罪関連と不当なプライバシー侵害ではないですし。この返信にご不満があれば、近況ノート方にでも、コメントをしてください。
編集済
第1話 批判されるということへの応援コメント
卯柿魯安さん、こんにちは。
バズるかな? と思ってみておりましたが、意外と盛り上がっていないので、せっかく書いたのに何の反応もないのでは拍子抜けではなかろうかと、お邪魔いたします。
前提として、「アンチコメント」について語られておられますが、アンチとは、反対・対抗・排斥の意味をもっています。
一般的にはあまりよろしくないものとされています。
アンチからのコメントを我々は真剣に検討する必要があるでしょうか?
「ある」というのが、あなたのスタンスであることは承知しました。
そしてアンチコメントや批判の中には、憂さ晴らしや、無責任な罵倒があることも、ご承知の上でのご発言であることも。
アンチが役に立つ場合も、場合によってはもちろんあるでしょう。たとえば、ホーム球場における試合で、対戦チームが、
「この球場は通路が暗いぞ!」
と野次る。
それによって球場側が、「確かに暗い」と照明を改善するかもしれません。
しかしそれを拾い上げるには、その何百倍もの暴力的なアンチコメントに晒されなければなりません。
一個人が毎日それを浴びるというのは、どんな強靭なメンタルの人にも難しいことではないでしょうか。
悪意満載のその言葉の暴力のせいで、創作するモチベがさがり、活動を停止してしまうのならば、創作者にとってそれは害悪です。
誰だって、創作仲間の誰かがアンチに絡まれ、毎日のようにねちねちと作品の粗探しをされているのをみたら、「ブロックして!」と勧めるのではないでしょうか。
》「思考にとって本当に必要なのは、調和や賛同だけでなく、異なる声、鋭い反論、そして時には攻撃的な視点である」
賛同いたします。
しかしこの点においては、それが「誰から」もたらされるかも、同時に重視いたします。
憂さ晴らし的な攻撃的な視点、悪意や人格否定を大量に含んだ「アンチコメント」はちょっと性質が違うかなと。
》また、古代中国の唐の太宗・李世民と、名臣・魏徴の関係も、その象徴的な例だ。
はい、まさにここです。魏徴は『名臣』なのです。
相手をただ叩きたいだけのアンチではありません。
》真の賢者とは、耳に心地よい言葉ではなく、耳に痛い言葉にこそ耳を澄ます者なのだろう。
これはこうもいえます。真の賢者とは、きくべき意見と排除する意見を分けることが出来る者だと。
魏徴は、その知性を惜しみなく治世の為に提供してくれる協力者であって、李世民のアンチではありません。
》そうした「否定」の中にこそ、創作者にとっての成長の契機が眠っている。
》それでも、そうした批判に対して、ただ感情的に防御するのではなく、そこに“気づき”の種がないかどうか、冷静に見極める姿勢を持ちたい。
この箇所、べつに「ことごとく否定して反対してやる気をそいで排斥してやる」と燃え上がっている感情的なアンチからもらわなくても、と思ってしまいました。
感情的なアンチからのコメントにも有益なものはあるでしょう。それが本稿の趣旨ですよね?
何故ならアンチというものは、相手の弱点や欠点をこれでもかというほどに暴き立てて、悪意ある曲解をしてでも、猛烈に糾弾するものだからです。
しかしその目的は、彼らの攻撃欲を正当化し、相手を潰すための容赦ない暴力です。
リンチを浴びるのと同じです。
おそらく卯柿魯安さんとしては、「アンチコメント」を排斥活動をもとにしたそこまでの悪意あるものとしてではなく、「違う視点からの意見。異論」「他者からのアドバイス」として書かれておられるのだろうと拝察いたします。
おっしゃりたいことはちゃんと伝わっております。
しかし、その程度のことならば、親しい者同士でやりとりしている方が大半ではないでしょうか。
わたしたちは名臣にはなれませんが、「どうしたらいい?」と訊かれれば、「ここを直したらよくなるかも」と自分の見解を差し出し、相手のやる気を引き出すくらいの言葉はかけられます。
それにしても、自分の意見は絶対ではないことをくどいほどに繰り返し、言葉もひじょうに選んでいるものです。
「耳に痛い意見こそきくべき」
こういった正論というものは強いものです。
ですが、批判したらブロックされたとわめき立てる人は、なぜ相手からブロックされたのか、自分の側にも問題はなかったのかと考えることは稀です。
というか、皆無です。
「あいつは他人の貴重な意見に耳を傾けずに引きこもってる」と全てを相手のせいにして、腹立ちまぎれに罵って、それで終わるからです。
私事ですが、かつて、押しかけアドバイザー(女性)に絡まれたことがあります。
「貴重な指摘をしてやるから感謝しろ」と居座られ、他の人との交流が阻害されて、コメント欄も正常に機能しなくなったことから、お断りしました。
人のプライバシー侵害まで平気でやる人間でしたので、反社で、論外でしたが、しかしその人物が、反省することはないでしょう。
彼女の『孤立した自己満足の箱庭』の中では、自分が絶対正義であり、人に拒まれる態度や云い方しかできない自分を疑ったりすることは一切ないのです。
好意的ではない視点というものを、他者にぶつけるだけでなく、他者に指摘コメントをする側だって自身に向ける必要があるのではないでしょうか。
また、好意的でない視点や感情を、わざわざ「お前きらいw潰れろw」とぶつけに行く人間と知り合いたいとも思いません。
貴稿はきっと、「アンチ行為正当化」の方々には涙を流して歓迎されるでしょうが、おそらく、卯柿魯安さんとても云いたいことの本質はそこではありませんよね。
「いやそれでも、そこに違和感があるのならば、どんなアンチコメントにも耳を傾けるべき」と唱える人がいるならば、わたしは、「あなたの創作意欲を潰しにくるような批判やアンチコメントは遠慮なくブロックしていい」と云うでしょう。
それは「逃げ」ではなく、自分を護るための権利です。
せっかく熱意をこめて書いておられる原稿なので、応えてみました。ご不快でしたらさらっと消去なさってください。
作者からの返信
朝吹さん、こんにちは!
コメントありがとうございます。
ご指摘の通り、悪意や人格攻撃を目的とした言葉は、受ける側の精神を削り、創作意欲を奪う危険があります。
これは否定しませんし、私自身も「無制限に受け入れ続けろ」と言うつもりはありません。
ただ、私が本文で言いたかったのは、「耳を傾ける」という行為を一律に放棄してしまうと、思考が停滞し、やがて“ドグマ”に陥る危険がある、ということです。
ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』の中で、次のような趣旨を述べています。
『たとえ誤っていると思える意見でも、それを議論の俎上に載せることには意味がある。
どんなに正しいと思っている意見でも、異論や反論を経なければ、それは「生きた真理」ではなく「死んだドグマ」に変質する。』
極端な例を挙げれば、「人を殺しても良い」という意見でさえ、それを一度は検討し、なぜそれが許されないのか、或いは本当にそうなのかを改めて論じ直すことで、私たちはその倫理の根拠を再確認できます。
もし一切の異論を排除してしまえば、「それは悪いから悪い」という循環論法だけが残り、思考は自己完結の殻に閉じこもります。
これは、極端に悪意を持ったアンチコメントにも適応されると、私は考えています。
また、李世民と魏徴の話も、あなたは「魏徴は名臣だから聞いた」とおっしゃいますが、ここには順序の逆転があります。
李世民は“魏徴だから”聞いたのではなく、“聞いてみた結果、魏徴が有用な人物だと分かった”のです。
最初から「有用な人物の意見しか聞かない」という態度なら、魏徴はそもそも評価の土俵に上がれませんでした。
意見を精査するのは「聞いた後」の話であり、「聞く前に切り捨てる」ことは、創作者にとって自ら可能性の芽を摘むことです。
もちろん、意見を受け入れる義務はありません。しかし「聞く」という行為は、受け入れるかどうかを判断するための最低限のプロセスです。
そのプロセスを丸ごと省き、「精神的に害だから排除する」というのは、最初から議論を放棄する態度であり、自分の思考を自分で閉じ込める行為に他なりません。
そうやって守られた創作は、一見安全でも、外部からの刺激を失い、やがて自己完結の温室で枯れていく――私はその危うさを強く感じています。
だからこそ、私はあえて言います。
「お前きらいw潰れろw」などの誹謗中傷に見える意見であっても、一度は自分の思考のテーブルに載せてみるべきだ、と。
誹謗中傷を含めた、気に入らない意見や気に入らない人からの意見から逃げることは、残念ながら現代においては「権利」とされていますよ。
法律的にも、社会的にも、それはある程度まかり通ってしまうんですよ。
けれど、世に何かを出す――つまり、他者に何かを伝える、あるいは僭越ながら影響を与える――という営みの中では、それはどうにも無責任な態度に見えるんですよね。オルテガの『大衆の反逆』で言うところの、大衆的人間のふるまいそのものであって、あまり褒められた姿勢とは言えません。
最後に、朝吹さんのコメントは、私に新たな思考の入り口を開いてくれました。こうして言葉を交わす機会そのものが、私にとっては創作の一部です。本当にありがとうございます。
また、不快でもないですし、消去もいたしません。犯罪関連と不当なプライバシー侵害ではないですし。
この返信にご不満があれば、近況ノート方にでも、コメントをしてください。