『浮気したらどうなるか?教えてあげる』日曜日の忘れもの
志乃原七海
第1話「日曜日の忘れもの」
日曜日、午前5時。
けたたましく鳴るアラームを、私は手探りで止めた。隣で眠る夫・雄大(ゆうだい)を起こさないよう、そっとベッドを抜け出す。今日の彼は、会社の部長たちと大事なゴルフコンペなのだ。
キッチンに立ち、手際よく卵焼きを焼き、タコさんウインナーを炒める。昨晩のうちに下ごしらえしておいた唐揚げを揚げていると、香ばしい匂いが部屋に満ちた。
「おはよ。早いな」
寝癖をつけた雄大が、後ろから私の腰に腕を回してきた。
「おはよう。大事な日でしょ?あなたのお弁当が一番力になるって、いつも言うじゃない」
「サンキュ。本当、お前には頭が上がらないよ」
そう言って私のこめかみにキスをする。結婚して5年。変わらない、穏やかな朝の風景。
「いってらっしゃい。お弁当、忘れないでね。あと、車の運転、気をつけて」
玄関で、私はまだパジャ-マ姿のまま、髪には大きなヘアカーラーを巻き付けていた。そんな格好も気にせず、雄大は「いってきます」と私の頭を軽く撫で、愛車のキーを指で回しながら出ていった。
バタン、と閉まったドアの音。
ふぁああ、と大きなあくびをして、両腕をぐっと天井に伸ばす。さて、二度寝しようか。そんなことを考えながらリビングに戻った、その時だった。
ローテーブルの上に、見慣れたものが二つ、ポツンと置かれている。
黒い革の財布と、免許証。
「え…うそ…」
雄大の忘れ物だ。ゴルフ場まで結構な距離があるのに、どうするんだろう。慌ててスマホを手に取る。電話しなきゃ…いや、もう高速に乗っている頃かもしれない。どうしよう。
逡巡しながら財布を手に取った瞬間、ひらり、と一枚の写真が滑り落ちた。
床に落ちたそれを拾い上げて、私の思考は完全に停止した。
耳の奥で、キーンという高い音が鳴り響く。
そこに写っていたのは、満面の笑みでグラスを掲げる雄大と、彼の肩にぴったりと寄り添う、見知らぬ若い女性だった。背景は洒落たバーカウンターのよう。どう見ても、ただの同僚の距離ではない。
ザァッ、と血の気が引いていく。
呼吸が浅くなり、立っていられなくて、その場にへたり込んだ。
さっきまでの穏やかな朝が、すべて嘘だったかのように色を失っていく。ああ、そうか。だから最近、帰りが遅い日が多かったんだ。だから、新しい香水の匂いがしたんだ。無視していたパズルのピースが、残酷な絵を完成させていく。
涙が、ぽろぽろと頬を伝った。
でもそれは、純粋な悲しみの涙ではなかった。
パジャマにヘアカーラー。夫のために早起きする、生活に疲れた女。それが私の姿。写真の中の女は、完璧なメイクで、男を虜にするような笑みを浮かべている。
自分の愚かさに、惨めさに、涙が止まらなかった。
床に落ちた写真と、テーブルの上の忘れ物を、私はただぼんやりと見つめていた。
どうすればいい?
見なかったことにして、いつも通り「おかえり」って言うの?
それとも、帰ってきた彼を問い詰めて、泣きわめいて、みっともなく縋り付くの?
いやだ。
どっちも、絶対にいやだ。
その時、ふと脳裏をよぎった。リビングの机の引き出しの奥。そういえば、前に父が「お母さんの徘徊が心配だから」と買ってきたけど、結局使わなかった小さな機械があったはずだ。GPS…だったか。
「……届けるか」
呟いた声は、自分でも驚くほど冷たかった。
さっきまでの迷いは、どこかへ消え去っていた。
問い詰めるのでも、許すのでもない。第三の選択肢。
「このまま」では終わらせない。
私は涙を乱暴に拭い、洗面所の鏡の前に立った。
そこに映っていたのは、泣きはらした酷い顔の、生活感にまみれた女。
「……なめられてたんだ、私」
怒りに突き動かされるように、クローゼットを開けた。
一番奥にしまい込んでいた、一度も着たことのない派手なワンピースに手をかける。これは復讐のための戦闘服なんかじゃない。ただの、意地だ。
震える手で、いつもよりずっと濃い口紅を引く。
鏡に映ったのは、知らない女だった。怒りと決意で歪んだ、見たことのない自分の顔。
財布と免許証、そしてあの忌まわしい写真をハンドバッグに叩き込む。
カーナビにゴルフ場の名前を打ち込むと、聞き慣れた機械的な音声がルート案内を始めた。
浮気したら、どうなるか?
教えてあげる。
あなたが一番、想像もつかない方法で。
私はアクセルを強く踏み込んだ。日曜の朝の高速道路は、まるで私のために道を開けてくれているかのようだった。
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