第25話 眠れぬ夜の秘密
洞窟の中は静かだった。
湖から吹いてくるひんやりとした夜風が、入り口のつる草を静かに揺らしている。エメは目を閉じていたが、眠れずにいた。
嵐の海と、その中心で泣いていた幼いカイの姿が、脳裏に焼きついて離れない。
彼女がそっと寝返りを打つと、背を向けた闇の中から静かな声がした。
「……眠れないのか」
カイの声だった。
彼もまた、眠れずにいたのだ。
「…あなたも?」
「まあ、な」
暗闇の中で、カイがゆっくりと身を起こす気配だけがした。しばらくの沈黙の後、エメは身体を横たえたまま独り言のように呟いた。
「…カイの心は、ずっと泣いているのね」
カイは否定できなかった。なぜなら彼女はそれを「見た」のだから。
「……うるさい」
やっと絞り出した彼の声は、小さく、かすかに震えていた。
「…強いな、お前は」
カイはそれ以上言葉を続けられず黙ってしまった。彼は湧きあがる自分の感情に驚いていた。エメを危険な賭けに巻き込んだ。だからこそ、自分が守らねばならない存在だと思っていた。
だがカイが見たのは。
乾いた大地でたった一人、世界を繋ぎ止めていた、鋼の根を持つ花の姿。あれは、守られるだけのか弱い花などではなかった。
胸が締め付けられるようなこの感情は、畏敬なのか、それとも。
すると、エメがカイの方へゆっくりと向き直り、優しく囁いた。
「…カイ。あのね、」
それはまるで、幼い少女が小さな秘密を打ち明けるかのような、どこまでも無防備な響き。王女エメはどこにもいなかった。
「わたしの心には、時折恵みの雨が降るようになったから」
「……一人では、なかったよ」
その言葉が何を意味するのか。
カイは頭で理解していたが、心が追いつかない。
あまりにも温かいエメの言葉が、彼の心に波紋となって広がっていた。
「そ、れは、どういう……」
エメは、ふふっと小さく笑った。
「おやすみなさい、カイ」
「……おやすみ」
カイは自らの奥底にある荒れ狂う海が、凪いでいくような感覚に包まれた。
その夜二人は、短くも長い戦いの中で忘れていた、束の間の穏やかな眠りについた。互いの孤独の隣に、もう一人、眠れぬ魂がいることを知ったから。
◇
エメとカイが寝静まった頃。
長老の住処では、イリスとルナが静かな戦いを繰り広げていた。
そこに歴史書の山はない。
イリスは頭の中にある膨大な歴史の書庫を辿っていたが、スピネルに関する記述はあまりにも少なく、完璧に検閲されている。あるのは偉大なる治世と繁栄の歴史ばかりだった。
「…イリス」
ルナが何かをためらうように口を開き、意を決して言葉を続けた。
「…母が亡くなる間際に、一度だけ聞かせてくれた言葉があるわ」
突然の告白に、イリスがはっと顔を上げる。
ルナは遠い過去を見つめるように語り始めた。
「父が囚われたあの日。母は父と共に戦い、そして深手を負った。母は父の古い友人が命懸けで託してくれたという、この言葉をわたしに」
ルナは目を閉じ、幼い頃の悲痛な記憶を辿る。
「―――『太陽は永い冬に喰われ、若木には、氷の棘が…』」
「…ごめんなさい。幼かったわたしには、これしか覚えられなかった。これが何かの手がかりになるかは、分からないけれど…」
しかしその断片的な言葉を聞いたイリスの脳裏に、一冊の禁書が開かれた。
「永い冬……、棘……」
「…これは単なる比喩ではありません。女王スピネルは、最北の氷の国から嫁ぎ、その冷徹さから『冬の魔女』と呼ばれていました。そして彼女の名、スピネルが意味するのは―――『棘』」
ルナは言葉を失い、顔を青ざめさせた。
イリスは張り詰めた空気の中で、淡々と言葉を続ける。
「…ルナさん。『若木には、氷の棘が』とおっしゃいましたね。それは、女王スピネルが、王子ルビウスに『氷の棘』を打ち込んだ―――つまり彼女は何らかの呪術か儀式を行い、自らの思想で息子を染めた、という可能性が……」
二人の記憶が、一つに繋がる。
スピネルの遺した呪いの輪郭が現れはじめた。
「…待って、でも。そうだとして…なぜ、ルビウスの父は止めなかったの? 」
その誰もが思っていた、しかし誰も口にできなかった問いをルナがこぼした。その声はイリスの示したおぞましい結論に怯え、震えている。
「…自らの息子が心を壊されていくのを。妻が息子を歪めていくのを。彼はただ見ていたということ…?」
新たな謎が静かな洞に重く響き渡った。
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