第5話 鳥居視点3

 死んで樺の胸におれが焼きつくのならいいと、

あの時のおれは正直病んでいた。


 そして窓から地面にダイブしようとした時、背後から


『死ぬなーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!』


という怒声と共に、樺が抱きついてきた。

 樺の身体が背中に密着する。

 柑橘系のような良い匂いがした。萌えた。


 思わず鼻血が出かけたが、吉田の坊主頭の後頭部を

思い出して滾る感情を押し留めた。

 樺は必死に

『Love Or Die って、重すぎるだろ!!!』

『それに今、お前がここからダイブしたりしたら、

『死因・カラフト』になるだろーが! カンベンしてくれよ!!』 

と保身に走った言葉で説得してきた。

 そんな根性が汚い所も好きだと思えた。

 恋は盲目とは上手く言ったものだ。


 だが投身しかけたおれを即座に止めてくれた樺は凄い奴だ。

 普通、自分に言い寄ってくる気持ちの悪い相手を

守ったりしないだろう。

 おれは言い寄ってくる女子が飛び降りようとしても、多分

止めないだろう。救急車は呼ぶが。

 そういう計算高さが樺には無いのかもしれない。

 そう思っていると、


『お前、非道だよ。それでいいじゃん』


と言われた。そうか……。樺が言うなら、それでいい。

 確かにおれは非道だ。

 だから、おれに無いものばかりを持っている樺が好きで好きで

たまらなくなって、諦めきれなかった。

 絶対に諦めきれない。恋人同士になれるなんて思っていない。

 ただ、好きでいさせて欲しい。それ以外は望まないようにする。


 そう考えていると、樺は『何でオレを好きなんだよ?』という

ような事を訊いてきた。

 理由が沢山ありすぎて、全部語ろうと思うと801ギガくらい

容量が要りそうだ。

 語りきるまで樺は付き合ってくれるだろうか(反語)

 だから一つに絞れなくて『おれも何で樺を好きに

なったのか、よく分からん』と答えた。


『分からんのかよ!』と樺にツッこまれた。

『気づいたら、樺の事ばかり考えていた』

『やめろ! J-POPの歌詞かよ!』

『樺と浜辺で追いかけっことかしたらどうだろうと

妄想してみたら、ものすごい楽しかった。色々と』

『色々と!? オレを妄想のターゲットにして

愉しんでたのかよ!』


 その遣り取りに、おれは樺とつるんでいた頃の事を思い出した。

 泣きたいくらいに、温かい記憶。

 だから、自然に笑ってしまったのだ。

 あの頃、満たされていたのにおれは笑わなかったから。

 そうすると、樺は驚いていた。

 樺と居ると面白い。楽しい。幸せだ。

 樺と一緒がいい。


 そう口にすると、樺は『オレは剛力 彩芽ちゃんが好みなんだよ!

お前、腕力が剛力なだけじゃねーか!』と言い出した。

 なら、女に性転換して整形すれば樺はおれを好きになって

くれるのか? と真剣に問うたが、樺は『彩芽ちゃんコスの

お前を想像して吹いたww』と、大笑いしていた。

 そこは笑う所だったのか?

 樺は笑い過ぎて滲んだ涙を拭いながら話を続ける。


『そんな事しなくても、鳥居は鳥居だろ』

『樺……』

『ちょっ、その獲物に飛びかかる肉食獣の目は止めろ!』


 すまん……。お前の前では野生が目覚めそうになるんだ。

 それから樺とは、何となく連絡を取り合うようになれた。

 それだけで嬉しいと思えたのに、どうして人間の欲望とは

際限が無いのだろうか。


 おれは現実で叶わない欲求を紙にぶつけるように

小説を書き続けていた。それが何の因果か受賞し、作家として

やっていけるようになった。それが高校3年の頃だった。

 何だかよくわからないうちに小説がドラマ化したり、

舞台化したりしたが、あまり興味が無いので他人任せにしていた。


 大学を出ていた方がいいと思ったが、二束の草鞋を

こなせそうにないので、おれは作家の道に専念する事にした。

 樺には『何の小説を書いてるんだ?』と訊かれるのが

怖かったので『フリーターだ』と言っておいた。

 バイトも少しだけしていたので、嘘ではない。


 まさか『お前をモデルにした恋愛小説を書いているんだ』とは

口が裂けても言えない。

 複雑なもので、読者から『樺ちゃん(樺を男子として

書くと色々問題なので女子として描写していた)可愛いです』と

感想を貰うと、地味にイラッとした。樺の可愛さはおれだけが

知っておきたいと思ったのだ。あまりにも勝手な事だが。



 樺が大学に合格し、新歓コンパというもので知り合った女子と

付き合っている事を吉田経由で知った。

 樺は恋人が出来た事をおれには言わなかった。

 おれの気持ちを知っている樺なら、言わないだろうと思えた。


 勿論、相手の女子には嫉妬した。

 異性である事、樺の好みの容姿をしている事。

 おれがどう足掻いても敵わないものを生まれながらに

持っている相手が羨ましくて仕方なかったのだ。


 おれには見せない表情をその女子には見せているのだろうか。

 おれとの時間は、もう無くなってしまうのだろうか。


 だから、少しだけ、願った。



 樺の傍から、あいつを好きなヤツが居なくなればいいのに と。



 最低だった。

 樺が離れていった孤独の辛さを知っている癖に、おれは樺にも

孤独を強要したのだ。 

 おれは何処まで非道なのかと自分を責め続けた。

 樺には謝っても謝りきれない。


 ちなみに、その所為で原稿を幾つか落としかけた。

 担当の今井(仮名)が『先生! 原稿をお願いしますよ! 

仕上げてくれないと僕は、ちまき川に飛び込みますよ!』と

土下座していた。

 面倒なので『そうしてくれ』と告げると、今井は号泣しながら

走り去った。仕方ないので追いかけると、ヤツは

近所のファミレスでコーヒーを飲んでいた。お前の所の原稿は

適当に書いてやる と心の底からいらついた。



 そうしていると、樺から相談を受けた。

 辞書を買いたいので買物に付き合って欲しい との事だった。

 樺から頼りにされた……! と、前日は

緊張と興奮で眠れなかった。

 勿論、彼女のいる樺が他の相手に靡くわけもなく、おれを

恋愛対象として見てくれていない事も熟知していたので、何事も

ないまま普通に喋り、普通に飯を食い、普通に帰宅した。

 それでいいと思えた。


 樺の世界におれが居られるのなら、それでいい。



 だが、その日々は続かなかった。

 携帯電話に樺から電話がかかってきたのだ。

 また辞書の相談だろうか。英語でもドイツ語でもスワヒリ語でも

何語の辞書でも迷わずに説明出来るように勉強していたので

ソワソワしながら電話に出た。


 すると、見知らぬ女からだった。

 色々と話しかけてきた気がするが、正直どうでも良かった。

 むしろ何故お前が樺の電話を使用しているのかという疑問が

胸を支配する。

 女の名前を聞いてから、事態を察した。


 樺の恋人だ と。


 あろう事か彼女はおれに乗り換えようとしていた。

 おれの心境は今時の言葉で表現するならば『激おこ』状態だった。

 樺のような色々凄い上に気遣いも出来て面白い性格で

人望もあり、可愛くて格好よい男を恋人にしておきながら、

非道で人間のクズのおれに乗り換えたいとは、

お前は何を考えているのかと。

 いや、それよりも何よりも、樺を傷つけようとする相手は

誰であろうと許せなかった。

 この事を知ったら、樺は哀しむだろう……。

 おれは悩んだ。

 勿論、原稿は落としかけた。


 今井は『先生! また締め切りがヤバい事になってますよお!

何悩んでんですか! 誰か殺したい相手でもいるんですか!?

そういう顔してますよお!?』と後ろで騒ぎ出した。五月蝿かった。

 お前ともう1人殺したい相手がいる と伝えると、

『僕はムリですが、もう一人をコロせば原稿をしてくれますか!?』と

血走った目で台所から包丁を持ってきた。包丁は捨てた。

 


 どうすれば樺は幸せでいられるのかと悩み続けて、何も手が

つかなかった。おれでは樺を幸せに出来ないと分かっていたから。

 せめて樺を守りたいという結論に達した。

 だから、嫌で仕方なかったが、樺の恋人とも逢ってみたのだ。

 剛力 彩芽似だった。

 おれは剛力 彩芽が嫌いになった。


 剛力(仮名)は色々と誘いをかけてきたが、そのどれにも

曖昧な返答をしつつ、録音しておいた。

 もしも何かがあった時、これが役に立つと思ったのだ。

 まさか本当に役に立つとは思わなかったが。


 余談だが、おれの様子にただならぬものを感じた今井が

尾行して録画していたらしい。

 それを見つけて問い詰めると『先生の弱味を握れば

原稿をしてくれると思いましてえ!』と口にしていた。

 今井の『いまい』は忌々しいの『いまい』だとイラッとした。


 それから何度か剛力に誘われたが、全て断っていると

ぷっつりと連絡がこなくなった。

 樺の元に戻ったのだろうか。何事もなく幸せに過ごして

いられるのなら、それがいいのだろう。

 樺が永久に幸せでいられるように と神社に参拝しておいた。

 いつか訪れる式の時の為に、祝儀も用意しておいた。

 樺から連絡が無かったが、剛力と上手くやっているのだろう と

狭い部屋の小さな窓から空を見上げて目を細めたものだった。




 その晩、執筆中に樺から電話がかかってきた。


 樺は泣いていた。


 何かあったのか!? と、タクシーを呼んで樺の家に

飛んで行こうとしたが、電話口からは『いや、来んなよ!?

絶対来んなよ!?』と先読みされた言葉が返ってきた。

 どうやら樺は剛力と上手くいかなかったらしい……。

 酔っ払っているらしい樺の言葉は、胸を引き裂かれるように

痛々しいものだった。傍にいられないのが辛くてたまらなかった。


『もうオレ、学校行けない』

 なら辞めておれの元に来ればいい。お前一人くらい余裕で

養える と告げるも、今度は『フラれて死にたい気分が

ようやく分かった。ちまき川に沈んでくる』と言い出した。

 川に沈んだなら、何度でもおれが助けるし、お前が

沈もうとしたら、高校時代のようにビート板を腹に

結びつけるぞ と告げた。

『でもお前とは付き合わない』

 それでいい。弱っているお前を追い詰めておれのものに

した所で、お前は幸せになれないだろう と語り続けると、

受話器の向こうから嗚咽が聞こえてきた。


 樺は子供のように泣き続けていた。


 おれは人生で、ここまで他人を憎めるのかと思う程に、

怒りに駆られていた。出来る事なら、樺を苦しめる全てを

この世から消し去ってやりたい。

 だが犯罪行為に手を染めては樺にも迷惑がかかってしまう。

 樺の濡れ衣を晴らし、彼を健全な大学生活に戻す為に、

正攻法で攻める事にした。

 今井から録画したデータを取り上げ、樺の大学に向かったのだ。

 今井が『ボーナスで買った、僕のキャメラー!』と

叫んでいたが、無視した。



 女が多い場所は騒がしくて苦手だったが、我慢して

剛力を捜した。彼女の友人、取り巻きが居るのを見つけたので、

近づくと剛力達が騒ぎ出した。


『キャー! やだ、イケメン!』

『外人!? 外人なの!? キャー! キャー!』

『モデルなんじゃないの? 足、なっがーい!』

『でしょ? イケメンでしょー?』


 何故か得意気な剛力の前で、例のデータを大音量で再生した。

 途端に凍りつく剛力。白い顔が青くなっていくのが分かった。

 ついでに今井の盗撮画像も再生した。

 剛力の顔から表情が消失した。

 更にトドメとして、それをプリントアウトした束を

辺り一面にばら撒いた。

 ゴミを撒いてすまん とは思ったが、

樺の無実を証明するには、あいつの傷口を広げた『噂』という

方法で傷を閉じるのが早いと思ったのだ。


 剛力は友人や取り巻きらに問い詰められていた。それでも

気が済まなかったので、帰り際に言い残した。


『お前と付き合うくらいなら、ビート板と添い遂げた方がマシだ』


と。


 自分でも意味不明だった。いや、ビート板は浮くし……

役に立つから、剛力より魅力的なのだろう。たぶん……。

 これで樺が大学生活を無事に送れればいいのだが と

思っていると、突然樺が家に来た。

 連絡してから、来てくれ……と心の底から思った。

 原稿の真っ最中で、服装はTシャツとジーンズだったし、

部屋の中は惣菜や弁当のカラで溢れていたからだ。

 この部屋の素敵な部分は、黒猫のような壁の

しみくらいだろう。

 その黒猫のしみに樺は驚きつつも、

『鳥居、ありがとうな!』と駆け寄ってきた。土足で。


 元気になったようで良かった……と胸を撫で下ろしていると、

樺は『オレの気が済まないから、何か言ってくれ!』と

言い出した。

 一瞬、色々と血迷った。

 学生時代のあの時のように、半分食ったドーナツをくれ とか

玉子焼きを食わせてくれ とか 飛び降りかけた所を

背中越しに抱き締めて止めてくれ とか言いかけた。

 変態と思われるのがイヤで言わなかったが。


 樺は『あ、でもやらせろとかはナシな!』と付け足した。

……お前はおれをどういう目で見ていたんだ? と

落ち込みかけたが、何か願い事をしなければ樺は

納得しないようだった。

 樺は興奮気味に拳を握り締めている。


『オレを神龍だと思って何でも願い事を言ってくれ!』

 確か神龍は自分の力が及ばない願い事を叶えられないという

設定じゃなかったか?


 樺に出来そうな事は……。


 玄関の靴を揃えてくれ とか郵便受けから手紙を

とってきてくれ とかだろうか?

……いや、そんな小学生の手伝いのような事を言えば

確実に激怒するだろう。

 樺でも出来そうで、なおかつプライドを

傷つけない願い事となると……。



『……ポンデリングが食べたい』



 学生時代に樺を意識する切欠になったドーナツショップを

思い出していた。

 これなら高価なものではないし、おれの家からミスドは

近いので、樺が道に迷ったりしないだろう。

 何より、ドーナツを持っている樺は可愛いと思う。


 と、考えていたのに、何を思ったのか樺は店にあるだけの

ドーナツを買って帰ってきた。ミスドの箱を両手と

背中に担いで歩いている樺。……格好良かった。

……いや、気を回したつもりが、樺を

ヘンな方向に頑張らせてしまったようだ。


 それでも樺の気持ちが嬉しくてたまらなくて、おれは

ポンデリングを貪り食った。めっちゃ美味かった。

 樺がおれの為に買ってきてくれたのかと思うと、

保存用と観賞用と食用に分けておいておきたかったが、樺は

『腐るだろ!』とツッコミを入れてきた。残念だ。


 ドーナツを食べていると、樺が急に

『お前、何食べてんの!?』と、台所を見ながら騒いでいた。

 鍋も炊飯器も置いていない、物置状態の台所。

 かろうじて置いてあった包丁は今井が自害用に使おうとするので

捨てた……と説明するべきか悩んでいる間に、樺に

『自炊しねーのかよ!』と問い詰められた。

 野菜を茹でようとはしたが、溶解して危ないので

料理はしないようにしている。


『野菜が溶ける!? お前、どれだけ茹でてたんだよ!?

鍋に酸でも入ってんのかよ!?』

 今日も樺は面白い。

 だが、樺は『ちょっと待ってろよ! 直ぐ戻るからな!』と

言い残して部屋から出て行った。


……少しぐらい、料理が出来る所を見せた方が良かったのだろうか。

 樺に呆れられてしまったかもしれない と自己嫌悪に

陥りつつ、ポンデリングを自棄食いしていた。

 そうすると、アパートの前に自転車が停まる音がした。

 金属の階段を駆け上ってくる音も聞こえた。


『おい! 鳥居!』

 今度の樺は両手と背中に土鍋やらフライパンをかついでいた。

『炊飯器は重くて持ってこれなかったから、土鍋持ってきた!

これで米炊くから!』

 米は家に無い……と言いかけたが、樺は『そうだと

思って、米持ってきた!』と、何処からともなく白米を取り出した。

 相当の重量の上に、樺の家は此処から遠い。


 疲れているだろうに、あいつは『じゃあ、今から米炊くから!』と

台所を片付けつつ、土鍋で米を炊き始めた。

 何か手伝おうかと周囲を歩き回ってみたが、直ぐに

『デカいのがウロつくと邪魔だから、座ってろ!』と怒られた。

 邪魔にならないように座布団の上で正座していると、今度は

『お前……笑点の座布団が無い人みたいだぞ!』と笑い出した。

 樺が笑ってくれるなら、山田に座布団を全て

持っていかれてもいい、と思えた。


 樺は鶏肉を捌き、卵やネギとからめて親子丼を完成させた。

『ほら、ありあわせだけど、食えよ』と告げる樺は格好良かった。

 嬉しかったので親子丼を携帯で撮影して待受にしようとすると

『お前、ツイッターに画像を上げる女子かよ!』と

止められた。残念だ。


 そして親子丼は有り得ないくらい美味かった。

 どうやら樺は学生の頃から自炊していたらしい。

 昔、食べさせてもらった玉子焼きも樺の手製らしい。

 樺はすごいな……。

 それから樺に『他に何が作れるのか』と質問してみると、

あいつは、ものすごいハイレベルな返答をしてきた。


 餃子→皮から作る

 カレーパン→カレーもパン生地も自家製

 肉まん→皮から(ry

 ハンバーガー→パンも具も自家製


 樺は総菜屋を開業出来るな と思った。

 そして樺がエプロンを身につけて料理している絵図を

想像すると、鼻から出血しそうになったので、己の膝を

抓って煩悩を追い払った。


 だが、耐え切れずについウッカリ『嫁に来てくれ』と

血迷った事を口にしてしまった。

 また樺に嫌われてしまう と焦ったが、あいつは

『行かねーよ!』と顔を赤くして叫んでいた。

 以前と少しだけ、反応が違った。


 そんな樺に戸惑ってしまい、おれは皿を割った。

 その後、樺に怒られたり、樺を壁に押し付けたり、隣室の

十勝が飛び込んできたりした。十勝は驚きのあまり

サングラスがズレていたが、まあどうでも良かった。

 色々あって疲れたらしい樺は、

夜も遅いので泊まっていく事になった。


 おれと同室でいいのか と心配になったが、樺は

『いいよ。お前の人柄を見てたら、オレが嫌がる事とか

絶対にしねえって分かるからな』と言い切った。

 その樺の信頼を裏切らないように、おれは

心の中で般若心教を唱えながら執筆していた。


 だが、幸せだった。

 後方から聞こえる寝息に振り返ると、樺が熟睡していたからだ。

 寝顔を見るのは修学旅行以来だ。

 あの時は枕投げ勝負を申し込まれた所為で、樺の顔面に

枕の跡がついてしまっていたが……。

 寝ている樺を起こさないように、間接照明を使った。

 それから、ちょくちょく樺は遊びに来た。

 おれの家の方が大学から近いからだろう。

 自宅に戻るよりも手っ取り早いらしい。

 その内、樺の私物が増えていった。

 台所に置いてある歯ブラシが二個になった時、実は嬉しかった。

 樺は家賃や光熱費を払うと言って譲らなかったが、

『じゃあ、これだけ払ってくれ』と指を1本立てると、

相手は驚いていた。


『はあ!? 一万円!? 安すぎだろ!?』


……いや、100円のつもりだったんだが……と口にすると怒られた。

『お前と対等で居たいから、家賃も光熱費も折半が

いいんだ! ……転がり込んだのは、オレだし……

迷惑とか、これ以上かけられないし……』

『迷惑とは思っていない』

『……いや、迷惑とかな、その、オレ……、お前の

生活能力が無さ過ぎて心配だから、な?』


 嬉しかったので樺を携帯で撮ろうとすると、また怒られた。

 だが、樺が傍に居てくれればそれだけでいいのだが、あいつの

気持ちの折り合いもある。

 なら美味い飯を作ってくれ と家事を頼むと、樺は

『それだけじゃ気が済まない!』と、まだ折れない。


 じゃあエプロンをつけて家事をしてくれ と言うと

『それだけか!? それだけなのか!?』と割烹着を

着ていた。……エプロンと言ったんだが……。

 そんな葛藤やぶつかり合いもあり、樺は家事担当、

おれが稼ぎ担当になった。


 部屋が狭い上に風呂が無いので、広い家に

引っ越そうかと提案したが、樺は

『別に此処でいいんじゃないか?』と

さして不満に思っていないようだった。

 樺は銭湯が好きらしいので、風呂の無い生活に

不自由を覚え無いようだ。おれも銭湯は好きなので嬉しい。



 だが樺は口篭る。

『あ、でも、オマエが仕事する時、一人部屋のが

集中出来るっていうなら……』

『別に耳元で遮断機が鳴っても気にならない』

『どういう集中力だよ!?』

 お前が傍に居てくれると、お前しか見えてないから

周囲の雑音とか、どうでも良くなるんだ と告げると、樺は

思いきり顔を背けた。


『ハズカシー事、言うなよ!』

 そう言いながら、右手と右足を同時に前に出しながら

掃除機をかけ始めた。



 やはり樺は可愛いし格好いい と惚れ直したが、

そう思っているのはおれだけじゃないようだった。

 樺は老若男女問わずに好かれるが、隣室の十勝や

階下の細井にも気に入られているらしい。


 十勝は樺に差し入れをしているみたいだ。

 おれと違い、十勝は料理の腕前がプロだ。

 料理について熱く語り合う姿に、胸の中がざわついた。

 おれも樺と会話したい! と思ってしまい、台所で即座に

玉子焼きという名の炭を作成してしまった。

 おれには料理の才能が皆無のようだ。


 十勝と樺の料理話は盛り上がっている。

 だから思わず妬いてしまい、黒こげの玉子焼きを樺に

差し出しながら『妬いた』と告げるも、あいつには

あんまり通じていないようだった……。


 そうしていると、階下の細井が『お、おはようございまぁすぅ……』と

小動物のように怯えた姿で挨拶してきた。

 樺に話しかけているのか? と思い、

思わず手すりから身を乗り出すようにして細井を見ると、

『そそそそんな殺人犯みたいな顔でボクを見ないでくださぁい!

ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!』と泣かれた。

 即座に樺に服を引っ張られた。


『鳥居! お前何してんだよ! 狂犬みたいな顔で

ご近所に絡むなって言ってるだろ!』

『……別に普通の顔だが』

『嘘つけ! 殺意の波動が出てたぞ!』

 ばれたか……。

 樺に怒られたが、おれは結構、嫉妬深いのかもしれない。



 樺が他人から好かれるのは非常に喜ばしい事だが、

下心がある輩が近づいてくるのは阻止したい。

 と、樺に話すと「お前の方が下心がヤバいだろ!

オレが寝てる隙に、布団に侵入して

こっそり抱き枕にしやがって!」と悪事がバレていた。

 樺は子供体温なので、寒がりのおれには有難いほどに

温かかったのだ。

 おれは寒さのあまり、いつも丸まって寝てしまう。

 

 だが、樺は寝ている所にいきなり冷え性の男に

布団に潜り込まれた所為で目が覚めたらしい。

 正座させられ、怒られた。

「オマエ、すげー冷たかったぞ! コンクリートの塊が

入ってきたのかと思った! 筋肉かてぇよ!

文系なのに、どんだけ鍛えてんだよ!」

 遺伝だ と伝えると『遺伝すげぇ!』と驚いていた。

 だが樺は我に返ると、咳払いをした。


「遺伝はともかく、とりあえず湯たんぽ使えよ!」

 湯たんぽは小さすぎるし、水を捨てるのが面倒くさい と小声で反論すると、

「だからって、オレを湯たんぽ代わりにするな!」と、また怒られた。

 そうしてから、樺が付け足した。


「寒くて眠れねぇなら、手ぐらいなら

繋いで寝てやってもいいけど……」


 いいのか!? と立ち上がり、拳をバキバキ鳴らすと、樺が

「わーっ! 何する気だよ!? オレの手を

握り潰す気か! バカ!」と慌て出した。

 慌てる樺も素敵だった。


 外では手を繋いでくれないが、家の中では

「仕方ねーなー」と繋いでくれるようになった。幸せだ。



 そんなわけで、おれは平和で幸せに暮らしている。

 樺が居てくれれば、それだけでいいものだ。

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