黒い足跡

 はるかいにしえの世。

 現世うつしよ幽世かくりよが、薄膜のように重なり合う国があった。

 人はそれを「影見かげみくに」と呼んだ。


 人と妖は互いの境を越えぬことを“影契かげちぎり”とし、長き時をかけて危うい均衡を保ってきた。

 しかし──ある夜、その契りは裂けた。


 裂け目から現れたのは、血と憎悪を糧とする獣妖──「兎鬼とき」。

 月影を踏み、闇を裂く彼らは、人里を襲い、喰らい尽くし、骨すら残さず、そして嘲るように嗤った。


 ──少なくとも、史に記されたのはそういう話である。

 だが、その群れの先頭には、ひときわ異質な影があった。

 漆黒の毛並みの兎鬼、人も妖も容赦なく斬り伏せる剣の使い手──黒羽くろはね


 その夜の光景を、薄暮はくぼは忘れない。

 炎に染まった空、母の叫び、嗤う兎鬼の眼。そして、全てを率いていたあの黒い影を。

 あれを討たねば、わたしの剣に意味はない。


 だが、里を出て三年、黒羽の足取りは未だ掴めていなかった。



 ──そして今夜もまた、刃が必要とされている。


 薄暮は被衣を纏い直す。

 薄暗い街道の先、山霧の中から、獣の臭いに混じって鉄錆の匂いが漂ってきた。

 静かに、だが足早に山道を駆け上がる。


 🐰⚔️


 山道の奥には、古びた廃寺がある。

 野盗が住み着いたとの報せで、調査依頼が下った。

「無益な殺生はするな」との指示ではあったが──


 知ったことか。


 先程の連中の様に、自ら刀の錆になりたい輩に、譲歩してやる必要はない。


 進むにつれ、血の匂いが濃くなる。

 やがて道端に、上半身を欠いた奇妙な石仏が立っていた。

 ……そう見えたのは一瞬だけ。


 正面から袈裟斬りにされた死体が、石仏の台座に凭れかかり、足元には砕けた石仏の上半身と共に転がっていた。

 人間と石をまとめて断ち割る、一太刀の力。


 獣の爪牙ではない。

 鋭く迷いのない刃筋──見覚えがある。


「……この斬り口は──」


 湿った風が頬を撫で、羽音のような響きが耳の奥を掠めた。

 薄暮は足を止め、空を見上げる。

 そこには何もない。ただ、夜の闇が広がっているだけだった。


 山道はさらに狭まり、両脇から鬱蒼とした杉の枝が垂れ下がる。

 風は止み、耳に残るのは自分の呼吸と足音だけ。


 二つ目の死体が現れた。

 喉元から腰まで斜めに断たれ、腰の刀は抜かれていない。

 反撃する間もなく、一瞬で“消された”のだ。


「速すぎる……人の業か、妖の牙か」


 刃筋はやはり無駄がなく、ただそこに立つ者を排除するための一閃。


 廃寺の山門が見えてきた。

 朱塗りの柱は黒く煤け、半ば崩れ落ちている。

 足元には三つ、四つ……血の染みが黒く乾いていた。


 門をくぐる瞬間、また羽音が耳を掠める。

 今度は明確に、背後から。

 振り返る──しかし、山道は静まり返っている。


「……付けられている?」


 薄暮は太刀に軽く指を添え、境内へ足を踏み入れた。

 苔むした石畳には、斬り飛ばされた草履、砕けた木刀、野盗の屍が散らばっている。

 いずれも刀を抜いた形跡すらなく、一刀のもとに沈められていた。


 境内を抜け、本堂へと向かう。

 そこでは頭目と思しき男が、本尊の前でなます切りにされていた。

 恐怖に引き攣った顔で、既に何も写さない眼が天井を仰いでいる。

 血はまだ乾ききらず、殺されてから数刻も経っていない。

 散らばった衣から察するに、情事の最中だったのだろう。

 だが、女の姿だけがどこにも見当たらなかった。


 ──カタリ。


 本尊の裏から微かな音。

 薄暮は「カチリ」と鯉口を切り、音を殺して覗き込む。


 そこには全裸の女がいた。

 口を押さえ、涙を流しながら震えている。


「──おい」


 声をかけると、女は壊れた人形のように首を向け、蒼白な顔で囁いた。


「た、助けておくれよ!!」


 蜘蛛のように這い寄り、薄暮にすがりつこうとする。

 だが、薄暮は身を躱した。


「──臭い」


「えっ?」


「お前……そこの男の血の匂いがする」


 被衣を外すと、女の表情が歪む。


「半妖かい。その耳と髪、すぐ分かるよ。……で?半妖風情が、何しに来た?」


「別に。ただの調査。でも──”はぐれた妖は、見つけ次第斬れ”と言われている」


 女の顔が憤怒に歪む。


「──ほざいたね……誰が誰を斬るって?」


 口が裂け、牙が伸びる。

 両目の周囲に六つの眼が開き、背中を突き破って四本の腕が生える。


「女郎蜘蛛……」


「そうさ。あたしの姿、美しいだろ?」


「……お前が表の死体もやったんだな」


「表? 知らないねえ」


 ──やはり、黒羽の痕跡か。


「そんなことより──その舐めた口の落とし前、つけてもらうよ!」


 女郎蜘蛛の腕が鎌状に変化していく。


 薄暮は刀を抜いた。

 月明かりを反射し、妖の骨を溶かして鍛えた刀身が赤く光る。


 両者、構えを取る。


「──覚悟はできた?」


「抜かせ!半妖風情が!!」


「『死ねッ!』」

 

 女郎蜘蛛が咆哮を上げる。八つの眼がぎらつき、六本の腕が鎌のように振り下ろされる。

 石畳が割れ、砂利が飛び散った。


 薄暮はひらりと後ろへ跳び、刀を構える。

 月光を反射する刀身が、赤く脈動していた。


 「──来い」


 女郎蜘蛛は蜘蛛糸を吐き出し、四方に張り巡らせる。

 粘ついた糸が夜気を切り裂き、廃寺の柱を軋ませた。

 薄暮の足首にも一本が絡みつく。


 「逃がさないよ、半妖ッ!」


 鎌の腕が迫る──が、その軌道は妙に鋭かった。

 まるで、訓練を積んだ剣士の太刀筋のように、無駄がない。


 「……この刃筋、まさか」


 女郎蜘蛛は笑う。


 「どうしたい、震えてんのかい? これはね、“あの方”から教わった技さ」


 「“あの方”……?」


 八つの鎌が一斉に襲いかかる。

 薄暮は刀を閃かせ、蜘蛛糸を断ち切りながら身を翻す。

 斬撃と斬撃が交錯し、火花が散った。


 「速い……だが、重さが足りない」


 薄暮の目が鋭く光る。

 女郎蜘蛛の刃筋は確かに黒羽の太刀に似ていたが、そこには“命を絶つ覚悟”がなかった。

 ただ真似しているだけ。影の模倣に過ぎない。


 「紛い物め」


 一瞬の隙を突き、薄暮の刀が閃く。

 鎌の腕を斬り落とし、さらに胸元を縦一文字に裂いた。


 女郎蜘蛛は絶叫し、糸を吐き散らしてのけぞる。


 「クソッ……あの方に、顔向けできない……!」


 「やはり黒羽か……」


 薄暮が踏み込み、最後の一閃を浴びせる。

 女郎蜘蛛の身体は宙を裂かれ、黒い血を撒き散らして倒れ込んだ。

 残されたのは、蜘蛛の脚が痙攣しながら縮んでいく音だけだった。


 薄暮は刀を払う。

 ──だが、女郎蜘蛛の言葉が胸を刺す。


 「あの方……やはり黒羽、お前は……何を企んでいる」


 夜風が再び吹き抜け、耳の奥にあの羽音が残った。

 薄暮は思わず、闇の空を見上げた。

 そこには何もない。ただ月だけが、不気味に煌めいていた。


 女郎蜘蛛の身体は、痙攣を残して動かなくなった。それでも黒い血は流れ続け、広がっていった。


 薄暮は刀を払うと、深く息をついた。


 「……紛い物でも、厄介な真似をする」


 本堂の奥を見渡す。

 倒れた頭目の死体はなおも恐怖に引き攣ったまま、血に沈んでいた。

 その近く──木柱に刻まれた斬撃の跡に、薄暮は目を止める。


 「……これは」


 柱を斜めに裂く太刀筋。

 女郎蜘蛛の腕では到底残せぬ、鋭く正確な一閃。

 しかも、刃が止まる寸前で力を収めている。

 “殺す”ためではなく、“見せる”ための斬撃。


 薄暮は思わず背筋を強張らせた。

 「黒羽……お前か」


 床には羽毛のような黒い毛が一筋、落ちていた。

 拾い上げると、湿った夜気の中でも冷たい気配を纏っている。


 その瞬間、廃寺全体を吹き抜ける風が、羽音を伴って揺れた。

 まるで、ここにいた証を残すかのように。


 薄暮は柄を強く握り締める。

 「見ているんだろう……黒羽」


 しかし、答えはない。

 ただ月光が崩れた屋根の隙間から差し込み、血と灰を照らしているだけだった。


 ──闇に潜む仇敵は、確かにこの地を通った。

 その事実だけが、薄暮の胸を焼いていた。


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