私は聖女ではなく普通の調香師なので、王子様に愛される理由はありませんが!?
秦野まお
プロローグ
私って、なにがしたくてあの仕事に就いたんだっけ。
最寄り駅から、自宅マンションまでの夜道を歩きながら、伊勢紗理奈はぼんやりと考えた。
街はまだ明るい。駅には仕事帰りのサラリーマンや学校終わりの高校生が歩いていて、その多さに圧倒されそうになる。まだ明かりのついている駅前の店のガラスに映る私は、久しぶりの満員電車に揺られて、後ろでひとつにまとめた、おだんごすら疲れ果てて力なく見えた。なんだか頭の先から、オフィスカジュアルに合わせた白の長袖ブラウスに、ベージュのパンツスタイル、そしてパンプスの先まで、全体的にくたびれている。
ひどい姿。
そんなことを思いながらぼんやりしていれば、すれ違いざまにスーツ姿の男性と肩がぶつかった。すいませんと頭を下げたけれど、相手は私のことなんて気にせずに去っていく。まるでこれだけ人がいるのだから、ぶつかるのは当然とでもいうように。
いや、多分、珍しいことじゃないんだ。
この街には、こんなに人がいるから。
そう思って、毎日降りているはずの最寄り駅が、急に違うように見える気がした。私の知ってるこの駅には、こんなに人はいない。
けれど多分、人が急に増えたわけじゃない。私が人のいない駅に慣れてしまっただけだ。
19時頃に最寄り駅に到着するのなんていつぶりだろうと思う。こんなに、人が外に出ている時間に家に帰れるだなんて。ここ最近は23時過ぎとか、下手をしたら日付が変わっていることも珍しくなかった。嫌みな上司に私が確認を頼んだ仕事を、あれやこれやと理由をつけて何度も却下されて、その修正をしなきゃいけなかったから帰ることができなかったのだ。
地方で育って、大学から東京に出てきて、そのまま就職して、三年目。小さい頃からいろんな香りが好きだったから、大学でもそれに近しいことが学べる学部に行って、それから望んだとおりの好きな仕事に就いた。
はずだった。
調香師。食べ物ではなく、純粋な香りを扱っている私はパフューマーと呼ばれる職種だ。ずっと憧れて、内定が決まったときは思わず叫んでしまうほど嬉しかった。
それなのに、最近は好きだったはずの香りを扱っていても憂鬱で。
仕事は、やりたくなくてもやらなければならないこと。そう、割り切っている。けれど、自分がやっていることの意味が分からないのに、どうしてやる気を出すことができるだろう?
それでも頑張っているのに、提案は何度も却下されて。
締め切りは決まっているのに却下されてばかりで通らない。だから、残業をするしかなかった。そうじゃないと、間に合わないから。
髪を切りに行く時間もなくて、伸びすぎた髪はもう面倒で、おだんごにするようになった。長い前髪だってオールバックでおだんごに入れ込んでしまっている。前髪にこだわっていなくてよかったとつくづく思う。こだわってたらこの状況に多分耐えられていなかったから。
そこまで洒落っ気がないのも、我ながらどうかと思うけれど。
でも、洒落っ気がなくて、彼氏もいなくて、香り以外に好きなものもろくにないような生活をしていたから、なんとか仕事に耐えられたのかもしれない。
家に帰っても寝るだけ、起きたらすぐ出勤で、また上司のわがままに答える生活に。
分かっている。あの上司は、私に嫌がらせがしたいだけだ。私の提案を却下しながら、締め切りを守れないようじゃ仕事を回せない、なんて言って、私を脅すことに楽しみを見いだしている。なんて嫌な性格の男だろう。私が残業して働いている姿を見ながら嫌みを言って、鬱憤を晴らしているのだ。家庭環境が上手くいってないのだって、全て身から出た錆だと言うのに。
結局今回だって、最初の提案が採用された。頑張ったのに無駄だったね、って笑う顔を思い出してまたムカついた。なんとか握った手に力を込めて、笑顔でその場を乗り切ったのは、私自身でも大分頑張ったと思う。
とぼとぼと夜道を歩く。コンビニの袋がシャカシャカ音を立てる。この時間に帰っても、自炊をする気力なんてないからいつものように菓子パンを買ってしまった。深夜帯じゃないから、いつもとは違う店員さんだった。
昨日も疲れ果てて、メイクを落とすのすら忘れて寝てしまった。せめて今日は、きちんとしてから寝たい。
そう思いながら歩いていると、ふと明るい店が目に入った。
こじんまりとした、アンティーク感のあるお店。マンションが並んでいる中で、そのお店は異質だった。
こんなところに、お店あったっけ。
最近まともな時間に帰宅していないから、気がつかなかっただけかもしれない。繁華街ではないこの辺りは、私の帰る時間には大体静まりかえっている。でも今日は、いつもならとっくに明かりが消されているようなお店も、まだ営業している。いっつも早く帰りたいとしか思ってなくて周りなんか暗いしよく見ていないから、私の知らないお店がひとつくらい増えていてもおかしくはない。
雰囲気のよさそうなお店だと思った。そもそもなにを取り扱っているのだろう。
最近、ろくにショッピングもしていない。通販は、夜中に疲れてぼんやりとした頭で意味の分からない猫の置物を買ってしまってからは触れないようにした。生活必需品はもっぱら24時間営業のコンビニで買っているし、そもそも家に帰って寝るだけならあまり減らないし。
雑貨とかあれば見たいな、と思ってパンプスのつま先をそちらに向けた。
木製の取っ手を手前に引けば、からんからんと軽やかにベルの音が鳴る。
店の中はオレンジの温かい光に包まれていた。店員はいないのかな、と思いながら、店の中に足を踏み入れる。
店内には、綺麗なビンが並べられていた。装飾の美しいビンが多い。その前には小さなペーパースタンドがある。そこに書かれている内容には、見覚えがあった。
「……香水だ」
トップノート、ミドルノート、ラストノート。第一印象から長く残る香りまでの変化を示すものだ。
どうやら並べられたビンはテスターのようだった。ひとつ、桜色のものを手に取って自分の手首に吹き付けてみる。いつもなら紙に吹き付けたりするけれど、見当たらないし、一仕事終わった後なんだからまぁいいか、と思ったからだった。
香りの詳細についてもあまり見なかった。いつもならじっくり見るのだけれど、今日は見ない。ぱっとつけた香水から漂う初めての香りに、心躍らされてみたい。そんな気分だった。
手首につけた瞬間甘い香りがした。
「……あ」
頭がふわふわする。手に力が入らなくなってハンドバックが足下に落ちる。香水のピンも手元を離れて、激しく割れる音がした。
ぐらりと、視界が揺らぐ感覚がして、紗理奈は意識を失った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます