花札夜話

チャッキー

第1話 札の家へ



 木造の床が軋むたび、どこかから濡れた風が吹き込むような音がした。


「うわ、すご……本物の古民家だ……」


 そう呟いたのは鳴海透。

 赤いキャップを後ろ向きにかぶり、胸元にGoProを付けた青年は、興奮したように柱の彫刻や欄間にスマホを向けていた。


「佐倉さん、ほんとにこんなとこに姉さんが来てたんですか?」


 大学生の佐倉澪は、その問いに答えず、玄関の敷居に立ったまま黙っていた。

 八朔家――山奥にひっそりと佇むこの旧家は、彼女の姉が最後に姿を見せた場所だった。

 一年近く経っても、姉の行方はわからない。

 だが最近、澪のもとに一通の手紙が届いた。


《姉は、花札の家にいる。札を起こしてはならない。》


 差出人のないその便箋には、ただそれだけが書かれていた。


「……どうかした?」

 澪のそばに立っていた青年が静かに問いかける。

 スーツのような装いに眼鏡をかけた、落ち着いた雰囲気の男――東堂壱哉。

 心理学を研究しているという彼は、偶然にもこの家に関心を持ち、今回の調査に同行することになった。


 澪は小さく頷くと、懐から手紙を取り出し見せた。

 その紙には、古びた“札の模様”が押印されていた。


「やっぱり……これは“封札印”ですね」

 どこか呆れたような、懐かしむような口調で、東堂が言う。


「これを見たのは十年ぶりです。私はかつて、この家で一夏を過ごしたことがあります。あのとき……“札の音”を聞いたんです」


「札の音……?」


「札がね……誰もいない部屋で、勝手に裏返る音です。パチン、パチンって。あれはまるで、何かを始めろと囁く音だった」


 と、そこに。


「ちょっとちょっとお二人さん、床の間すごいの見つけたよ」


 鳴海が、奥の和室から顔を出した。

 案内されたその部屋には、見事な床の間があった。

 掛け軸と香炉、そしてその中央に――


 札があった。


 花札に似ているが、どこか異様だった。

 厚みのある黒漆の板に、ひときわ鮮やかな金と朱で花鳥風月が描かれている。

 ただの飾りではない。

 それは、何かが封じられているような圧を放っていた。


「なんだこれ、花札か? でも、なんか気味悪いな。撮っていい?」


 透が手を伸ばしかけたそのとき――


「やめて!」


 鋭い声が響いた。

 部屋の隅に、いつのまにか一人の少女がいた。


 白いワンピースを纏い、黒髪を長く垂らした少女。

 その目はどこか遠くを見つめているようだった。

 ――久世 葵。澪たちよりも数時間早く到着していたもう一人の訪問者だ。


「その札は、“夜話を呼ぶ”。触れたら、戻れなくなる」


「なんだよそれ、脅しか?」


 透が笑いかけるが、葵は首を振る。


「これは八朔家の“封札”。一枚ごとに、一つの“語り部”がいる。

 札を裏返せば、その物語が始まるの。……そう決まってるの」


 その瞬間――


 パチンッと音がした。


 誰も触れていない札が、ひとりでに一枚、裏返った。

 そこに描かれていたのは、“松と鶴”。


 透が凍りつく。


「いま……動いたよな? 誰か見たよな!?」


 札の絵柄から、白い霧が立ち上る。

 霧の中、どこからか女の声が響いてきた。


 ――“わたしは、ここにいる。百年ずっと、ここで待っていた”


 澪の肩が小さく震えた。

 東堂は、懐中時計の鎖を握りしめながら、低くつぶやいた。


「……始まったな。一枚目の夜話(よばなし)が」

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