存在、失格。
依田。
影の輪郭
言葉に裏切られて
ぼくは、言葉に裏切られてきた。
いや、裏切ったのは、もしかするとぼくのほうなのかもしれない。
どちらが先かなんて、もうどうでもよかった。事実として、ぼくは書くことをやめられずに、しかし書けば書くほど心が削られていった。それは、指先で氷を撫で続けるような作業で、冷たさが骨に染みた頃には、もう触れることすらできなくなっている。
最初に「書こう」と思った日のことを、ぼくはよく覚えている。
誰かに見つけてもらいたかった。
ぼくが存在していると、たった一人でもいいから認めてほしかった。
学校でも、職場でも、ぼくは風のように通り過ぎる存在だった。声をかけられても、会話の終わり方を探してしまう。笑ってみても、それが相手の望む笑いかどうか、不安で仕方がなかった。そうやって、心の奥に常に「これで合っているのか」という検証装置を抱えたまま、生きていた。
SNSを始めたのは、その検証装置を外すためだった。
匿名であれば、ぼくの顔も、声も、ぎこちない笑いも、誰にも見られない。ただ言葉だけが、ぼくの代わりに世界へ出ていく。
そのときは、本当にそれが救いになると思っていた。
初めての投稿は、震えるような短い詩だった。
「風は、ぼくを抱きしめない。」
それだけ。五秒もかからない、意味のあるのかないのかわからない言葉。
投稿ボタンを押した瞬間、ぼくは息を詰めた。画面の向こうで、誰かがこれを読むかもしれない。何かを感じるかもしれない。褒めるかもしれないし、笑うかもしれないし、あるいは無視するかもしれない。
数分後、ひとつの「いいね」がついた。
見知らぬ誰か。名前も顔もわからない。でも、その小さな数字が、胸の奥をじんわりと温めた。まるで、小さなランプを手渡されたようだった。
ぼくは立て続けに投稿した。短い言葉、幼稚な感想、夜中に浮かんだ疑問、読んだ本の断片。誰かが反応するたび、ぼくの中の空洞に一滴ずつ何かが注がれていくような感覚があった。
だが、それはすぐに変質した。
次第にぼくは、反応のなかった投稿を削除するようになった。誰にも触れられなかった言葉は、存在してはいけないと感じたからだ。
反応が多かった日は、少しだけ「生きている」と思えた。しかし、翌日、反応が減れば、またぼくは影に戻った。数字が、ぼくの呼吸のリズムを決めていた。
ある日、ひとつの投稿に対して、短い批判的なコメントが届いた。
「中学生のポエムみたい。」
たったそれだけだった。
ぼくはその言葉を、まるで刃物のように感じた。モニターから顔を背け、胸を押さえた。自分が笑われている光景が、実際には存在しないのに頭の中で鮮明に広がった。
その夜、ぼくは何も投稿できなかった。言葉が、すべて毒に見えた。ぼくの口から出るもの、指先から零れるもの、それらがすべて醜く、浅ましく思えた。
それでも、やめられなかった。
やめたら、本当に誰にも見えなくなる気がした。
影の輪郭が完全に消えてしまう気がした。
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