16.「はじめてのスーツ」


今日は、スーツを買いに来た。

大学の入学式で着る、人生で初めてのスーツ。


母とふたり、電車に揺られて駅前のスーツ量販店に来た。

入学式なんて、まだ一ヶ月も先だけど、店内にはすでに春らしいスーツが並んでいる。


淡いグレー、ネイビー、ブラック。

リクルート用とは少し違う、少しだけ“華やかさ”のあるラインナップ。


試着室の奥で鏡を見ながら、私はふと思う。

――私、これから“大人”になるんだな。



「これ、どう? あんまり黒すぎない方がいいかなって思って」

ハンガーにかけたスーツを、母が差し出してくる。


「うん、いいかも。でも……こっちも着てみたい」

私は隣のトルソーが着ていたベージュグレーのセットアップを指差した。


「それ、ちょっと高いけど……まあ、入学式だもんね」

母は笑って、店員さんを呼んでくれる。


採寸をしながら、「手の長さ、意外とありますね」と言われた。

「えっ、そうなんですか?」と聞き返すと、「姿勢がいいからそう見えるんです」とにっこり。

ちょっと嬉しかった。


ウエストや肩幅を測られながら、ふと思い出す。

制服を買ったときも、母と一緒だった。

あのときは、まだ中学生になれるのが嬉しくて、ブレザーのボタンを何度も開け閉めしていたっけ。


あれから6年。

今日の私は、制服ではなく「自分で選ぶスーツ」を試着している。



「これがいい」

私は、ベージュグレーのスーツに白いブラウスを合わせて鏡の前で言った。


決して派手ではない。

でも、清潔感と柔らかさがあって、自分らしい気がした。


母は鏡越しに私の姿を見て、「似合ってるよ」と言った。

けれどその目が、少しだけ潤んでいるように見えて、私はなんとなく視線を逸らしてしまった。


「裾直しに少し時間がかかりますが、お届けでよろしいですか?」

「はい、お願いします」

私の声は、ほんの少しだけ震えていたかもしれない。


***


数日後、自宅に届いた段ボール。

開けると、あのスーツが、やわらかなビニールに包まれていた。

丁寧にプレスされ、折り目が真っすぐに入っている。


ブラウスも一緒に届いていた。

白地に、うっすらとストライプの入ったもの。


それを見た瞬間、私はちょっと背筋を伸ばした。


ハンガーにかけて、鏡の前に立つ。

まっすぐ見つめて、そっとボタンを留めていく。


――もう、子どもの服じゃない。

このスーツを着る自分に、少しの誇りと、少しの不安が混ざる。


でも、ちゃんと立っている。

足が震えたりしない。

きっとこの先、何度もこのスーツを着て、知らない人の前に立って、知らない世界に飛び込むんだろう。


入学式、初めての講義、アルバイトの面接。

そして、いつかは就職活動。

このスーツは、私の“はじまりの服”になる。


***


「着てみたの? どうだった?」

リビングから母の声がした。


「うん、ピッタリだった」

私はそう答えながら、自分の部屋のドアをそっと閉めた。


ベッドに腰を下ろしながら、私は深呼吸をする。

春が、すぐそこまで来ている気がした。


この一着が届いた今日が、きっと「特別な日」になる。

誰かに何かを褒められたわけじゃない。

大きなことを成し遂げたわけでもない。


けれど、自分で選び、自分のために仕立てられたスーツが、いま自分のそばにある。

そのことが、なぜだかとても心強い。


この服にふさわしい未来を、自分の手でつくっていく。

そんな気持ちが、静かに、でも確かに湧いてくる。


私の「特別な日」は、今日かもしれないし、入学式かもしれない。



でも、どちらにせよ――

このスーツと、これからたくさんの“特別な日”を歩いていくんだ。

夢や希望が、まだ漠然としていてもいい。


不安の中に、たったひとつの“決意”があれば、それはきっと、未来につながる。


私はもう、一歩を踏み出している。

自分だけのスーツと一緒に。

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