第49話→ユグドラシルの木の下で
天界には昼も夜もない。
だが、時間という概念が不要な場所にも、流れはある。
ユグドラシル――
生命の果実が実るとされる世界樹の根元を、シンはひとり歩いていた。
果実は眩い光を放ち、近づく生命に応じて色を変える。
創造神であるシンの前では、それらは静かに脈動するだけだった。
祝福も、誘惑もない。ただ、そこに「在る」。
(……生命、か)
シンは歩きながら、思考の渦に身を任せていた。
転生者たちの顔が、次々と脳裏をよぎる。
傲慢だった者。
慎ましく生きた者。
力を望み、平穏を望み、何も望まなかった者。
誰一人として、同じ人生はなかった。
主神という『役職』を引き受けてから、随分と時間が経った。
命を与え、世界を整え、転生の流れを管理する――
それらはもう、指先を動かすほどの感覚でこなせる。
それでも、心の奥に残るものがある。
(……観察は、趣味だ)
誰に言い訳するでもなく、シンは心の中でそう繰り返した。
仕事ではない。義務でもない。
ただ、人の人生がどう変わるのかを見るのが、好きだった。
「相変わらず、考え事か?」
背後から、気の抜けた声がした。
振り返るまでもない。
その声の主は、何千年も前から変わらない。
「……お前か」
翼をだらりと垂らした、くたびれた天使。
天界でもっとも自由で、もっとも快活で、そしてもっとも無責任な存在――
通称、おっさん天使だった。
「おいおい、主神様がそんな面して散歩とはな。
威厳ってもんはどこに置いてきた?」
「威厳は必要な時に出せばいい。
今は、いらない」
シンは再び歩き出す。
おっさん天使も、隣に並んで歩いた。
「それよりよ」
おっさん天使は、少しだけ声を落とす。
「ミュリエルが、寂しそうにしてたぜ?」
シンの歩みが、ほんのわずかに止まった。
「……そうか」
それだけだった。
だが、おっさん天使は見逃さない。
「お前が天界に顔出さなくなってからだ。
補佐官ってのも、楽じゃねェみたいだな」
「仕事はきちんと与えている。
寂しさまで、俺が管理する気はない」
淡々とした言葉。
だが、否定の裏に微かな迷いがあることを、おっさん天使は感じ取っていた。
「主神にまでなったやつがさ」
おっさん天使は、空を仰ぎながら言う。
「そんなふらふらしてて、いいのか?」
ユグドラシルの葉が、静かに揺れる。
生命の果実が、淡く光を放つ。
シンは立ち止まり、空を見上げた。
「……お前こそだ」
「ん?」
「主神の座に就くこともできた。
世界創造の中枢に戻ることもできる。
それなのに、なぜ今も、そんな格好で彷徨っている?」
問いは静かだった。
だが、核心を突いている。
おっさん天使は一瞬だけ黙り、やがて笑った。
「俺にはな」
肩をすくめて言う。
「この方が合ってるんだよ」
主神の椅子は、硬すぎる。
世界を背負う責任は、重すぎる。
だからこそ、降りた。
「世界を創るやつもいりゃ、見届けるやつもいる。
全部が全部、玉座に座る必要はねぇだろ?」
シンは、その言葉を噛みしめるように黙った。
(……見届ける、か)
自分が転生者を観察する理由。
仕事ではなく、趣味だと言い続けてきた理由。
それは――
世界を、人生を、「途中まで」ではなく「最後まで」見たいからだ。
「……お前は、相変わらずだな」
「お前もな」
おっさん天使はニヤリと笑う。
「主神様よ。
悩むなら、もうちょい堂々と悩め。
天界は広い。散歩くらい、誰も文句言わねぇ」
そう言って、翼を広げる。
「じゃあな。
俺は俺の場所に戻る」
ふわりと、おっさん天使の姿が空に溶けた。
ユグドラシルの下に、再び静寂が戻る。
シンはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
やがて、生命の果実を一つ、見上げて呟く。
「……人生は、誰のものでもない」
与えられるものでも、管理されるものでもない。
選び、迷い、進み、立ち止まる――
それ自体が、価値なのだ。
(だから、観察はやめられない)
シンは再び歩き出す。
主神としてではなく、
ただの“観察者”として。
ユグドラシルの葉が、静かに揺れていた。
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