第46話→火谷陽と陽だまりの生活
陽が目を覚ましたのは、柔らかな光が頬に触れた瞬間だった。
草の匂いがした。
土の温かさが、背中を通してゆっくりと伝わってくる。
風が吹くと、足元の草がさわさわと揺れ、その影が彼の服の上をゆっくり流れた。
体が軽い。
空腹がない。
ただ、光を浴びている限り、胸の奥がじんわり満たされる。
「……ここ、か」
辺り一面が荒地だった。
草はまばらで、手入れされた畑も、家も、人の気配もない。
遠くに黒い山が煙のように霞んで見え、その向こうには青く透き通った空が広がっている。
陽は上半身を起こし、太陽の位置を確認した。
「日当たり……悪くなさそう」
そんな基準で方角を見ながら、近くの小高い丘へ歩き始めた。
歩くたびに草が足に触れ、光を遮るものはほとんどない。
丘の上に立つと、太陽が真正面から降り注いだ。
「ここだな」
陽はその場に腰を下ろし、少しだけ草を押しのけるようにして寝ころんだ。
太陽の光が顔いっぱいに広がる。
──食べる必要のない生活。
──努力しなくても生きられる体。
ようやく、望んでいた静けさを得た気がした。
しばらくそのまま横たわり、光が体に溶け込む感覚を楽しむ。
胃が満たされるわけではない。
体が熱くなるわけでもない。
ただ、「足りている」と心が理解していくような満ち方だった。
「……いいなぁ、これ」
小さなつぶやきは、風の音にすぐ紛れた。
⸻
午後になると、空を薄い雲が覆い始めた。
最初は気にも留めなかったが、太陽が隠れた瞬間、胸の奥の満足感が少しずつ薄れていくのを感じた。
「……光、減った?」
立ち上がってみるが、当然どうにもならない。
雲が通り過ぎるのを待つしかない。
胸の奥に、わずかな空虚さが生まれる。
空腹というよりは、電池がゆっくり減っていく感覚に近い。
「日向、探そ」
そう呟き、雲の薄い方向へと歩き出した。
と言っても走る必要はない。
ゆっくり、ゆっくりと、足元の草を踏むたびに小さく揺れる音を聞きながら進んでいく。
やがて雲の切れ目から光が射し込んだ。
それだけで胸の奥の空虚がすっと消える。
「よかった……」
陽はまた地面に座り込み、背中をそっと倒した。
「雲って……こんなに困るものだったんだな」
そんな小さな発見に、ほんの少しだけ笑った。
⸻
日が暮れると、光合成はできなくなった。
胸の奥の満足感は、夕闇とともに少しずつ薄れていく。
だが死ぬほどの欠乏ではない。
少し心細くなる程度だ。
夜は冷えた。
月明かりが薄い銀の光を地面に落としている。
「……あれ?」
月光に体を晒すと、ほんのわずかに胸の奥が楽になる気がした。
「もしかして……月でも、いけるのか?」
たぶん気のせいかもしれない。
けれど、その「気のせい」で十分だった。
陽は月の光が見える場所に移動し、草の上に横たわった。
風が静かに吹き、草が揺れ、その音が夜の中で唯一の動きだった。
「明日も……光、あるよな」
そう呟き、目を閉じる。
暗闇でも、心は不思議と落ち着いていた。
⸻
観察窓を覗き込みながらラニアが言葉をこぼした。
「ずっと寝てますよ、シン様……。あの方、本当に何もしませんね……!」
シンは腕を組み、淡々と答えた。
「……何もしないことを選ぶのも、生き方だ」
「でも、もっとこう……。異世界に来たんですから、町に行ったり、誰かと出会ったり……」
「お前はまだ若い。変化がなければ物語にならんと思っている」
シンの低い声が、観察室に静かに響く。
「だがな、ラニア」
「はい?」
「人生は……動かぬ日々の積み重ねでも形になる。
あいつはあいつの速度で、生きる理由を見つけるだろう」
ラニアは少し口を尖らせたが、言い返せない。
シンは目を細め、光の中で眠る陽を見つめた。
「……急ぐ必要はない。
生きるとは、本来、ああいう静かな営みを指すのだ」
その声は穏やかで、ほんのわずかに優しかった。
観察窓の向こうで、陽は星明かりを浴びながら、
今日と同じように、静かに眠っている。
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