第26話→カズマその後に

 勇者選定の儀から三年。

 かつて神童と呼ばれた貴族の三男カズマは、今や王都の片隅で、ただの傭兵として生きていた。


 金で雇われ、血を流すだけの生活。

 名家の三男という肩書きも、今となっては誰も信じない。

 彼自身も、信じさせようとはしなくなっていた。


 粗末な宿の一室。

 机の上には安酒の瓶と、欠けたコップ。

 窓の外では雨が降りしきり、屋根を叩く音だけが響いている。


 カズマは薄汚れたコートを羽織り、呟いた。

「勇者様は、今日も民のために戦ってるらしいな……」


 壁に立てかけられた剣を見やる。

 その刃には、まだ“力”が宿っていた。

 剣術の腕も、魔法の才も、失われてはいない。

 だが、誰もその力を求めない。


 いや――かつてのように求められたいとも、もう思わなくなっていた。


 誰かに認められ、称えられること。

 それがすべてだと信じていた日々は、遠い。

 力を誇るほど、空虚さが増していく。

 自分の中に残ったのは、憎悪でも後悔でもなく、ただの“乾き”だった。



「おーい、カズマ! 仕事だ!」


 宿の主人が呼ぶ声で、彼は顔を上げた。

 扉の前に立っていたのは、冒険者仲間のリナだった。

 腰には短剣、背には弓。小柄だが、目つきは鋭い。


「街道の盗賊退治だってさ。勇者様の部隊が通るらしい。通り道を掃除しておくんだと」


 カズマはわずかに眉をひそめた。

 “勇者様”――それが誰を指すか、言われなくても分かる。

 あの平民の青年、リオだ。


「俺が行く必要はあるのか?」

「あるさ。あんた、腕は立つし。それに、報酬も悪くない」


 リナの言葉に、カズマは短く息を吐いた。

「金になるなら、やるさ」


 それだけ言い残し、剣を掴んで外に出た。

 冷たい雨が、頬を打った。



 盗賊団は、思ったより手強かった。

 森の中での戦闘。

 カズマはかつての感覚を取り戻すように、無言で敵を斬り伏せていく。

 刃が、鎧が、血を弾くたび、心のどこかで懐かしさを覚えた。


 戦いが終わるころには、盗賊たちは全滅していた。

 だがその向こうから、別の一団が姿を現した。

 白銀の鎧、王国の紋章。――勇者一行だ。


 先頭に立つのは、リオ。

 彼は泥に濡れながらも、まっすぐな瞳をしていた。

 その背には、清らかな光がわずかに揺れている。


 リナが小声で呟いた。

「本物の勇者だ……」


 リオは歩み寄り、倒れた盗賊たちを見渡した。

「助かった。こちらが遅れていたら、被害が出ていたかもしれない」


 その声は穏やかで、よく通った。

 誰もが自然に頭を下げる中、カズマだけが視線を合わせようとしなかった。

 雨のしずくが、頬を伝い落ちていく。


「あなたが退治を?」

 リオがカズマに声をかける。

 その声に、敵意も侮りもない。純粋な感謝だけがあった。


「仕事だ」

 短く答えるカズマ。

 リオは微笑み、懐から袋を取り出した。

「報酬を受け取ってください。あなたたちが先に動いてくれたおかげで、多くの命が救われました」


 差し出された金貨。

 その重みよりも、目の前の青年の“まっすぐさ”が、胸を刺した。


 カズマはしばらく黙ったあと、金袋を受け取る。

 そして無言のまま、背を向けた。



 夜。

 焚き火のそばで、カズマは金貨を指先で弄びながら、ぼんやりと火を見つめていた。


 リナが言う。

「……あの勇者、あんたのこと知ってるんじゃないか?」

「そんなわけない」

「でも、あの目。なんか、憎しみとかじゃなくて……分かってるような感じだったよ」


 カズマは答えなかった。

 火の粉がはぜ、ひとつ、ふたつ、闇に溶けていく。


 リオが自分を覚えているのかどうか。

 それはどうでもよかった。

 ただ――

 あの穏やかな笑顔が、どうしても脳裏に焼きついて離れなかった。



 その後、カズマは小さな傭兵団に身を置いた。

 依頼を受け、危険な任務に赴き、報酬をもらう。

 それだけの繰り返し。


 だが、戦場ではいつも勇者の旗が遠くに見えた。

 どんな絶望的な戦いでも、リオが現れると戦局が変わる。

 民は彼を讃え、兵士たちは涙を流した。


 カズマはその姿を、遠くから見ていた。

 かつて自分が欲した「光」は、もう自分の届かぬ場所にある。

 それを羨むでも、憎むでもなく――ただ静かに、認めるしかなかった。


 彼はひとり、呟いた。

「……俺が持っていたのは、力じゃなかった。欲だけだったんだな」


 誰に聞かせるでもなく、雨音にかき消されていった。



 神界。

 シンとラニアが水晶を覗き込んでいる。

 カズマの姿が小さく映っていた。焚き火のそばで、ひとり微笑んでいた。


「なんだか……静かですね」

 ラニアが呟く。

「静かで、でも少しだけ優しくなったような」


 シンは短く頷いた。

「そういう終わり方を選ぶ者もいる。人は、堕ちてからじゃないと気づけないことが多いからな」


 ラニアは小さく息を呑んだ。

「この人の人生って、バッドエンド……だけじゃないんですね」

「当たり前だ。バッドエンドなんて、物語の途中でしか使えない言葉だ」


 シンの声は、どこか疲れて、けれどほんの少しだけ温かかった。

 水晶の中、炎に照らされた男の横顔は――ようやく、静かな夜を手にしていた。

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