#2 泥の中の宝石と、森の少女
俺は酒場を飛び出したが、すぐにはその場を離れられなかった。
まるで何かに引き寄せられるように、店の裏手、薄汚い路地へと回り込んでいた。
生ゴミの酸っぱい匂いと、立ち小便のアンモニア臭が鼻をつく。
なんで俺はこんな場所にいるんだ。
分かっている。滑稽で、惨めで、救いようがない。
それでも俺は、息を潜めて待っていた。
あの熊のような店主が、ゴミを捨てに出てくる、その一瞬を。
前世の俺なら、こんな真似は絶対にしない。
プライドだけは高かった俺は、他人の店の、それもゴミ箱を漁るなど、死んでもごめんだと思っていたはずだ。
だが、今の俺には、そんな見栄を張る余裕はなかった。
金もない。力もない。希望もない。
あるのは、魂に刻みつけられたスキルという名の呪いと、職人としての尽きない探究心だけ。
ガタン、と裏口の扉が開く。
俺は壁の陰に身を隠した。
店主は大きな木桶を抱え、中身を路地の隅に設けられたゴミ捨て場にぶちまける。
野菜のクズや骨と一緒に、黒く湿った塊が地面に散らばった。
あれだ。コフィーの出涸らし。
店主が店内に戻るのを確認し、俺は駆け寄った。
しゃがみ込み、まだ微かに湯気の立つそれを、震える指でつまみ上げる。
ひどい有様だった。
豆は不揃いに砕かれ、焦げ付いている部分と、逆にまだ生っぽい部分が混在している。
抽出されきったそれは、もはや泥と炭の塊にしか見えなかった。
「……やっぱり、ダメか」
希望が急速にしぼんでいく。
こんなものをどうこうしようだなんて、どうかしていた。
そう思って、指から力を抜こうとした、その瞬間だった。
――鑑定。
俺は、無意識にスキルを発動させていた。
頭の中に、淡い光を放つウィンドウが浮かび上がる。
===============
【名称】珈琲豆(出涸らし)
【種別】ロブスタ亜種
【状態】劣化(過抽出、焙煎温度の不適合、不均一な粉砕)
【潜在能力】強い苦みと穀物様の香りを内包。適切な処理を行えば、濃厚なボディを持つ一杯になり得る。
===============
「…………え?」
声が、漏れた。
鑑定。それは、物の名前や価値を知るだけの、ありふれたスキルだと思っていた。
だが、目の前に表示されている情報は、そんなレベルのものではない。
状態。そして、……潜在能力?
適切な処理を行えば……?
全身に、鳥肌が立った。
これは、ただの鑑定じゃない。
豆の種類、欠点、そしてその先にある「最高の味」への道筋までをも示唆している。
俺のスキル、【珈琲職人】は……本物だ。
「すごい……これなら、もしかしたら……」
俺は夢中で、地面に散らばった豆の出涸らしをかき集めようとした。
そうだ、少しでも多く持ち帰って、分析して……。
「……あの」
不意に、背後から鈴の鳴るような声がかけられた。
驚いて振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。
年の頃は、15、6といったところだろうか。
使い古したフード付きのローブを目深にかぶり、その影からのぞく顔立ちは驚くほど整っている。
そして、フードの隙間から見えた耳は、僅かに尖っていた。
ハーフエルフ……だろうか。
彼女は、俺が手にしている泥だらけの出涸らしと、俺の顔を交互に見比べ、困ったように眉を下げた。
「……そんな、泥を食べては、いけません。お腹を壊してしまいます」
「え、あ、いや、これは泥じゃなくて……!」
慌てて弁解しようとするが、どう見ても俺はゴミを漁って食べようとしている不審者だ。
説得力のかけらもない。
少女は、俺が何か言う前に、自分の背負っていたカゴから、小さな革袋を取り出した。
「これを、どうぞ。昨日採ったばかりの、薬草です。少し苦いですが、滋養はありますから」
「い、いや、そういうわけじゃ……!」
「あなた、薬草を探しに来た方でしょう? でしたら、これも。このキノコは、熱を出す病によく効きます」
少女は、俺を完全に森で食い詰めた素人と勘違いしているらしかった。
だが、その目に侮蔑の色はなく、ただ純粋な善意だけが宿っている。
このままでは、話が進まない。
俺は意を決して、彼女が差し出したキノコに【鑑定】の意識を集中させた。
「……ありがとう。でも、このキノコは、熱さましだけじゃない」
「え?」
「軸の部分を乾燥させて煎じれば、腹痛にも効くはずだ。それも、かなり強い薬効がある」
俺がそう言うと、少女は目を丸くした。
「……どうして、それを? そのことは、森のエルフでも一部しか知らないはず……」
「俺のスキルは、こういうのが少し得意でね」
そう言って、俺はもう一度、手のひらに載せた黒い塊を見つめた。
今やそれは、ただのゴミではない。
この異世界で、俺がもう一度立ち上がるための、唯一の希望の欠片だ。
俺は、目の前の心優しい少女に、深く頭を下げた。
「お願いがあるんだ」
そして、祈るような気持ちで、尋ねた。
「この豆の……この植物が、どこに生えているか知らないか?」
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