第3話 君のいた時間

夜の帳が落ちていた。

都心の片隅、灯りがまばらな住宅街。

歩くたびに、コートの裾が風に揺れる。


高木たかぎ慎一しんいち、五十二歳。

妻を、半年前に病気で亡くした。


子どもはおらず、親もすでに他界。

残されたのは、長年住んだ小さな家と、静かすぎる空気。


今日も、仕事帰りにふと足が向いたのは、知らない路地だった。

疲れていたわけじゃない。

ただ……帰りたくなかったのだ。


冷たい風の先に、古びた木の扉がぽつんと現れた。

看板はない。明かりだけが、ぽうっと浮かんでいる。


何かに導かれるように、扉を開けた。


「……いらっしゃいませ」


和紙の光、木の温もり、懐かしい茶の香り。

店内は、まるで昔話の中のようだった。

狐のお面をつけた店主が、静かにお辞儀をする。


慎一は、ただ黙って席に座った。


財布を出しかけて、ふと止まる。

ここが何なのかも、わからないのに。


だが、甘狐はなにも問わず、ただ奥へと消えていった。


やがて運ばれてきたのは、二つに分かれた羊羹の皿。

半分は小豆、もう半分は柚子。

ほんの少しの栗が真ん中に寄り添っていた。


「……羊羹か。うちのも、好きだったな」


彼はぽつりとつぶやいた。

その声に応えるように、店内の空気がふっと揺れた。


ひとくち食べる。

小豆のやさしい甘さに、胸がきゅうっと締めつけられる。

思い出すのは、病室で、最後に妻が口にした羊羹だった。


「もう、味なんてわからないけど……

 あなたが買ってきてくれたのが、うれしいのよ」


微笑みながらそう言った妻の顔。

あの瞬間が、やけに鮮明に甦る。


気づけば、手が震えていた。

箸を置き、テーブルにうつむいたまま、小さな声がこぼれた。


「……なんで、いなくなっちまったんだよ……

 俺は、これから、どうしたら……」


店主は何も言わない。ただ、そっと湯呑を差し出した。

湯気のたつお茶の香りが、心を包む。


慎一は、ふと顔を上げた。

すると――そこにいた。


向かいの席に、あの人が座っていた。


淡い光に包まれたような、やわらかな輪郭。

白いニットに、少し短めの髪。いつもの笑顔。


「……ありがとう、来てくれて」


幻か、夢か。

でも、言葉が口をついて出た。


妻は、なにも言わない。ただ、微笑んで、そっと頷く。

その表情に、「まだあなたは、止まったままでいいのよ」と

やさしく伝えてくれている気がした。


目を閉じて、深く息を吐く。

胸の奥にたまっていた言葉が、少しずつほどけていく。


次に目を開けたとき、向かいの席には誰もいなかった。


ただ、羊羹の皿の隣に、小さな包みがあった。

開けると、栗の甘露煮が一粒と、短い和紙のメモ。


「あなたの歩いた日々は、もう誰かの甘さになっている」


慎一は、包みをそっと握りしめた。


帰り道、空はもうすっかり晴れていた。

風がやわらかく、街灯の下に影が二つ、並んで揺れた。


――彼はもう一度、歩き出すことを選んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る