第26話
あれだけ大きな声でやり取りしてたから、みんなに聞かれた。
ババアと親父も、メルディと同じように反対してきた。自分だって悪魔と取引したくせに何言ってんだかって、思ったけど言わなかった。言ったら負けな気がして。
ジャスティスとレイチェルはなんにも言わなかった。でもメルディがあんなんだから、口でこそ言わないだけで、やめた方がいいと思ってるみたいだった。特にジャスティスの視線が痛かった。レイチェルはそこまででもないみたいだけど。
メルディは一人でベッドルームにこもってるって、ジャスティスに聞いた。泣いてるみたいって言っていた。
本当はこんなベッド抜け出して、メルディのそばに行きたい。俺がしてもらったように隣りにいてあげたい。でももう自力で座ってる事も出来ないんだ。ふらふらで力も入らない。どうしてこんなに、俺は弱いんだろう。
悔しくて悔しくて、ジャスティスの前で泣いてしまった。心配させて、悪かったなと思ってる。でも涙が止まらなかったんだ。
でも、夕方までに三回も、昨日みたいに苦しくて起きてられなくなって、その度にババアのクソ不味い薬を飲んだ。本当にいつそのまま死んだっておかしくなんかない。今度こそ、本当に目は覚めないだろう。
俺は日が暮れたのを見て、ベンに言った。
「星が見たいんだ。外まで連れてって」
「はあ?」
ベンは分厚い本をペラペラしながら、他にはないかってずっと探してる。そんな事より、話してた方が気だってまぎれるのに。全然話してくれない。ジャスティスもずっと泣いてるし、レイチェルはなんにも言わない。
「明日の夜まで生きてられるか分かんないんだから、見せてくれたっていいじゃん」
「窓からでも見えんだろ?」
俺は思い切って、話した。
「一番最初にメルディに会った時、空を飛んだんだ。星空の中にいるみたいにきれいだったから、また見たいんだ」
もちろん嘘じゃないけど、本当は二人になりたかったからだ。
ここじゃすぐ隣りの部屋にいるジャスティス達にも聞こえる。俺が小さい声で呻いても聞こえるんだから、しゃべったら聞かれる。そしたらきっとジャスティスが騒いで、メルディが止めにくる。
ベンは本を閉じると俺をひょいっと、いとも簡単に持ち上げた。膝の下と背中を支える腕がすごく大きくて温かい。すごく落ち着く。
ベンの肩にもたれてたら、ちゃんとつかまってろなんて言われた。本当はつかまるほどの力は残ってないのに、俺は黙ってベンの黒いシャツを握った。
外は月明りで明るかった。きれいな満月が辺りを照らしていて、海がキラキラと月明りで輝く。今日は雲もないから、淡い光りの天の川だって見えた。そして吹く風は冷たくて、塩辛くて、すごく気持ちがいい。
メルディと同じ、真っ黒なカラスみたいな翼が、何度も力強くはばたいて、風に舞う真っ黒で大きな羽根がきれいだ。メルディに連れてきてほしかったな。でも仕方がない。
ベンは屋根に上がると、そのまま海が良く見えるところに降りた。俺を膝にのせて、海を見る横顔は少し悲しそうだった。
「あのさ、取引してくれる?」
俺はベンに尋ねた。
ベンはむっとした顔をこっちに向ける。
「お前、はじめっからそれ狙いだっただろ?」
「そうだけど、でも星も見たかったよ」
ベンは大きなため息をついた。
「俺、メルディと一緒にいたいんだ。そのためだったらなんでもする」
「オレ、多分クライブが思ってる数倍、意地悪な方だと思うけど」
「でも俺のはじめての友達だよ」
ベンはぱっと顔をそむけると、真っ赤な顔をして笑った。なんか面白い。からかってる訳じゃないんだけどな。
「ヤバいな、クライブが女だったら一発で惚れてたぞ」
「ほれるってなに?」
ベンが噴き出した。すごく楽しそう。
こうやって笑ってくれるベンが好きだ。でもこう、なんていうか、メルディとは違う感じ。レイチェルやジャスティスとも違うけど、でもそっちのが近いのかもしれない。これはなんていうんだろ?
「メルディは苦労するな」
「なんで?」
「クライブはたまに、小さい子どもみたいな事を言い出すからな」
ベンは笑いながら、屋根に両手をついて体を少し後ろに倒す。
もたれてた俺はそのまま、ベンにくっついた。両手でシャツを握ると、温かかった。
「メルディじゃなくていいのか?」
「だって俺、いつ死ぬか分かんないじゃん」
俺はベンを見上げた。ベンは俺を見下ろしていた。
「オレ、正直言うとメルディとそんなに仲が良い訳じゃないんだぞ」
「それでもいいよ」
俺が答えたら、大きな風が吹いた。一瞬前が髪の毛で見えなくなるくらい、強い風だった。
俺はくせ毛じゃないし、頭を振ったら大体、元に戻るんだ。
だけどベンのきれいな黒髪がばさばさに吹き飛んで、ぐっちゃぐっちゃになって面白かった。ベンは毎日鏡の前で髪の毛を直してたんだな。なんであんなに何十分も洗面所にいるんだろうと思ってた。
ベンは髪の毛を片手でささっと直して、こっちを見た。
「今の、絶対秘密な」
「言わないよ」
ベンは微笑むと、俺を見下ろした。
「メルディも言ってたけど、取引なんて言うより呪いなんだぞ」
俺はうなづいた。分かってるよ。
「どんなにつらくなっても、どんなに嫌になっても、死ねないし自由はない。オレが言ったら、ちゃんと聞かなくちゃいけない。本当にいいんだな?」
「いい」
俺はうなづいて、ベンに言った。
「ベンはなんて言うの?」
「とりあえず、髪の話は絶対誰にもするな」
ベンは笑った。
「今は縛り付けるつもりもないし、どうこう言うつもりはない。でもこの先、オレがメルディとケンカ別れするかもしれない。そしたら何百年も会えなくなるだろ。当然、ジャスティスは先に死ぬ。お前、一人になるかもしれない。それでもオレと死ぬまで一緒でいいんだな?」
「上等」
俺はそう返した。
「ならいい」
ベンは微笑んで、強くうなづいた。
俺は少し空を見た。取引したら、きれいに見えなくなったりするのかな? そうだったら、きっとこれが最後になるかもしれない。ちゃんと見ておこう。
でもふと視界を遮った、真っ黒な翼が空も隠してしまった。ついでに低い声で俺を呼ぶ。若草色の宝石みたいな大きな目、ほうれん草みたいなきれいな緑の長い髪。そして真っ白なワンピース。俺の一番好きな人だ。
「メルディ」
そう呼んだら、メルディは俺の顔をのぞきこんできた。真っ赤に目が腫れてる。そのせいだろうか、目つきがいつもの数倍は悪い。正直ちょっと怖い。
「クライブ、なにやってんだい?」
「俺と取引、してくれるの?」
ダメ元で聞いてみた。
メルディは俺を見つめて、そしてゆっくり首を横に振った。
やっぱり、嫌なんだ。俺が対等じゃなくなるのが。俺が嫌って言わなくなるのが……。
分かってたんだ。メルディはやさしいから、俺が知らない事、分からない事、なんでも教えてくれる。まあときどき教えてくれないけど。でも、必ず俺にいいかいって言うんだ。嫌って言えるような顔で聞いてはこないけど。
だから俺の事を考えて、取引しないって決めたんだ。
「俺、やっぱりメルディと一緒にいたい。一緒に生きたい」
俺はメルディを真っ直ぐ見つめて言った。
本当は泣きそうだったけど、ちゃんと言えてよかった。声は震えていたけど。
ベンが俺の肩をそっと撫でた。温かい。
大きな肩がちょっと羨ましい。年、とらなくなっちゃうんだったら、俺、きっとずっとこのままだよな。ずっと小さいままだ。親父も小さいから、そんなに伸びないだろうけど。
「メルディはクライブが死んでもいいんだな?」
「そんなの嫌に決まってるよ」
「だったらなんで、取引してやらないんだよ? お前のものじゃなくなるんだぞ」
泣きたくなんかなかった。でも止まらなかった。涙が出て、両手でこすってもこすっても止まらないんだ。情けないな。こんなに弱かったっけ、俺。
「もう聞きたくないよ」
鼻水が出てきて、すすった。行儀悪いけど、二人はそんな事、気にするタイプじゃないもん。思いっきり音を立ててすすった。
「俺の勝手なんだから、メルディが嫌ならそれでいい」
俺はそう言って、ベンを見上げた。
「取引して、俺、死にたくない」
でも俺のぐちゃぐちゃの腕を、メルディが掴んで引っ張った。屋根から落ちそうになったけど、温かい両手がしっかり俺を支えてくれる。
顔を上げたら、メルディが顔を寄せてきた。
口唇がくっつく。
一気に息も出来ないほど、胸が苦しくなって、泣きたくないのに涙がどばっと出て止まらない。痛いのに、苦しいのに、メルディは放してくれない。重い体に腹が立つ。嫌だ。俺、これ好きじゃないよ。怖い。
口唇が離れても、メルディは俺の額に額をくっつけたまま、放してくれなかった。
ジャスティスなんか比じゃないくらい、情けない面して泣いてると思う。鼻水だらだらだし、顔はぐちゃぐちゃだし、おまけに自力で座ってもいられないんだから。
でもメルディはいつもと同じ、温かい手で何度も何度も、俺の頭を撫でてくれる、支えてくれる腕がやさしい。一緒にいたい。どんなに苦しくなってもいい。もっとずっと一緒に生きたい。もう死にたくなんかない。
メルディは呟いた。
「死なせたくない」
かすれた声だった。メルディは屋根に座ると、俺の腕を引っ張ってぎゅっとする。
メルディの涙が、雨みたいに降ってくる。
「ベンなんかに渡したくない」
メルディは俺の耳元でそう囁いた。
うれしくて、苦しくて、もう何も分からない。でもこのまま、ずっとこうしていたい。
「あたいが死ぬまで、何百年か、ずっと一緒にいてくれるかい?」
俺は必死でうなづいた。
「あたいは不器用だから、きっとクライブを泣かせるよ?」
メルディは俺をのぞきこむ。
俺はそんなメルディを見上げた。
「気も短いし、バカだし、ガサツだし、きっとたくさん意地悪な事もする。それでも一緒にいてくれるかい?」
「絶対一緒にいる」
メルディは笑った。
「クライブの事、もらってもいいかい?」
「全部あげる、だから一緒にいて」
俺は目を閉じた。
メルディは何かぶつぶつと呟くと、俺の首に何かを下げて、またぎゅってした。
うれしい。温かい。でもちょっと苦しい。
同時に暗闇が辺りを包む。あの時の魔法とは違って、真っ暗になっていって、なんにも見えない。でも、メルディの体温を感じるんだ。怖くなんかなかった。やさしい手が頭を撫でてくれる。
「これで、本当にあたいのものだよ」
すごく眠くなって、俺は目を閉じた。
今は眠りたくなんかない。ちゃんと起きてたいのに。
最後にメルディが髪を撫でてくれたのを感じた。
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