第12話 風の記憶

天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 

  をとめの姿 しばしとどめむ

—僧正遍昭



——

風の郵便局には、今日も一通、どこからともなく手紙が届いた。

 宛名はなく、差出人も記されていない。だが、開封された時だけ、その便りは誰かに向かって届くのだという。


 局員の女は、窓辺に置かれたその封筒に目を留めた。

 少しだけ古びた紙。照明の反射で浮かび上がる繊維。

 触れた瞬間、ふわりと過去の匂いが立ちのぼった気がした。


 彼女は黙って封を切り、便箋を開いた。



「舞台の袖から差し込む光というのは、ときに妙ないたずらをするものだ。

一人の役者を際立たせるつもりが、ふと照らしてしまった“端役の背中”に心を奪われる。

そんなことが、本当にあるのだ。」


「君に似た子がいた。

正面から見た顔は、正直よく覚えていない。ただ、光を受けたその肩と髪の揺れ方だけが、なぜか離れない。

ああ、と思った。……これは、君の背中だ、と。」


「それが錯覚でも構わなかった。

僕は照明を、ほんの少しだけ逸らさなかった。

他の演出家に文句を言われるかもしれないと考えながら、けれどあの数秒間だけ、

僕の仕事は、君に出会うためのものだったとさえ思えた。」


「君がいなくなってから、随分と時間が経った。

音も、声も、手の温度も、今ではもう輪郭すら定かではない。

だけど、あの時の少女の背中――いや、あの光の中の“残像”だけは、今でも思い出せる。」


「舞台というのは、儚くていい。

照明の中でしか生きられないものが、そこにはある。

僕はまた光を当てるよ。

もしかしたら、君の影を探しているのかもしれない。」



 便箋の最後には、名前もなければ日付もない。

 ただ、丁寧な筆跡でこう結ばれていた。


「──天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 

  をとめの姿 しばしとどめむ」



 女は、しばらくその手紙を見つめていた。

 何も言わず、何も思い出さないふりをして、けれど、

 わずかに目元だけが緩んだ。


 あの舞台。

 あの一瞬だけ、照明が当たった瞬間。

 あのとき、彼女はたしかに、誰かに“見られていた”のだ。


 長い人生のなかで、

 幾度も名前を捨て、居場所を変え、

 それでもなお、心のどこかで確かに「光を浴びた瞬間」があった。


 それが、彼だったのなら。

 それが、兄だったのなら――


 彼女は何も言わず、手紙をそっと封筒に戻す。

 風が一度、局の扉を鳴らし、やがて静けさを取り戻した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る