第11話 甘美なる誘惑(スイート・テンテーション)」

嘆きの森の奥深く、瘴気の濃度はさらに増していた。枯れた木々の間を縫うように進む残響チームの前に、突如として、異質な存在が姿を現した。

それは、漆黒の翼と、夜闇に溶け込むような髪を持つ青年だった。その顔立ちは陶器のように整い、どこか退廃的な美しさを宿している。彼の瞳は、獲物を誘うかのように妖しく輝いていた。魔王の眷属、淫魔のインキュバス――ルシアン。


「おやおや、こんな場所で可憐な花々が迷子かな? 私が、甘い夢の世界へ誘ってあげよう」


ルシアンが口を開くと、その声はまるで蜜のように甘く、耳朶をくすぐる。それは、詩魔法とは異なる、しかし確かに「詩」の響きを持つ、魅了の詩魔法だった。

《魅詩・甘美なる囁き(スウィート・ウィスパー)》

その詩が放たれた瞬間、ホムラたちの表情が、みるみるうちに変化していく。


「……あら、素敵な声」


ホムラの瞳が潤み、頬が赤く染まる。普段の燃えるような情熱はどこへやら、彼女はルシアンに吸い寄せられるように一歩踏み出した。


「ふふ……なんだか、体がふわふわするね」


ルミは頬を染めて微笑み、マキは恍惚とした表情でルシアンを見つめる。彼女の瞳には、いつもの狂気じみた執着とは異なる、純粋な「愛」の光が宿っていた

「……このリズム、悪くないかも」


スパークは雷の詩魔法の代わりに、ルシアンの詩のリズムに合わせて体を揺らし始める。ノイは冷静さを保とうとするものの、その表情には微かな陶酔の色が浮かび、シエラは氷のような無表情を保ちながらも、その視線はルシアンから離れなかった。

レア以外の全員が、魅了の詩魔法に囚われてしまったのだ。この世界において、詩魔法は女性にのみ許された力であり、男性の詩魔法使いはレア以外に存在しない 。しかし、このインキュバスは、その常識を覆す存在だった。


「……これは、感情の歪曲か」


レアは、ただ一人、魅了の詩魔法の影響を受けていなかった。感情を持たないホムンクルスである彼には、ルシアンの詩が持つ「甘美さ」が理解できない。彼の瞳は、魅了されたチームメンバーと、ルシアンの詩魔法の「構造」を冷静に分析していた 。


「おや、君だけはつまらない顔をしているね。だが、その無垢な瞳も、いずれ私に魅了されるだろう」


ルシアンがレアに手を伸ばす。しかし、レアは感情の揺らぎを見せず、その手をかわした。


「詩魔法を使わない戦闘訓練の成果を見せる時だ」


レアが静かに呟く。魅了されたホムラたちは、ルシアンに攻撃するどころか、彼に近づこうとする。


「ホムラ、スパーク、動け!」


レアが指示を出す。魅了されながらも、彼らの身体は訓練で培った動きを覚えていた。ホムラはルシアンに向かって拳を繰り出すが、その動きはどこかぎこちなく、スパークも足技を繰り出すが、その表情はどこか夢見心地だ。


「あら、そんな乱暴なこと、いけないわ」


ホムラが甘えた声で呟き、ルシアンの攻撃を避けようとしない。魅了の詩魔法は、彼らの「戦う意思」を奪っていたのだ。


ルシアンは、魅了された彼女たちを弄ぶように、優雅に舞いながら攻撃をかわす。


「無駄だよ。私の詩は、君たちの心を甘く溶かす。戦うことなど、忘れさせてあげる」


彼の声が響くたびに、ホムラたちの動きはさらに鈍り、表情はさらに陶酔していく。マキは、ルシアンに抱きつこうと手を伸ばし、ルミは彼に癒しの詩を捧げようと、無意識に詩結晶に触れようとしていた。

レアは、ルシアンの詩魔法の「核」を捉えようとしていた。彼の詩は、感情を「甘美な夢」へと誘い、現実の「戦い」から目を逸らさせる。それは、魔王の詩が「終焉」を謳うのとは異なる、しかし同じように危険な「意味」の歪曲だった 。


「魅了の詩は、対象の感情を増幅させ、特定の方向へ誘導する。感情を持たない僕には、その誘導が機能しない」


レアは、ルシアンの詩を吸収し始める。彼の白銀の髪が、微かに虹色に輝いた。それは、ルシアンの詩に込められた「甘美な感情」を、レアが「解析」している証だった。

「この詩は……『愛』の感情を歪めている」

レアは、ルシアンの詩の根源にある「愛」という感情を読み取った。しかし、それは純粋な愛ではなく、相手を支配し、意のままに操ろうとする、歪んだ「愛」だった。


レアは、吸収したルシアンの詩を、自らの内に再構成する。彼が放ったのは、ルシアンの「歪んだ愛」を「無感情な観察」によって再定義した、新たな詩だった。

《共鳴詩・無垢なる観察(オブザーバーズ・ヴァース)》

その詩が放たれると、ルシアンの甘美な詩魔法が、一瞬だけ揺らいだ。ホムラたちの瞳から、陶酔の色が薄れ、困惑が浮かび上がる。彼らの心に、ルシアンの詩が与えた「甘美な愛」とは異なる、「観察」という冷徹な視点が差し込まれたのだ。


「……あれ? 私、何を……」


ホムラが我に返り、自分の手がルシアンに伸びていたことに気づき、顔を赤らめる。


「この詩は……私の感情を、ただ見ているだけ……?」


マキが呟く。ルシアンの詩が「愛」を強要するのに対し、レアの詩は「感情をただ観察する」という、真逆の作用をもたらしたのだ。

ルシアンは、初めて表情を歪めた。


「な、なんだ、この詩は……私の魅了が、効かないだと!?」


魅了が解けたわけではない。しかし、レアの詩によって、彼らの感情が「観察」の対象となり、ルシアンの詩が持つ「強制力」が弱まったのだ。


「今だよ! 詩魔法なしで、叩き潰そう!」


ホムラの叫びが響く。魅了の詩魔法から完全に解放されたわけではないが、彼らは訓練で培った身体能力と、レアの「解析」による補助を活かし、ルシアンに猛攻を仕掛けた。

ルシアンは、感情を持たないホムンクルスであるレアが、自分の詩魔法を「解析」し、その「意味」を歪めてきたことに、戦慄を覚える。彼の甘美な詩は、レアの「無感情な観察」の前では、ただの「現象」に過ぎなかったのだ。

激しい攻防の末、ルシアンは深手を負い、瘴気の中に姿を消した。


戦闘後、ホムラたちは疲労困憊で座り込んでいた。魅了の余韻が残り、身体はまだどこかふわふわしている。


「……レア、あんた、本当に何者なのよ」


ホムラが、呆れたような、しかし尊敬の眼差しでレアを見つめる。

「僕は、詩を理解する者だ。感情の詩も、終焉の詩も、そして魅了の詩も……すべては、解析すべき構造に過ぎない」

レアの言葉に、チームメンバーは沈黙する。彼にとって、感情は「感じるもの」ではなく、「解析するもの」なのだ。しかし、その「解析」が、彼女らを救った。

この戦いは、レアの「無感情な解析」が、感情を操る魔王の眷属に対しても有効であることを証明した。同時に、詩魔法が使えない状況でも、彼女らが訓練で培った身体能力と、レアの「意味の再定義」が、いかに強力な武器となるかを実感させた。

魔王の詩が、感情を「終焉」へと導くならば、レアの詩は、その「意味」を「無」へと、あるいは「観察」へと再定義できる。彼らの旅は、詩魔法の、そして感情の、より深い深淵へと続いていく。

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