第9話2025.09.12-13 分離不安の愛猫のケアを通じて、ケアの倫理を考える

 この日の夕食は、パートナーが作ってくれた、小松菜としめじの入った水餃子と、なめこ汁、それにご飯だった。

 私はもっぱら魚を好み、お肉全般が苦手で、中でも餃子はあまり得意ではないのだが、水餃子は食べやすくて好きだ。パートナーもそれを見てとったのか、「きみは水餃子が好きだね。餃子はストックしておいて、いつでも作れるようにしよう」と言ってくれた。その心遣いがありがたかったし、温かい汁物が病み疲れた心身に沁みて、大変美味しかった。

 そののち、パートナーが一週間の疲れが出て早々に寝てしまい、分離不安のキジシロの愛猫・冴ゆは不安からカーテンの裏に籠りきりの一日だったため、ひとまず冴ゆのケアが必要だと判断した。


 冴ゆはパートナーと私と過ごす時間を何よりも楽しみにしていて、特にローテーブルとモダンなデザインの座椅子、4Kテレビを置いたリビングの奥のスペースで、私が紅茶を淹れて、パートナーがゲームをプレイするひとときを毎日の楽しみにしている。

 猫は変化を嫌う生き物なので、できるだけルーティンは崩さない方がいいだろうと思い、紅茶ではなく煎茶の知覧茶を淹れて、ひとしきり動画を観ることにした。

 最近よく観ている、手帳時間を紹介するYouTuberのクリームソーダさんのセリア購入品紹介の動画や、手帳を書く時間が取れない間の代替案などの紹介動画を眺めながら、手持ちのロルバーンの手帳にバレットジャーナル方式でメモを書いた。

 休日はどうしてもイレギュラーなタイムスケジュールになりがちで、私自身も持病のため、環境の変化には弱い方で、過ごし方に悩んでしまうことも多いことから、パートナーとやりたいこと、自分ひとりの時間にこなしたいこと、そして部屋に戻ってしたいことをそれぞれリストアップした。

 創作はなかなか自室に戻らないと行えないが、手帳はリビングでも書ける。パートナーのプレイするゲームを鑑賞する傍らで、私はFGOのウィークリークエストをこなす等々紙に落としてみると、気持ちがすっきりとしたのだった。

 多くの人はもっと柔軟にその時々のタスクをこなしたり、好きなことと家族のケアとの折り合いをつけられているのかもしれないが、私は不器用なので、できるだけ予測可能なことは見通しをつけておきたいという気持ちがある。

 もちろんやりたいことも含めてタスクをすべてこなせれば文句はないが、その時々の体調次第では難しいこともあるし、家族のケアがどの時間帯にどれぐらい必要になるかはわからない。それぞれのコンディションやタイミングなどがあるし、私はそれらを重んじながら、同時にできるだけ細やかなケアをしたいと思っている。

 そこで、手帳に書くタスクはできるだけ細分化して、ハードルを極端に下げるということを試みた。

 パートナーとの過ごし方については自分自身の一存だけではなかなか決まらないので、ひとりでやることを具体的にできるだけスケールダウンして書いていく。

例えば読書をすると一口に言っても、紙の本を集中してがっつり読む気力はないかもしれないので、「KIndle Unlimitedで雑誌を読む」とか、「Podcastを聴く」とか、インプットのハードルを下げておく。

 創作をすると書くのではなく、その中でも最小単位である「ネタメモを作成する」などというように、できるだけハードルを下げるのだ。創作のジャンルを絞ってしまうとまたハードルが上がるので、「ジャンルを問わず、ネタ出しができればそれでOK」とあらかじめ決めてしまう。

 私はたとえどんなに弱っていたとしても、夜を徹して自分自身の心身を酷使する癖があるので、最低ラインを決めておくというのは、自分にダメ出しをすることそのものを減らすという意味でも有益なのだなと気づいたのだった。


 そうしているうちに、冴ゆは本棚の空いている一角に収まって、毛繕いをはじめる。どうやらYouTuberのクリームソーダさんの柔らかな声が気に入ったらしい。

 私はさらに「北欧、暮らしの道具店」のラジオ番組「チャポンと行こう!」を流すことにした。一時期はYouTubeで観ていたのだが、ここ一年ほどはもっぱらSpotifyで聴いていた。しかし、ずいぶん前から「チャポンと行こう!」のYouTube版では、人々が暮らしを営みながらラジオを聴いている、ゆるやかなアニメーションが流れる仕様になっており、佐藤店長とよしべさんの和やかな声と、その温かなアニメーションが冴ゆは気に入っているのだ。

 そこで私は最近はもっぱらYouTubeで「チャポンと行こう!」を流すことが多い。YouTubeのプレミアム会員登録はしていないので、途中にどうしてもCMは挟まってしまうが、それでも冴ゆの様子を見ながら動画を楽しめるという点ではとても助かっている。

 そうして22時から0時まで冴ゆのケアをして過ごした。ここのところ彼女も少し落ち着いてはいるのか、夏頃に比べて夜鳴きの頻度は落ちているのだが、分離不安というものは波があって完治することはなかなか難しい。

 自分自身の冴ゆへのケアの質量が、まるで至らないのではないかという自責の念が晴れたことは、冴ゆを迎えてから一日たりともないが、それでも私なりに精一杯彼女と向き合い、そしてケアをしているつもりでいる。


 そしてケアにまつわる倫理について、できれば書物を読んで学びたいという思いがあり、先日注文していた小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』が届いたのを開封した。

 まだ読めてはいないが、ケアと不可分な日々を送っている以上は、その倫理について今一度客観的な視座を元に考えたいという気持ちもあり、また同時に社会におけるケアについて捉え直したいという気持ちがある。

 ケアという言葉がブームとなり、誰もがケアし、ケアされる社会が到来するに至った、と思っていたのが、ここ数年のことだったが、昨今の状況を見ていると、誰もが「自分こそがケアを受けるべき存在だ」と認識しているように思えてならず、「他の誰よりも己こそがケアを享受するべきものであり、日本人でない、あるいは健常者でない、あるいはマジョリティの性的指向を持たないマイノリティはその二の次であるべきだ」という順位の優劣をつけるようになってしまった。

 外国人差別をはじめとした、マイノリティへの差別意識は、このケアの倫理的問題と不可分だろうと私は考えている。

 「マイノリティは与えられるべきもの以上のケアを不当に受けている」という意識が、おそらく人々の意識の中にあって、それが今噴出しているように見える。

 しかしそれは妥当な価値判断ではない。ケアの「不当な」独占や、その質量の優劣という誤った認識と、今のSNSを中心とした、自己肥大化した個々人のセルフイメージの氾濫は、おそらく切っても切り離せない問題だろう。

 ケアとは本来一方的に与えたり、逆にただ独占的に享受するために与えられるものではなく、相互に与え合うことをこの社会は理想としてきたのではなかったか。

 それは必ずしも金銭的な価値を伴う労働ではないし、それを果たせない人々を排除するというロジックもまた危険であるということも改めて書いておきたい。誰かのために時間を使い、そして心を砕き、たとえ一円たりともお金を使わなくとも、ケアを互いに与え合うことはできる。

 マイノリティを排撃する動きが強まる一方の世の中にあって、今一度こうした問題について考えてみたいという私の思いは日々高まっている。願わくばこの文章がその契機の一助となることを祈る。


作業用BGM:Death Stranding (Songs from the Video Game)

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