悪魔の囁き











我々が生きる関西圏、その住民はアカイエカ、ヒトスジシマカ(ヤブカ)に血をすすられて夏を過ごす。人類に牙を突き立てるのは雌。小さな命を次の世代につなぐため、他の生命体から精気を奪うのだ。


 女の敵は女とは、よくぞ言ったものである。私は自嘲気味に考えた。


 敵は滅ぼさねばなるまい。それが罪を重ねることであっても私は殺戮を断念しない。


 手のひらがうずく。そこから健二の体温が急速に去っていく。過去も、現在も、そして未来も、この手は暗黒の羽音を打ち落とすために在る。


 私は部屋の中央に歩み出た。ふと視線を下げるとこたつ兼用のテーブルの上に、電子回路を思わせる精密さをもって配置された文具とBluetoothマウスが見えた。


 いったい何を求めて、健二は物品を整列させるのだろうか。

 私の理解力では回答に達することが不可能な問いである。


 それをいま考えてはいけない。蚊だ。蚊を殲滅することだけに脳髄を使え。


 私は聴覚を研ぎ澄ませる。台所の換気扇が回る音が耳朶を打つ。ゴオオオ……それは地鳴りのようであった。アパートの隣の建売住宅から子供の声がする。


 無垢な、あのころの私たちのような声。


 ――うわあ、夏美! なんかおる……あ、消しカスかな。


 ――見せてみ。うん、消しカスやな。


 過去にとらわれるな。集中しろ。


 悪鬼の気配を探るために、極小の心音を聞き取らねばならない。部屋を見回す。「コバエのわかへん土で植えてん!」と歓喜雀躍しながら健二が見せてくれたパキラが窓際に鎮座している。


 そこで私の胸に陰りが発生した。パキラ。健二の愛を受ける植物界被子植物門真正双子葉類綱アオイ目アオイ科パキロビウム亜科(旧パンヤ科)パキラ属の植物。原産地は主にブラジルからメキシコの中南米。金運アップの風水的効果があると言われているが、現実はそうでもない。健二は執念さえ感じる倹約生活を送っている。


 いや、そんなことが問題なのではない。


 健二はあのあたたかなまなざしでこの植物を見、土が乾けばこまめに水を与えているのだ。

 嫉妬。私の胸でうごめくのはその名で呼ばれる醜悪な感情である。しかし、受け入れよう。たとえ醜くとも、嫉妬はときに人を果敢な行動に向かわせる。


 私は我が体内の悪魔さえ原動力として健二を守る。そうすれば、健二も、私の心に水を注いでくれるかもしれない。


 そのときどこか遠く、あるいはごく近いところからあの音が聞こえてきた。距離感のつかめない、茫漠とした空気の揺れ。ヴラド・ツェペシュのささやき。


 ――どこだ。


私は全身で空気分子の振動を感知しようとすべての神経を剣山のように逆立てた。


 聞こえる――前方、背後、それとも頭上か。 


 捕捉した。私はカッと目を見開き、深爪してしまった指をそろえて十時の方向に差し込んだ。その動作に所要したのはまばたきさえ許さぬ寸刻。繰り返される夏の戦闘は、私の蚊叩き能力を限界まで引き上げていた。


 パアン! 


 必殺の一撃が高い破裂音を立てる。終わった。私はそう思った。


 それを確認するために手のひらを見る。悪魔はすでに健二に牙を立てている。圧殺が成功していれば、そこには鮮血の染みがあるはずだった。


 しかし、私の手にはくっきりとした生命線が力強く刻まれているだけだ。軽い気持ちで扉をくぐった占いの館。そこにいたものすごいパンチパーマの手相鑑定士に「あんた二百まで生きるわ」と言わしめた線が。


「……まだや」


 死闘は始まったばかりだ。私はひるまない。進むべき道は目の前にしかない。振り返るなど、愚行の極みである。


 ――ぷーんって……飛んできたんや……


 健二の苦悩に満ちた言葉がよみがえる。あの男はなんという恐怖に耐え忍んだのだろう。愛する健二。悪魔を払わなければ健二は課題作成を再開できない。


 レポートの締め切りは迫っている。私も同じ講義を受けているからわかる。あの苦み走った中年男で影のファンクラブが存在すると噂されている心理分析学の教授は、どんな理由であっても締め切りを過ぎた提出物は断固受け取りを拒否する。一刻も早くエクソシズムを成功させなければ。


――来た。


 あの地獄から響く亡者の声、聴覚に不快な傷をつける音が私に迫る。後ろだ。


そのときの私の動きは外部から観察するものがあれば、おそらく残像さえ認識させなかっただろう。ひるがえした身が音速を超えて回転する。私はそんな感覚を抱く。


しかし、そこで私の足に何かが食らいついた。崩れる体勢、揺らぐ平衡感覚。足裏に硬いものがある。健二の声が聞こえた。


「ちょ、おま、俺のパキラ踏んどる……」


 よろめきながらも姿勢を立て直すと、布団の隙間から一対の瞳がのぞいていた。健二は哀愁に満ちたつぶやきを漏らす。


「ああー……パッちゃん……」


 ざわ、と私の精神世界に暗雲が湧き上がる。心が、不気味に身をくねらせる長虫に呑み込まれていくようだった。パッちゃんだと? 健二はこの植物に愛称までつけているのか?


 私のことは夏美と、どストレートに呼んでいるくせに……


 愛は、一瞬で憎悪に変わりうる。その感情の深度に比例して、憎しみはより強くなる。


 私は毛細血管が絶滅したと確信できる温度にまで冷えた手を骨も砕けよという意志を持って握りしめた。


 破裂するほんの一歩手前の激情を抑える修羅の戦。その苦痛はなまじな言葉では表現できない。表現するためには口を閉ざすしかない。雄弁なる沈黙。胸の奥のハリケーンが無辜の民を巻き込むのではないかという危機感が湧く。その実現を恐れた私は、おのれを絞首台に送る未来さえ想像した。


 ――強い光は、より暗い影を生む。


 健二。愛する男。我が身を賭して守りたい存在。


 だが、永遠に愛が届かなかったら? そのとき、この自我は崩壊し、私は理性と正気の世界から打ち捨てられてしまうかもしれない。


 ――いや! だめだ!


 血の味がするほど唇をかみしめ、私は思考の制御を取り戻す。


 パキラの花言葉は勝利、快活。私は蚊どころか自分の黒い感情にさえ打ち勝ち、健二の笑いをよみがえらせる義務がある。それは運命、星の導き、神の託宣である。


 私はそっとまぶたを閉じた。視界はもはや不要。折れたパキラも、やや気味が悪いくらい整頓された本棚も、もう、いらない。


 耳だ。いま信じるべきは我が聴覚。闇の奥に潜む悪魔のささやきをこの耳でつかむのだ。

 聞こえる。生き血をすする野獣のうなりが。


「ふっ……!」


 鋭い呼気を吐き、私は跳んだ。両手を打ち合わせる。だが、手ごたえを感じるいとまもなく、衝撃が身を包んだ。私はとっさに硬く目を閉じる。


 激しく頭を振りながら楽器を破壊せんばかりの勢いで長髪の男が打ち鳴らすドラム。そんな野性的な音が天に届くほど高らかと響いた。なにが起きたのか把握できない。


「な、夏美!」


 健二のあわてた声がする。まぶたを開けると、私は破れた網戸の上にいた。健二が布団をはねのけ駆けてくる。


「こけて網戸破るとか……コントやんか……。そんなオチ誰も笑わんで……」


 健二の言葉がどこか遠くから聞こえるようだった。空はその片隅に夕日の残照を抱き、朱色から紫、紫から藍、そして漆黒へと続くグラデーションを描いている。


 夜間の最低気温二十五度など生易しい。とっぷりと日が落ちても下がらぬ室温、汗みずくで寝返りを打ち続ける永遠のような熱帯夜。体内の水分は気化さえせず肌にとどまり、血液はひたすら濃縮される。またその時間が始まった。呼吸さえ忘れるほどの蒸し風呂。


 室内には煌々と明かりが灯っている。私は激烈な動悸を感じた。


 悪魔から室内を護る魔方陣を、悪鬼を寄せ付けぬ結界を、ちょっと手で押さえてごまかせる範囲を超えて破き散らしてしまった。それも自分で。


 夏の夜。全開になった窓。まばゆい電灯。


 そして聖なる光めがけて津波のように殺到するのは封じられていた闇の獣たち。無数の羽音が奏でる奈落のオーケストラ。


「うわあっ、めっちゃ虫くるやん……! もうあかん、あれを……」


 しかし健二の言葉は途切れる。それは私たちに与えられた宿命の女神の試練であった。私は痛む腰をかばいつつ再び足に力を込める。敗北を認めるのは早い。まだ私は戦える、猟犬の狩りはまだ続く――


「うっ……」


 そのとき、ピキッと我が身の内で不気味な音が湧いた。


 なんということだろう。連日の睡眠不足、座るか寝るかという二つの選択肢以外を喪失したのかと懸念を抱くほど不健康な生活、慢性的な猫背、大腿部の筋肉のこわばり、それらは若年層の腰部にも多大な負荷を与える。私も例外ではない。思い出したくもないが自動的に記憶が再生される。身じろぎさえ困難な療養生活。私は一年前、ギックリ腰という忌まわしい悪夢に襲われた。


 私の体内から聞こえた寒気のするような音は、牛頭馬頭に責め抜かれる地獄の復活を予感させるものだった。


 立ち上がりたい、立ち上がらなければ。それなのに激痛の兆しが私の体を束縛する。


「け、怪我したんか、夏美……」


 私はごくりと唾を飲み、絶望が声ににじまないよう、細心の注意を払って答えた。


「あかんかも……また、腰が……」


「……ッ!」


 すべてを察したのだろう。愛しい男の顔が歪む。


「わかった。夏美、待っとき……!」


 そして背中を向け、開放されっぱなしの押し入れに頭を潜り込ませた。若干の不安を覚えるほど神経質にキッチリと詰め込まれた衣類や生活道具がばらまかれる。健二の手がそれらを豪快に放り投げているのだ。


 タオルが、ボクサーパンツが、京都と大阪の府境にある実家から送られてきた干ししいたけが、「災害時の備蓄や」と言って健二が見せびらかしていたアルファ米が畳の上に広がる。しかし、アルファ米は食べにくいと聞く。ふりかけも用意しておくべきではないのか。


 そんなことはどうでもいい。


 健二はなにをするつもりなのだろう。私は愕然としつつ男の行動を凝視した。それだけしかできなかった。いま動けば腰が死ぬ。


「あった……」


 健二のつぶやき。その手にあるものを見て私は痙攣的な呼吸をした。肺胞が酸素を求めてあえぐ。微細な血管の一本一本が脈動し、心臓が強く収縮する。


 健二が握っているもの、それは――




「……対害虫絶対殲滅最終兵器・アース・カニエーツ・ファン・デス・オメガ・ジェット・《ツヴァイ》……略してアースジェット……」




 私の声からは、もはやすべての戦闘意欲が喪われていた。暗い過去が、そこにあった。

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