血染めの白無垢〜女は待ち続ける…永遠に…

ikki

プロローグ 彼岸花

霧が低く垂れこめ、山間の谷を覆っていた。

朝の光はまだ届かず、薄青い闇が全てを包み込む。

足元に、赤い花が群れを成して揺れている。

細い茎に、血のように鮮やかな花弁が幾重にも重なり、まるで大地から滴る生の色のように見えた。


 風が吹くたび、花はゆらりと揺れ、花々がささやき合う。低く呻くように響く、人の耳には届かない。

しかし、耳を澄ませば、確かに存在を主張しているのが分かる。

湿った土の匂いと、雨に濡れた草の香りが混ざり合い、森全体に重く垂れ込める。

森の中を歩く者は、足元から立ち上る湿った匂いと、花の赤に圧倒され、自然と呼吸を浅くする。


 光はまだ弱く、木々の間から漏れる朝露が赤い花弁に反射する。

水滴の中に映る赤の影が、ひときわ濃く、深く見えた。

小さな羽虫が花の間を飛び、静かな空気を切って羽音を残す

その羽音も、谷に反響することで、まるで花々がささやき合う声のように聞こえる。


 遠くから、何かが揺れる気配がする。

葉の擦れる音、枝が折れる音。だがそれは人のものではない。

誰も歩いていないはずの谷で、音だけが先に届く。

赤い花は、ただそこにあるだけで、何かを呼び覚ますかのように見える。


 谷を覆う霧の隙間に、光と影が絡み合う。

花の赤は目を刺すように鮮烈で、同時に吸い込まれるような深みを持つ。

踏み入れる者の心を揺さぶる、静かな威圧感。

森の奥に足を進めると、冷たい空気が肌に触れ、髪の毛に霧の粒がまとわりつく。

静けさの中で、自分の鼓動だけが、異様に大きく聞こえてくる。


 風が止むと、谷はさらに静寂に沈む。寒さと湿気が入り混じり、息苦しい

花は霧に包まれ、無数の赤い点となって浮かぶ。



その静けさは、安心感ではなく、何かが潜んでいることを示唆しているようだった。

谷全体が、赤い花を覆うかのように、不気味な空気に支配される。


 わずかな光が霧を裂き始め、やがて花々に金色の縁取りを作った。

赤と光、闇と霧が混ざり合い、世界はひとつの奇妙な静謐の場となる。

その光景は美しい。しかし、どこか異質で、息を呑むほどに不安を誘う。

まるでこの谷は、誰かを待っていたかのように、静かに息を潜めている。


 時折、霧の中に揺れる赤が、人の姿のように見える瞬間がある。

近づこうとすると、風にさらわれて消え、ただ花だけが残る。

足元に目を落とすと、踏み込むたびに花がわずかに揺れ、血のしずくのような赤が広がる。

その緋色は、過去の記憶や失われた魂の象徴のように感じられ、胸の奥に冷たい震えを呼び起こす。


 霧の谷は、昼間であっても、なお昼の明かりを拒むかのように薄暗い。

花の間に漂う露の香り、湿った土の匂い、微かに漂う鉄の匂い……。

それらが混ざり合い、嗅覚を刺す。

息を吸うたび、心の奥に何かが引っかかるような感覚がする。

森の中で、自分と花だけが残されている気分になる。


 谷の奥に目をやると、赤い海のような彼岸花がどこまでも広がる。

揺れる花の間に、人の気配が漂っている気がする。

風に揺れる茎が、まるで手を伸ばすかのように見え、霧の中に潜む影を想像させる。

森全体が、生と死、希望と絶望の間に揺れ動く。


 誰もいないはずの谷に、ただ彼岸花だけが、息づくかのように咲き誇っている。

そしてその花の間に、何かが待っているような気配が静かに漂っていた――。


 赤い花びらのひとつひとつが、悲しい思い出を抱え、再び巡り合うことのない魂たちの情熱を秘めているかのようだった。

それは、誰も知らない過去の記憶を呼び覚まし、静かに、しかし確実に心を揺さぶる。赤い海の奥に、まだ何かが待っているかのようだった


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