第5話 達哉と陽菜

がたつく摺ガラスの引き戸を開け中に入る。思っていたような埃っぽさもそれほどなく。きれいな掃除をされているように見える。


「この島ってさ、昔は結構栄えていたらしいんだけど、今じゃすっかり人がいなくなって空き家だらけだから、ほとんどただ同然で貸してくれるんだよ」


 美登里先輩が得意げに三和土で靴を脱ぎ、古びた畳の部屋に上がる。

 おそらく予約が入ると大家のひとが清掃に来るようになっているのだろう。玄関から入り、すぐに上がった場所がいわゆるリビングのようで、卓袱台とテレビ。それに座椅子が添えられており、更には急須とお茶菓子まで添えられている。建物こそ年季が入っているものの、旅館に泊まるよりもいいかもしれないと思える。

 美登里先輩がぶら下がっているひもを引き、ちかちかと面滅しながら明かりがついた。エアコンまでついているし、ちゃんと電気が通っているなら生活に不便はないだろう。


「こういうのも、たまには悪くないな」


 いいながら、荷物を畳の上に置いてその場に座り込む。僕の人生では生まれてからこの方一軒家で住んだこともなければ洋室のフローリングしか経験がないのだが、なぜかこの畳敷きの家には妙な懐かしさを感じる。もしかすると遺伝子によるものなのかもしれない。

 遺伝子と言えば、僕には母親がいない。僕を産んで間もなく病気でなくなったらしいのだ。父は男で一つで僕を育ててくれたわけだが、どこかに行くたびに父とは親子だと一目でわかるほどに似ていたらしいが、母に似ていると言われたためしはなく、それが母親を知らない僕にとっては少し寂しいところでもあるのだ。


「あ、ねえねえみて!」


 僕が物思いにふけっている間に台所に移動していた美登里先輩が冷蔵庫を開けた中を覗いている。


「ちゃんと食べるものや飲み物なんかも入れてくれてるよ。ビールもある」


 それが、ホテルのルームサービス的なもので、飲食した後にその代金を請求されるシステムなのか、それとも単なるサービスなのかの判断は僕にはできない。しかし、美登里先輩は何の躊躇もなくビールを二本取り出して僕の隣に座る。


「それじゃあ、とりあえず乾杯でもしようか」


 一本を僕によこし、美登里さんはもう一本のプルタブを起こす。カシュッという音とともに開いた口に泡が盛り上がり、先輩は口をつける。ぐびっと喉を鳴らし、しわせそうな笑みを浮かべる。


「なにやってんのよ、中辻達也君。のど、乾いているでしょ、ほら、あんたもささっといっちゃいなよ」


「あのですね、美登里先輩。僕はまだ未成年なんですよ。つか、先輩だってまだ未成年でしょ」


 僕の一つ年上の美登里先輩がお酒を飲んでいい年ではないことは明瞭だ。しかし……


「ざーんねん。あたしはもうちゃんと成人しているんだよね」


「まあ、確かに今は十八歳から成人ですけど、お酒を飲んでいいのは二十歳になってからですよ」


「なーにしょうもないこと言ってんのよ。そんなこと言ってるから達哉はまだ童貞なのよ」


「な、なにを勝手に……」


 不意に美登里先輩から『達也』と呼び捨てされたことに新鮮さを感じるより早く、童貞だと指摘されたことに慌ててしまう。おそらく彼女は何の根拠もなく勝手に言っているだけなのだろうけど、僕が調べたデータによれば二十歳未満の童貞率は75%ほどらしく、言ってしまえば僕はが童貞でああることはまったくもって平均的なレベルであり、なにも気にやむことはない。

 とはいえ、わざわざそんなデータを調べたことがある時点で気にしているっぽくて格好悪くもある。しかしそもそも、そんなことを偉そうに言ってくる美登里先輩のほうこそどうなんだと言ってやりたくもあるが、さすがにそんなことを口にする勇気もなく、僕は目をそらす。


「なによ。急に黙り込んじゃったりして、あ、もしかして――」


「ち、ちがいますよ」


 違わないのだが、そこは見栄を張った。見栄を張るしかなかった。


「じゃあ、さっさと飲みなさいよ」


「いや、そこは関係なくないですか?」


「関係ないっていうか、あたしはもしかして達哉はビールは苦いから飲めないなんておこちゃまみたいなことを言い出すのかと思って疑ったんだけど?」


 童貞かどうかの話だと勝手に思い込み、焦った言葉を発した自分を呪ってやりたい。今更僕は引くに引けず、プルタブを起こしてビールを一気に流し込む。

 うえ、苦い。なんで大人たちはこんなものを喜んで飲んでいるの理解にくるしむところだ。それでも僕は平然とした顔をでそれを飲む。これ以上美登里先輩に馬鹿にされたくはなかった。


 くれぐれも言っておくが、二十歳未満がお酒を飲むことは法律で禁止されている。僕と美登里先輩は現状、法律違反を犯しているわけだが、そこはどうか見逃してほしい。生きていくうえでたまにはそういうこともある。

 小説の中では普通に殺人を犯していることが平然と描かれているわけで、あくまで小説の形として記載しているこの文章にはどうか目をつむってほしい。

 では、話を戻そう。僕がビールを飲んだところからだ。


「いや、やっぱり夏はビールに限りますね。美登里先輩」

 

 ビールを飲むのは初めてだが、そこはブラフだ。しかし、先輩の指摘したい部分はそこでは無いようだ。


「それよりさ、達哉。この調査期間中はあたしのこと、美登里先輩と呼ぶのはやめてほしいんだ。それというのもね、ここを借りる時に未成年だとなかなか面倒なこともあるので、あたしと拓哉はともに十八歳の恋人同士、ということにしてあるんだ。何はともあれ、壁に耳ありというからね」


「え、僕とせ――美登利が恋人同士という設定なんですか?」


「あのさ、言っておくけど、その『美登里』っていうのも変だからね、名字の方なんだから。呼ぶなら普通『陽菜』でしょ」


「ああ……そういえば先輩、そんな名前でしたねえ。陽菜なんてかわいらしい名前、イメージと違いすぎて忘れていました」


「あのさ達哉、恋人にそんなものの言い方は無いでしょ」


「恋人……ですか……」


「そう、この旅の間だけは」


「わかったよ、陽菜」


 何となくだけど思い切りが必要だ。慣れてもいないビールを飲んだことが功をなしたのかもしれないが、思い切った僕の物言いに「はい……」と小さな声でしおらしく頬を赤らめたせんぱ――陽菜は見ものだった。きっと彼女も慣れないビールを飲んでしまったせいだろう。



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