186話~母子の一日~
翌朝、綾菜は目を覚ました。
ゆっくりと体を起こし、枕代わりにしていた優人の右腕の付け根を確認する。
――よし……ヨダレを垂らしてない!!
綾菜にはいくつかのルールがある。
そのひとつが「優人よりも早く起きること」だった。
それは、優人にヨダレをかけていないか確認するため――だけではない。
大和撫子を目指しているわけではないが、綾菜には“優人に尽くしたい”という願望があった。
恋愛経験は多い彼女だが、ここまでの気持ちにさせられたのは初めてのこと。
何がそうさせるのか、自分でも分からない。
しかし、この想いは「優人が年を取ってオムツが必要になっても、下の世話くらい普通にできる」と思えるほどの自信にもつながっている。
つまり――この人が運命の人だと確信しているのだ。
とはいえ、負けん気の強い綾菜にとって、黙って尽くすのは少し悔しい。
だから彼女は、寝ている優人の頬に軽く唇を当て、小さな声で「大好き」と囁く――そんな“憂さ晴らし”をしていた。
優人が聞いたら確実に喜ぶ行為を、わざと彼の知らないうちにやるという、綾菜なりの小さな嫌がらせである。
視線を優人の左脇へ向けると、そこにはミルフィーユが顔を突っ込んでうつ伏せで寝ていた。
――息苦しくないの?
と毎回思うが、ミルフィーユは優人の脇の下で寝るのが落ち着くらしい。
広げっぱなしの翼は優人の腹部を覆うようにかかり、まるで掛け布団のよう。
お腹の弱い優人にとっては、ありがたい天然の羽毛布団だった。
綾菜はミルフィーユの頭を軽く撫で、準備を整えると、静かに部屋を出て1階の酒場へ向かう。
酒場はまだ人気がなく、薄暗い空間の中でマスターのダムが仕込みをしていた。
「ダム、おはよう。」
「おう、綾菜。おはよう。朝飯か?」
ダムは眠そうな目をこすりながら答える。
「ええ、3人分お願い。」
「あいよ。」
ダムはカウンター席に腰を下ろした綾菜へコップ一杯の水を渡し、台所へ入っていった。
――これが家なら、私が作るんだけどな……。
ダムが朝食を作る様子を見ながら、綾菜はそんなことを思う。
食事を受け取ると、部屋に戻った。
「おはよう、綾菜。」
優人とミルフィーユも起きていた。
「ママ、おはよう。」
ミルフィーユは寝ぼけまなこで挨拶をする。
「ゆぅ君、ミルちゃん、おはよう。」
綾菜は笑顔で返し、ダムの作った朝食をテーブルに並べた。
3人はたわいもない会話をしながら食事をとった。
* * *
食後、優人は昨日の約束通り、アレス、リッシュ、シリアの4人で暗黒魔法組織の隠れ家捜索へと向かった。
ジールド・ルーンの聖騎士団長、サリエステールのエルフ王子、ジハドの高司祭、そして8000人斬りの侍――。
綾菜は改めて考え、
「とんでもないメンツだな……」
と苦笑しながら見送った。
* * *
「ふぅ……もうお昼か……。」
洗濯や武器の手入れを終えた綾菜は、いつの間にか時間が過ぎていたことに気づいた。
そろそろミルフィーユとお昼にしようとベッドに目を向ける――が、そこにミルフィーユの姿はなかった。
「えっ……?」
綾菜は慌ててベッドに駆け寄る。
「ミルちゃん!」
呼んでも返事がない。
ふと窓を見ると、開いている。
――外に行った!?
綾菜は急いで部屋を出て、酒場へと駆け下りる。
「おお、綾菜。どうした?」
血相を変えて走る綾菜を、ダムが呼び止めた。
「ミルが……私と一緒にいた女の子がいないの!!」
「ああ、あの可愛い子か。
さっきまで店の外の道路でお絵かきしてたぞ。」
「えっ? お絵かき? その後は!?」
「さぁな……少し店が混んでたから見てねぇや。その辺うろうろしてると思うぞ。」
呑気なダムの言葉に、綾菜は礼だけ言い残し、外へ飛び出した。
「ミルちゃーん!!」
できる限りの声で叫ぶ。
頭の中では最悪の想像が渦巻く。
ミルフィーユは珍しい“赤竜の亜人”。
もし亜人狩りに連れ去られていたら……?
ここはエルンの王都。
犯罪監視は厳しい――エルオ導師が野良犬や野良猫、カラスや鳩、スズメにまで魔法をかけ、その視界を通じて王都を監視しているのだから。
――エルオ導師に聞きに行くべきか……?
綾菜が考え込んだそのとき――。
「ママー!!」
空からミルフィーユの声がした。
見上げると、彼女がパタパタと飛んでくる。
「ミル……!」
綾菜は胸をなで下ろす。
ミルフィーユは綾菜の足元に着地し、食べかけの無花果を差し出した。
「はい。これね、甘いんだよ。」
ちょっとムッとしたが、綾菜は微笑んだ。
「あら、無花果じゃない。ありがとう。」
一口食べる。
「うん、甘い!!」
綾菜の言葉に、ミルフィーユは満足そうに微笑んだ。
「これね、甘いのと苦いのがあるんだよ。食べてみないと分からないんだ。」
ミルフィーユが自慢げに説明する。
――なるほど。見分け方は知らないのね。
綾菜は片膝をつき、まるで王子が姫をダンスに誘うように上品にお辞儀をした。
「うん?」
ミルフィーユが首を傾げる。
「ミル姫、どうか貴女の宝物庫まで私を案内していただけませんか?
きっと、貴女を満足させてご覧にいれましょう。」
ミルフィーユは嬉しそうに遠くの崖を指さす。
「あそこだよ! ママ行こう!!」
しかし、すぐハッとした顔をする。
――ママは飛べないことに気づいたのだ。
綾菜はドヤ顔で答える。
「私は貴方のママよ?」
そして魔法を唱えた。
「コール、インプウィング! インプテール! インプホーン!!」
綾菜の背中に禍々しいインプの翼、頭に角、そしてお尻に尻尾が現れる。
「私と一緒!!」
ミルフィーユが嬉しそうに叫ぶ。
――あなたの翼みたいに上品じゃないけどね。
綾菜は心の中でぼやきながらも、ミルフィーユの後を追って空へ舞い上がった。
* * *
崖の上には、たくさんの無花果が実っていた。
ミルフィーユは自慢げに果実を取っては綾菜に持ってくる。
「これ、甘い?」
「ううん、それは苦いよ。」
綾菜が答えると、ミルフィーユは言葉を待たずに口へ放り込み、案の定しかめっ面をした。
綾菜はくすっと笑いながら甘い無花果を選び、一つ手渡す。
「これは甘いよ。」
ミルフィーユは食べて「甘い~!!」と嬉しそうに笑う。
「ママは何で分かるの?」
――来た!
綾菜は内心でガッツポーズしながら説明を始める。
まず、色。全体的に赤褐色なら第1審査合格。
次にお尻の部分。裂けかけていたら第2審査合格。
第3審査は香り。甘い匂いがすれば合格。
そして最後に触る。
人の肌みたいに柔らかければ、完熟。
「そうしたら、取って食べようね。
まだ甘くない実は、もう少し待てば甘くなるから。」
さらに、未熟な無花果はお腹を壊す恐れがあることも教えた。
ミルフィーユは真剣に聞き、何度も頷く。
2人は夕方になるまで夢中で無花果を選び、取っては食べ、取っては食べを繰り返した。
* * *
「ミルちゃん、これからはどこかに行きたい時はママに言ってね。
少し待つかもしれないけど、もっと素敵なことを教えてあげられるかもしれないから。」
夕焼けを背に、綾菜が穏やかに言う。
本当は心配だから――それが本音。
けれどそれを“教え”として伝えるのが、母親としての工夫だった。
「うん! もっと色々知りたい!!」
ミルフィーユが元気に答える。
綾菜は微笑み返した。
遠くに見える王都の入口に、4つの人影が見えた。
「あれ、パパ達かな?」
「かな?」
「行ってみようか?」
「うん!」
2人は一斉に飛び立った。
「ママ、待ってー!」
飛行速度は綾菜の方が圧倒的に速い。
――ミルはまだ翼の使い方がよく分かってないのね。
そう思いながら、綾菜は空中で実演して教える。
「飛びながら少しずつ高度を上げて、ある程度で翼をピンと伸ばして……。
パラグライダーみたいに少しずつ落ちるの。
これを繰り返せば楽で速いのよ。」
ミルフィーユは一生懸命真似して飛ぶ。
「パパだ!!」
ある程度近づくと、ミルフィーユが優人を見つけた。
赤竜の視力は伊達じゃない。
綾菜も速度を上げ、優人たちの元へ降り立つ。
「おお、綾菜、ミル!!」
優人が笑顔で手を振る。
「みんな、お帰り。成果はどうだった?」
綾菜が尋ねると、アレスが答えた。
「ああ、それについては酒場で話そう。」
「了解。」
綾菜は頷く。
「あと、途中で無花果を取ったんだ。綾菜好きだろ? 酒場で食おう!」
優人が大量の無花果を見せる。
昼間に散々食べた綾菜とミルフィーユは、顔を引きつらせた。
「うん?」
首を傾げる優人。
「よし……今夜はパイにしてみよう!!」
綾菜が言う。
「パイ!!」
ミルフィーユがはしゃぐ。
「えっ? 綾菜は無花果とかプラムは生が好きじゃなかったっけ?」
「パイ!」
「パイ!!」
そんな優人の問いを完全に無視して、綾菜とミルフィーユは“パイコール”を交互に叫びながら、酒場への帰路を歩いた。
母親道を目指した綾菜の戦いは、まだ始まったばかりである。
まだ素直で良い子なミルフィーユだが、この先には反抗期が待っている。
きっと悩み、苦しみながら、その道を歩んでいくのだろう。
だが、綾菜は――母親であることを諦める気はない。
大切に、愛情をたっぷり注いでいくつもりだ。
かつて、自分の母親がそうしてくれたように。
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