正しい水菓子

替え玉

正しい甘橙

いつだって正しい選択をしてきたつもりだった。

 失敗しなければ、間違いを起こさなければ報われると思った。

 世界は失敗を重ねた成功話に花を咲かせ、どれだけの間違いを犯して最果てにたどり着いたか、その高低の激しさ、色の濃さが顕著であればあるほど興味を持ち共感し、時には庇護欲を掻き立たせて評価すると知っていたはずなのに。

 「え。あの元彼結婚したの。誰と」

 無邪気な仕草でウイスキーグラスの丸く削られた氷を太い指で回す。頓狂な声を上げた学生時代の友人の突き出た喉仏を眺める。

 「知らない。元カノか、マッチングアプリで知り合った相手なんじゃないの」

 「あんなに|三井みついに依存してたのに、切替すごいね。そんなにすぐ、好きな人ってできるものなの」

 呆れた様子にも見えるし自分には無い行動力に心から素直に単純にすごいと思っているようにも見える様子で両腕を上げて伸びをした。

 明るい調子で仄暗いバーのカウンターで子供のように大きな体で伸びをされるとかなり目立つ。周りの視線をちらりと気にしながらモスコミュールを口に含む。小さく弾ける炭酸の泡がエアコンの風で乾いた唇に心地いい。

 同じ男であるはずなのに元彼とは違う首の太さ、喉仏の出方、広い肩幅、分厚い筋肉、あちこちに伸びた太い筋に体躯の逞しさを感じると同時に、華奢なあの男とは違って三好くんはどこまでも純粋で愚直で邪気がない。

 「一ヶ月しか付き合ってないし。そんな大して思い入れなかったんでしょ」

 「そのわりに一年もお互いずるずるしてたじゃん」

 お互い。その言葉に返せるものはなかった。切り替えたから結婚に踏切ったのか、結婚するから切り替えたのか、鶏が先か卵が先かの考えても仕方の無いことをアルコールで流し込んだ。

 「三好みよしくんは?こっちでいい人できた?」

 「ううん。この間一週間で振られた」

 「一週間?どういうこと」

 「分かんない。学生だったんだよね。長期でこっちに来てて、考え方とかも落ち着いてて、年齢の割になんか大人びてて。いいなあと思って告白したらオッケーくれて、その一週間後に振られた。」

 「学生?理由は聞いたの」

 「うん。思ってたのと違うって言われた」

 思ってたのと違う。

 悠也ゆうやも同じことを言っていた。

 もっと上手くやれると思った。思ってたのと違った。

 あのときの落胆に満ちた瞳と声が今もこびりついて離れない。

 三好くんがウイスキーを飲み干したので私も残りのモスコミュールを下げてもらい、同じものを用意してもらった。ウォッカのスッキリと、でも何処か重たい香りと味が体の奥に沈殿していく。

 「酒強いね、イメージ通り」

 「どんなイメージ」

 「酒豪!」

 「そんな明るく言われても嬉しくないよ」

 「なんで、お酒強い方が楽しいし安心じゃない?」

 「悠也はそんなこと言わなかった」

 「へー。変わってるねその人」

 三好くんとは高校時代同じクラスで、学校を休みがちな彼によくノートを見せてあげた。名前が近かったあとの席替えも何回か隣の席や前後になることがあって縁を感じた。

 卒業してから直接会うことはなかったけど連絡は時々取り合って、久しぶりにまた連絡したら知らぬ間に長野の白馬村に移住していた。

 元彼の話を度々持ち込んで相談ともならぬ相談をしたら息抜きに遊びに来ないかと誘われた。一人で旅行をしたことがなかった私は今までの自分とは違うことがしてみたくて、悠也との思い出や未練を少しでも感じたくなくて三好くんのガイドの元白馬村にやってきた。

 お盆期間の長時間の車の運転は骨が折れた。やってきてすぐ小さな定食屋で大きなアジフライをご馳走してもらい、湖でサップをし、三好くんが働くホテルの同僚や子供たちとバーベキューをした。

 一日だけでも溜まりに溜まって爆発できもせず燻っていた鬱憤が吹き飛んだ。

 自然豊かな緑の色々と、澄んだ空気、清涼な風、ボリュームたっぷりの食べ物に癒されたあと、この静かな隠れ家のように落ち着いたバーを案内してくれた。オレンジの温かなライトが日焼けた肌を覆うみたいだ。

 「変わってるって言うか、亭主関白?」

 「そっか。付き合ってすぐ仕事辞めて専業主婦なってほしいって言ったんだもんね。かっこいー」

 「かっこいいけど、私の意思はガン無視だったよ」

 「三井は仕事好きなの」

 「好きじゃないけど、絶対辞めたくない。一人で生きてく力を手放したくない」

 悠也は大手ゼネコンの現場監督で、朝から晩まで休みなく働いていた。週六日現場に出向いて、日曜は一級建築士の資格を取るため塾に通い、休みなんてなかった。

 会えるのは唯一残業が一、二時間で済む水曜のみで私が悠也の家で帰りを待ち、夕飯を食べシャワーを浴びて倒れるように甘えてくる悠也が眠りに落ちるのを眺める。

 完璧主義の悠也はそんな自分のギリギリの生活も私に付き合わせてることも、理想としたカップルらしいデートすらできないことが耐えられなかった。私に尽くされることが彼にとっては惨めで耐えられないことだった。

 働かなくていい、家事も手抜きでいいから家にいてほしい。将来は子供もほしいし、共働きだと何かと大変だろうから俺が稼ぐ代わりに家のことを任せたい。

 現代には珍しい古風な男らしさを持ち合わせていた。

 だけど私は自分の仕事で得られる社会的価値、財産、プライドを捨てたくなかったし、自分を自由にしてくれる手段を手放したくなかった。

 目の前にある仕事が片付くのは気持ちがいいしやり甲斐もあった。給料は悠也のそれと比べれば雀の涙だった。それでも、私の価値を築ける唯一の手段にすら思えた。

「そっか。俺まともに働いたことないからずっと同じとこで働いてるのすごいと思う」

 「まともに働いてるじゃん。ホテルスタッフと、観光案内とかバーのマスターとか、色々」

 「全部バイトだから。しかも金貯まったら海外飛び回ってなくなったら戻ってきて金貯めての繰り返し、こういうのなんて言うんだっけ」

 「うーん。風来坊、るろうに、根無し草?」

 「ロクな男じゃないね。そりゃ一週間で振られる」

 「次はどこに行くの」

 「決まってないけど、タイ行ってみたいな」

 静かな声で、キラキラした瞳で先の見えない未来を思い浮かべる三好くんは眩しかった。端正な顔立ちで学生時代からモテてきたはずなのに未だにまともに彼女が出来たことがないのは、それよりも優先したいことがいくつもあるからなのだろう。

 「いいね。いつかは落ち着こうとか思うの?」

 「そりゃいつかはね。でもいつかだから、好きな子がもしできても、そばにいられないでしょ。嫌な思いさせるし、俺も寂しい。大事にしたいものがあるうちは好きになっちゃダメだよね。責任取れない、っていうか、取る気ないようなものじゃん」

 「偉いね。カッコイイよ、さすがだわ。なんて言うのかな、粋だね」

 「おー。三井は褒め言葉見つける天才だね」

 意味もなくロックグラスを持ち上げて乾杯し直した。カチン、とグラスがぶつかり合う音で声を上げて笑った。

 彼は根無し草なんかじゃない。ちゃんと自分の中に根ざしているものが、確たるものがそこにある。

 目的に向けた意思がきちんと自分の向いている方向へと続いている。

 「ちゃんとやりたいことがあってそこに進む努力ができてるんだから、ロクな男じゃないなんて思わないよ。その子がどうだったかは知らないけどね」

 「フォローありがとう」

 「うちの姉に言って聞かせてやりたいわ」

 三好くんが不思議そうに首を傾げた。大きな体なのに表情や仕草はあまりにも素直で、酔いが回ってきたせいか大型犬に見えてくる。

 姉を妊娠したことで高校を中退した母は専業主婦となり、亭主関白でケチだった父に毎日のようにレシートや家計簿のチェックをされストレス性胃腸炎を繰り返していた。度々癇癪を起こしては私たち姉妹と喧嘩を繰り返し、精神安定剤も服用していた。

 母親が父親の顔色を伺い、それに習って姉と二人なにか気に障ることがあれば言葉にせず足音や物音で不機嫌を醸す父親に怯えて過ごした。

 反抗期を迎えた姉は中高まともに学校に通わず親と同じように高校を中退し、続かないバイトを繰り返して今はペットショップに勤めてそこの店長と付き合い財布のように扱っている。

 結局母も姉も男の財布がなければ生きていけない。そんなふうにはなりたくない。誰かの支配の元で生きるのはもう嫌だ。

 幼少期に根付いた支配の恐怖と嫌悪は今も続いて、悠也からの申し出に頷くことが出来なかった。

 それを悠也は好意の拒否と捉えた。私はそれを愛ゆえの支配だと言い放った。

 もっと他に言い方があったはずなのに。

 「お姉さん自由だもんね。こんなこと言っちゃあれだけど、よくその家族の中で大学行って、一人暮らしして、会社勤めしてるよね」

 「よく言われる。親戚からは貰われっ子なんじゃないのって笑われたよ」

 「なんで、立派なことじゃん。変だよそれ」

 「三好くん、変ってよく使うね」

 「だって変だよそんなの」

 「世の中変なことばっかだよ。正しいことのはずなのに、間違ったこと言ってないのに拒否されたり笑われたり、私の方こそロクな人生じゃなかった」

 悠也は束縛が激しかった。自分は仕事一辺倒の中私は職場の人との飲み会、地元の友達との集まり、一人の趣味があり悠也がいない時間を充実させていた。意識的にそうしていた。

 悠也が立派に働いているのに私は大した稼ぎも学力もなかったから、せめて精神的には悠也に依存しないよう自立していたかった。依存先を複数に分けて均衡を保とうとした。

 だけどそれは悠也の劣等感や孤独感を助長させた。

 悠也とは大学生のときにマッチングアプリで知り合った。バイトと学業の両立に耐えられなくなり依存先を求めた。

 私より頭が良くて、学力だけじゃなく頭の回転が早くて、スマートで、余裕があった。そんな男の子は人生で初めて出会った。

 初めての待ち合わせのとき、同世代の男の子にしては小柄で華奢だったけれど人気絶頂にいるアイドルグループのような顔立ちの悠也に私は自信をなくし待ち合わせ場所から立ち去りたくなった。

 だけど悠也は会った瞬間に私の目を見て微笑んで、人生で出会った中で一番タイプの女の子だと言った。

 歩きながらカフェを探して地図を読んでくれて、二、三時間おしゃべりをして時間が惜しいと言った。

 「もう少し一緒にいたいけど、次の約束がほしい。また会ってくれる?」

 そんなふうに誠実に真っ直ぐ求められ、胸が高鳴ったと同時に自分はこの人といたらおかしくなるんじゃないかと怖くなった。私が私じゃなくなる予感がした。

 悠也は会う度に髪型やメイクや服装を褒めてくれて、デートスポットを探してくれて、必ず終電前には帰してくれた。

 そんなふうに大事にされて、もしこの人がいなくなったとき私はどうなってしまうんだろう。この人の目が、言葉が、指先が、私を独りじゃないと気づかせてくれたと同時に今までずっと独りだったことも思い知らされた。

 家族のことを相談したときにも、温かな言葉をかけてくれた。

 共感力の低かった悠也は、「同じ映画を見ても沙耶さやが十感じることをきっと俺は一も感じないかもしれない。卒業式とか、そういうので感情が震えたことがない。でも、沙耶が泣いたり、笑ったりしてるのを見たら俺はそこで初めて同じ気持ちになれた。悲しいんだな、嬉しいんだなって気づけるようになった。だから、神経質だなんて自分のこと責めなくていい。」

 そういう沙耶が好きだよ。

 悠也の言葉が、ずっと独りだった私をすくい上げてくれた。

 それなのに悠也と一度別れてしまったのはほんの些細なことだった。悠也はスマートな割に子供っぽいところがあって、デートの度に足をひっかけたり軽く突き飛ばしてきたり、待ち合わせ場所でキョロキョロ探す私を眺めてしばらく笑って観察したりと好きな子をからかう小学生のようなことをする人だった。

 私は大事にされているかその度に不安になった。

 決定的だったのは、悠也が友達の合コンに付き合ったときだった。行ったことに対して私は嫉妬しなかった。悠也を信じていたからだ。

 だけど私のその毅然とした態度が悠也は面白くなかったのか、自分の友達がアプローチしてる女の子が合コンのその後も自分にアプローチをしてきて困っている、どういうつもりなんだろうとつらつら話した。

 一度ならまだしも二度、三度遊びに行ったことを聞かされ、わざわざ私の嫉妬を引き出すために好きでもない女の話をしてくる悠也の器の小ささに辟易した。愛情を試されているようで、悠也の基準を満たさなければいけない気がして嫌だった。

 「どう思う?」

 「なにが」

 「いや、だって俺の友達が誘ってるんだよ。それに乗ってくんのにいざ来たら俺にばっか話しかけて、どういうつもりなのかなって」

 「私はその子みたいなことしないから分からない、考えたこともない」

 冷たく突き放した言い方に悠也は少し黙って、

 「沙耶は性格悪いもんな」

 突っぱねるように言い放った。

 言葉にした直後に悠也が焦ったのは見て取れたけれど、好きだ愛してると言う割にからかってきたりちょっかいをかけたりされることにストレスを溜めていた私には効果抜群の一言だった。

 「じゃあ別れた方がいいんじゃない。性格いい子といれば」

 今度こそ投げ捨てるように言ってその場を離れると悠也は手首を掴んで引き止めた。強い力に驚いた。悠也の触れる手はいつも優しく穏やかだったからだ。

 「なんでそんなこと言うんだよ、沙耶のこと好きで一緒にいるのに」

 「一緒にいるのにどうして性格悪いなんて言えるの、私が傷つかないとでも思ったの?」

 「冗談じゃん、真に受けんなよ」

 「冗談なら何言ってもいいわけ?私ずっと悠也のそういうところが嫌だって何度も言ってるじゃん」

 悠也は眉間に皺を寄せ、手首を掴む力を込めた。

 「本当に性格悪いと思ってたら一緒にいないよ」

 出た言葉は私の求めていた言葉とは全く違って、このまま一緒にいたらお互いを傷つけて、もっと酷い結末を迎える。そう思った。

 悠也の掴んだ手を振り切って、私はその日の帰り道悠也の連絡先や写真、動画、悠也に関わるもの全てを削除した。

 悠也は私の友達に手当り次第連絡をしたけれど、私は頑なに拒否して音信不通のまま二年の時が経った。再び縁が交わったのは、就職して二年目の年だった。

 プライドだけで家を出て、四流の大学に通いそこそこの会社に勤めた。そこまでの道のりは自分にとって茨の道で険しい道のりだった。

 けれど頑張ってきたつもりでも自分よりもっと努力してもっとすごい確固たるものを築いている人が沢山いる。

 むしろそんな事をせずとも最短ルートで親の庇護の元安定した生活を手に入れている友人や、私たちが成人を迎えてすぐに父親と離婚してどこぞの会社経営の既婚者と不倫をしている母は毎週ゴルフや旅行に出かけ、まともに就職していない姉も彼氏からもらったブランドバッグやアクセサリーで身を飾って日々を過ごしている。

 デパートでセールになっていたバッグで、残業を終えた疲れた体を引き摺って実家に顔を出した廃れ切った私を見て母と姉は哀れみの目で言った。

 「酷い顔色。肌もパッサパサだよ。ケアしてる?」

 「安い給料でずっとこの先も働いてたいなんて、考えられない。我慢は毒だよ」

 自分は一体なんなんだろう。

 いつかは報われる、我慢していればいつか満たされる、これだけ苦労してきたのだから必ず幸せになると歯を食いしばって生きてきたはずなのに、今あるのは空虚な乾きと飢えだ。

 苦労の分だけ幸せになるなんて嘘っぱちだった。

 絶望に包まれ未来が全く見えなくなったとき、足元がふらついて駅のホームで一歩踏み出したくなったときがあった。もう全部、どうでもよくなってしまった。

 そのとき、不意に悠也の言葉を思い出した。

 そういう沙耶が好きだよ。

 そう言ってくれた悠也に、私は悠也のそういうところが好きじゃないと突き放した。

 なんであんなことを言ってしまったんだろう。大粒の涙がこぼれた。

 嫌な思いもしたかもしれない。めんどくさかったけど、だけどあれは、不器用な悠也の最大限の愛情表現だったのに。

 あまりにも遅い後悔が脳と体に駆け巡って、無我夢中で悠也のsnsを探した。当時の友達とのチャットを遡り、悠也のsnsのアカウントのスクリーンショットを見つけてダイレクトメッセージを送った。

 悠也はすぐに返事をくれて、電話をすると二年前と変わらない単調な声と言葉で会う約束を結んだ。

 「あのとき、何も言わずに消えてごめんね」

 「うん。まあ、あーやったなとは思ったし。その後彼女できたりしたけど、あんな怒ってくる女沙耶しかいなかったなって思って、俺もずっと覚えてた」

 「今は?」

 「いないよ。沙耶は?」

 「私も、いない」

 悠也しかいない。私が付き合いたいのも、付き合っていけるのも悠也しかいない。私の嵐の海のような感情も、火山の噴火のような起伏も、崖の下に崩れ落ちたような絶望も、悠也のそばにいればすべて凪のように落ち着いた。

 「仕事忙しいの」

 「まあぼちぼち」

 「悠也がぼちぼちって、相当なんじゃないの」

 「うーんまあ。今の現場がちょっとね」

 悠也のちょっとはちょっとじゃない。頑固で我慢強い彼がお茶を濁すように答えたのなら相当のことなのだろう。

 そう思って、二年ぶりに再会したとき言葉を失った。

 疲弊しきって目の下のクマはくっきり浮かび、華奢な体が前よりも一周り小さくなったように思えた。

 「よくすぐ見つけられたね」

 「見つけるよ。二年経っても変わらず綺麗だよ」

 変わらないストレートでスマートな物言いに、私はこの人だと心から思った。

 この人と会うために、こんなに辛い思いをして頑張ってきたのだと。馬鹿馬鹿しいけど、本当に運命を感じた。再会した瞬間に、報われたんだと確信した。

 その幸せは、ものの一ヶ月で崩れ去った。

 会えない日が続き、片道二時間かけて会いに行って数時間のひと時を貪るように求めた。寂しくても耐えられる。辛くても、この人がいたら私はなんだって出来る。結婚に不信感を抱いていた自分が、この人とならと思える相手だ。

 そう思って辛抱強く耐えた。

 耐えられなかったのは、悠也のほうだった。

 お互いこれ以上意地を張ったり強い言葉を使えば壊れる、そうやってギリギリの境界線を保っていたのがついに壊れた。

 「そうやってすぐ感情的になるなよ、過剰に受け止めすぎ」

 「過剰?じゃあ聞くけど、自分の言葉や態度が冗談だったとしても、そこまで傷つけてるんだっていう風には受け取らないの?たまにしか会えない中で、しょうもないことでからかってきたり冗談で可愛げ無いとか、本当は俺のこと好きじゃないんじゃないのなんて疑われたら、怒るに決まってるでしょ。少ない一緒にいられる時間を楽しみたいのに、無駄にしたくないのに、そっちが意地張って数時間口を聞かないで眠るだけで朝が来て、また二週間会えなくなるんだよ」

 「疑うようなこと言ってないだろ、話盛るなよ」

 「疑うつもりで言ってなくても感情ベースで見たらそうでしょう。貴方はその場の冗談で言っただけかもしれないけど、愛情疑ってるからこそ出る言葉なんじゃないの。深層心理の自分の気持ちや人の気持ち考えたことある?私がどれだけ、会いたいのを我慢して、会いに行って、疲れてる中で一緒にいてくれるから無理しないでほしいって思ってるのに、貴方はそうやって感情の上で考えてくれたことある?」

 「感情に訴えかけられても俺には分からない。忙しくて会えないのは申し訳ないと思ってる」

 「私が怒ってるのは忙しくて会えない事じゃないよ。合間縫って会ってる時間をつまんない意地とか冗談で無駄にしないでって言ってる」

 「そっちだって甘えてこないだろ、何考えてるか分からないし、ちょっと距離埋めようとしたらそうやって感情的になって」

 「甘えられないのは貴方が時間全然ないのに、その時間無駄にするからでしょ」

 しばしの沈黙が流れていたと思う。

 またやってしまった。気がついたときにはもうとっくに遅かった。

 電話の向こうで落胆した悠也の顔が浮かんだ。

 ただ一緒にいたいだけなのに。仲良くしたいだけなのに、どうしてこんなにも噛み合わないんだろう。

 「……ごめん。違う。結局貴方の忙しさのせいにした。ごめん。でもそうじゃない、そうじゃないの。今の状態じゃ、会う頻度も時間も、これが限界だよ。私は耐えられるよ。だから、会えるときは仲良くしたいよ」

 二年前の私ならここで逃げたかもしれない。だけどここまで傷つけ合っても悠也となら一緒にいられると思った。将来の約束を空想だとしても思い浮かべられた。

 離れるなんて選択肢は1ミリたりともなかった。

 「じゃあ、結婚しようよ」

 悠也から出た言葉は、諦観したプロポーズだった。私はそれがショックで目の前が真っ暗になった。

 お互いの寂しさを埋めるために一緒にいたかったんじゃない。一緒にいるために、努力していきたかった。同じ方向を向いて、生きていたかった。

 「そしたらしんどい仕事辞められんじゃん。今のアパートも引っ越すし」

 「しんどいけど…私は辞めたくないよ」

 「じゃあこっちから通うの?遠いでしょ」

 悠也の提案にはいつだって私がいるけれど、私の意見や希望はそこになかった。

 地元を離れれば実家の猫にも友達にも会えなくなる。仕事も移動させられるかもしれない。たまにしか会わないこの頻度でこんなに喧嘩をするのに、一緒に暮らしていけるのか。毎日悠也の冗談に私は耐えられる自信はない。

 「結婚したくない?」

 「そんなこと言ってないよ。ただ、付き合ってまだ一ヶ月だし同棲もしてないし、……もう少しゆっくり考えたい。一緒にいたいよ。でもまずは、一緒にいられるようになってから、先のこと考えたい」

 縋るような言い方になってしまってすぐに自己嫌悪が足元から這うように上ってきた。

 私の気持ちが、言葉が悠也に通じない。

 あんなにも居心地が良くて、お互いが欲しい言葉と態度で接していられたのに。

 悠也が別れ話をしたのは次に会ったときだった。その日の電話から連絡が一日一回、三日に一回と迂空くようになった。電話も毎日のようにしていたのに、断られ続けた。

 忍び寄る絶望と拒絶の壁に押しつぶされそうになりながら、それでも今だけだ、耐えられると信じた。

 「ちょっと前から別れようと思ってたんだよね。…付き合ってすぐから喧嘩してばっかだったし」

 頭を殴られたような感覚というのはこのことかと実感した。

 連絡を無視し続ける悠也の自宅まで仕事終わりに電車で向かった。残業を終えてからでもう終電はすぐそこまで迫っていた。

 何度もインターフォンを鳴らしても電話をかけても繋がらない。諦めかけたそのとき、玄関のドアが開いた。

 「あんま鳴らすと、隣の人とか変に思うから。ちょっと移動しよ」

 家の中に入れてすら貰えない。一週間以上連絡を無視して会いに来た私の心配よりも、自分の体裁の心配か。そこまで拒絶されるほど何をしてしまったのだろうか。私の一体何が、彼をここまで変えたのか。

 小さな公園でベンチに腰かけながら、悠也は決め手の一言を告げた。

 別れようと思ってた。誰と誰が。私と悠也が。何故。

 じゃあ何故、あの喧嘩のとき結婚しようと言ったのか。会う度に、もっと一緒にいたいと猫が擦り寄るように頬を寄せて柔らかな髪の毛を埋めてきたのか。いつからだ。

 お前のちょっと前は、いつからなんだよ。付き合ってすぐ。それはお前が冗談で何度も傷つけてきたからだろ。向き合うことから、逃げた結果だろ。向き合うことから逃げて、形だけ、体裁だけを保とうとしたからだろうが。

 怒りと絶望と悲しみと疲れとが濁流のように自分の中に流れ込み胸が詰まった。言葉を吐き出すのも飲み込むのも難しくて口の中で空気と言葉がごちゃ混ぜに絡み合う。吐き気がする。

 「……私の何が嫌だったの」

 「何が嫌とかじゃ、ないんだけど」

 悠也はいつも自信と余裕を身にまとって狼狽えたり不安そうな顔なんて見たこと無かった。

 その悠也の瞳に、落胆と諦めの荒んだ色が滲む。この人、こんな死神みたいな顔してたっけ。

 「冷めちゃった。好きじゃなくなっちゃったんだよね」

 ちゃった。なんだそれ。自分はそうなるつもりがなかったとでも言いたいのか。自分の感情くらい自分でコントロールしろ。責任持てよ。

 散々人に感情的だと吐き捨てておいて、よっぽど自分の方が感情に無頓着で相手へ向けた感情にも無責任に無自覚で、感情的じゃないか。

 ぶつけたい言葉が煮えたぎってマグマのように熱と残虐性を噴出して自分の体の内側に躊躇なく滲み寄るのに、悠也の顔を見たらどうしてもできなかった。

 私の方がよっぽど傷ついているのに、悠也の方が辛そうな顔をしている。悠也を傷つける言葉が沢山浮かんでくるのに、自分にぶつけることしかできない。

 私は悠也を傷つけることすらできない。

 「もう、どうしたらいいか分からない。俺傷つけようと思って冗談言ってないし、多分今後もやめられないと思う」

 「直す気ないの?直らなくたって、都度謝ればいいじゃない。それすらしたくないの?そんなに冷めた?」

 「謝っても、いつまで経っても俺のこと信用してそばにいること出来ないだろ」

 それは、私のせいなのか。それも全部、私のせいなのか。

 悠也まで、弱さを盾にして私から逃げてしまうのか。悠也の瞳に移る私は、自分とは思えないほどやつれた顔をしていた。

 「その別れ話、何度聞いても恐れおののく」

 「私が怒りすぎたのかな」

 「好きな子が、嫌だって言ってることやめられないのは小学生までだよね」

 「そうだよね?」

 私たちの話を聞いていたマスターがカクテルを作りながら苦笑する。

 「相手がガキだったんだよ。沙耶ちゃんにはもっと同じくらい思いやりのある男がいいよ。」

 「嫌知らずって知ってます?」

 二人は不思議そうに首を傾げた。

 頼んだジントニックに口をつけながら心の中でその文字を羅列する。その文字が滑っていく。

 「相手の嫌だと言ってることが理解できない、ってやつです。分かってやってるんじゃないんですよ。自分は、自分がされたとき嫌だと思わないことは、相手が嫌だと思っても辞める必要を感じないっていう」

 「じゃあ、子供の好きな子をいじめちゃうって言うのとはまた別?」

 「人によるし場合にもよると思うんですけど、結構男の人、多いなって思うことあります。日傘にしても、日焼けしたくないとか暑さ対策って思っても、俺はひやけきにしないよとか暑いの平気だから、って、その人が日傘を必要としても本人は必要としてないからっていう」

 「はー…なるほどね」

 身に覚えがあったのか、マスターも三好くんも気まずそうに視線を泳がせた。悠也だけじゃない。おそらく私にだってある。思いがけず相手の尊重より自分の価値観で物事を捉えたり、気がついたら相手から自分へと主語が移り変っていることは自他ともに生きていればよくある些細なこと。だけどそれを許容してもお互いのためにはならなかったし、飲み込んだとして別れの期限が間延びするだけで、終わり方はきっと同じだったはずだ。それも頭では分かっている。

 「それでも、許せるよって思っちゃったんですよ」

 愛があれば。一緒にいられれば。結婚さえすれば。

 縋った時点で壊れていたと言うのに。

 「そのあとも何回か会ったの?」

 「会えませんでした」

 チャンスは三回だった。

 一度目は半年以上連絡を送り続けても返事はなく、諦めもつき始めた最悪のタイミングだった。

 試験受かった。支えてくれてありがとう。

 唐突な短い伝えたいことの分かりやすい悠也らしい文章に雷に打たれたような感覚で、スマートフォンを手から滑らせた。

 こんな奇跡みたいなことが起こるんだ。一縷の望みを手にしてしまった。深い傷に更なる深さを負わせるだけだったのに。

 短くおめでとうと告げ、その後に連絡が来ると思わなかったと返すとすぐに「受かってからじゃないとまた同じことになるから、確実になってから送りたかった」と来た。今度は曖昧な内容だった。

 だけど嬉しかった。中途半端なことは出来ない。悠也はそういう人だった。半年以上考えていたのは、私だけじゃなかった。

 私はすぐに飛びついて、やり直したいと伝えると悠也は疲れ切った声で「それはない」と言った。

 身体を真っ二つに切り裂かれたような衝撃と痛みに目眩がして、電話口の悠也の声が私を好きだと言った、私を愛おしく呼んでいた声と同じには思えなかった。電子音のせいかもしれない。この人が、あんなにも愛を囁いた彼がこんな冷たい声を私に向けるはずがない。

 彼は疲れているだけ、先行きの見えない未来に押しつぶされて落ち込んでいるだけ、いくらだって八つ当たりしていい、いくらだってぶつけてもいいから、頼むから離れていかないで。それならなんで連絡をしてきたの。確証が出来るのを、ずっと待っていたの。

 縋りつけば縋りつくほど悠也の声が萎んでいく。私が好きだと伝えれば伝えるだけ彼の上手くいかなかったという現実と、自分が叶えられなかった理想を浮き彫りにし自信喪失させる。悠也の輪郭が抉れていく。彼をかたどっていた、彼という存在を保っていたものが私によって、縋り付くことによってどんどん抉れて削がれていく。私は自分が抉った欠片が自分の声に、喉に、指先にこびりつくのを感じた。

 その後会う約束をしたけれど、悠也は直前になって連絡をしてこなくなって、私が追いかけるように連絡し、しばらく経って謝罪の連絡が来て、私が許し、また会う約束をして、また直前に逃げる。

 三回そんなやりとりを繰り返して、その頃には私は食事を取れなくなり眠りにつくことが出来なくなった。友人からの助言も先輩からの心配も優しさを感じるほどに傷口に塩を塗るように響いて受け止めることが出来なかった。

 彼らの優しさを受け取れば、悠也の私を傷つけた言葉や行動が全て事実になる。受け止めなければいけなくなる。

 平気なフリをしていれば、なんてことない。子供っぽい臆病で意地っ張りなところのある悠也のしたことだ、私は許せる。だって、一緒にいようと約束したんだから。

 軽い遊びで元カノに連絡を入れてセックスに誘い込むような男じゃない。そんなことができるほど、器用な男じゃない。悠也が会う約束をしても約束の場所に来れないのは、私が大事だからだ。また向き合って、自分が傷つけるのが怖いからだ。

 なら、私は待つ。悠也が安心して私の元に戻って来れるまで、私はいつまでだって待てる。

 そう、言い聞かせた。

 「今でも夢を見るの。ほぼ毎日」

 「夢?」

 「三好くんは夢見なさそう」

 「うん。俺ぐっすり。どんな夢?」

 「悠也を待ち合わせ場所で待つ夢」

 再会した場所でスマートフォンを握りしめながら、落ち着かないからタバコを吸って悠也の姿を探す。煙が揺蕩ってのぼっていって他の誰かを悠也なのではないかと錯覚させ、期待させ、絶望させる。今度は本物だ。今度は偽物なはずない。だって約束したから。

 何度も煙が薫るのを眺めてタバコの箱を見るともう一本もない。待ち合わせ場所には人の姿がない。そこにいるのは自分だけ。

 夢の中で絶望し、目が覚めたら待ち合わせの約束すら消え失せた現実に何度も打ち砕かれた。眩しい朝日が目に、割れた心に染みる。夜の闇が絶望を増幅させる。飲み込んでいく。

 「行きたい場所にも食べたかったものにもタバコにも、家で一息つくときですら、一緒にいたかったんだなって思うと、涙が止まらなくなった。今は枯れたけど」

 つまみのピスタチオを指で遊ばせながら目だけで笑って見せた。だけどマスターも三好くんも愛想で笑いはしなかった。その受け止められ方すら、未だに心臓をひりつかせる。

 憐れまないで。

 ずっと心が叫んでいた。不憫に思われているのが分かる。なんでそんな男に、と何百回も聞いた。

 だけど私は未だに悠也を否定できずにいる。こんなにまで傷つけたあの人がいつか、分かってくれると信じて、それを必死に否定されないように、現実を突きつけられないように目を逸らして耳を塞いで気付かないふりをしてきた。

 別れ際の悠也の顔が忘れられなかった。

 私が別れを突きつけられたのに、彼の方が痛ましく悲しげな顔をしていた。

 あの顔が、いつまでも忘れられない。いつまでも記憶にこびりついて、また笑わせたい。あんな顔はもう、二度とさせたくない。そう希望を抱かせる。

 それと同時にあんな顔をさせるくらいなら、もう二度と会っちゃいけない。

 そうも思った。

 「今も好きなの」

 三好くんのいつもののんびりした声とは打って変わった、低い重い、だけど暖かな暖炉のような声に驚いて顔を上げる。

 その瞳は真剣だった。

 「……好きじゃない」

 「ほんとは?」

 「それは、本当。ただ」

 三好くんはグラスを置いて肘をつきながら視線だけこちらにやった。端正な顔と、まっすぐな感性が、その淀みのない瑞々しい純粋さが痛く刺さる。

 「忘れられない。良かった思い出ばっかりじゃなくて、痛いのとか、辛かったのが。良かっただけなら良かった。でも、痛くて。未だに傷が、塞がらなくて。」

 化膿してもう腐り切った。乾いた笑いで笑い飛ばす元気も、もうなかった。

 今日何度自然の雄大さに隠れて涙したことだろう。一日の時間の長さを如実に感じて、深い息を吐いたのはいつぶりだっただろう。一分一秒はこんなにも永遠に感じられたのか、と。

 化膿して腐った傷がいつまでも痛くて自分ではどうにも処置できなくて、目も当てられなくなって、ただ毎日が過ぎるのを願った。

 頼むからもう、忘れさせて。

 毎日毎日こびりついた影がついてくるように付き纏う記憶と感情に呑まれて早く終われ、早く楽になれ、早くどうでも良くなれと願って一日一日を素早く駆け抜けて、疲れ切って、それでも振り切れなくて、繰り返して、こんなに忙しくしても、離れても忘れられない。

 好きなものが好きじゃなくなった。行きたい場所に行けなくなった。嫌いなものを好まないと拒絶する力すらなくなった。

 悠也に奪われたわけじゃない。

 私が勝手に囚われた痛みが、奪っていった。

 悠也はもうその場から立ち去ってずっと先を行ったのに。

 不自由さに雁字搦めになって街中の恋人たちが目に刺さって痛む。snsが恐ろしい。人の目が気になる。将来の白紙が希望ではなく未開拓の荒れた土地にしか思えない。

 自由に身を投げて自由に伴う責任と向き合う強さを持っている三好くんにすら嫉妬している。

 もう自分が何を望むのかも分からない。

 「だから今日、ちょっと塞がった。結婚の話も聞いたとき、えーとは思ったけど、なんかスッキリしたんだよね。ようやっと終わったんだな、みたいな。三好くんのおかげ。ありがとう」

 「俺じゃないよ」

 「そんなことないよ」

 「そうだよ。いいと思う。忘れない方がいい。忘れたらまた好きになるかもしれない。違う人でも、似た人のこと」

 マスターは目を見開いて感嘆したように頷いた。面食らった私に三好くんは続ける。

 「多分傷じゃない。それは、三井の傷じゃない。ただの事故」

 「事故」

 小さく呟いた私をよそに三好くんはロックグラスを握りしめて、半分を飲み干した。そんな一気に度数の高いウイスキーを飲み下して大丈夫だろうか。突き出た喉仏が脈を打つように動く。

 「ここに来て初めての冬、車のタイヤのチェーンをつけずに運転したんだ」

 独り言のように呟く。綺麗に縁どられたまつ毛が揺れる。男の人なのに、長く太く芯のある黒いまつ毛だと思った。

 「移動が大変だから車を買ったんだけど、高くてつけなかったんだ。冬の間は滅多に使うこと無かったし。コンビニに少し出るだけ。危ない運転をすることはなかったから、大丈夫だと思った」

 三好くんは覚悟するように一息ついた。

 「雪の下の氷にタイヤが滑って、端っこに避けられた雪の山に突っ込んだ。人じゃなくて良かったって心底安心した。」

 「事故にならなくてよかったね」

 「でも、猫がいた」

 猫。

 喉の奥が詰まった。人間以外の、生物。

 「バックして突っ込んだ雪山を覗き込んだら、冷たく固まった猫がいた。キジトラだった。元々雪山の中に埋もれて死んでたのかもしれない。でももしかしたら、まだ息があったかもしれない。そこに、俺は突っ込んだ。」

 これは、懺悔なのか。告解なのか。いずれにしても、三好くんの中で今も残り続ける記憶の一部なのだろう。

 想像の中の車と雪山、猫の冷たくなった姿が浮かび、三好くんの立ち尽くす背中が浮かんだ。

 「でも、分かんないじゃん」

 「そう、分かんないんだよ。三井も同じ。彼がどう思って急に別れを切り出したのか、そのあとも連絡してきたのか、結婚したのか。でも、ずっとなんで、どうしてって思うでしょ。俺もそう。なんで車で出かけちゃったんだろう、どうして猫が雪山の中にいたんだろう、なんであんなこと、って。」

 三好くんが両手をぎゅっと握りしめた。大きな拳が赤みを帯びる。アルコールのせいか、後悔の力量か。

 もう好きじゃなくなった。俺たち合わないよ。もっと上手くやれると思った。思ってたのと違った。

 悠也の言葉が繰り返される。擦り切れるように嫌でも繰り返された言葉が浮かんだ。

 悠也も、思ったのかもしれない。

 どこかのタイミングで、悩みか、後悔か、疑問か、苛立ちか、重荷としてか。

 なんで、どうして。

 もう分からない。分からないけれど、もし少しでも思ったのなら、報われる気がした。

 振り切って前に進んだ悠也が少しでも立ち止まって思い返すことがあったのなら、それを知ることが出来たのなら、違ったかもしれなかった。

 顔が熱い、と思ったら涙が溢れていた。

 自分で気がつくより先にマスターにおしぼりを差し出されて初めて気が付き、恥ずかしく思って目の縁に添えると目尻を下げて応えた。

 「強烈に、記憶に残ってる。いいものも、悪いものも。だから、ってことだよね?」

 「ああ、そう。うん。そう言いたかった。なんか長くなっちゃった。要約すると、そう」

 三好くんは私の涙には触れずにあっけらかんと言って声を上げて笑った。

 バーにはもう、私と三好くんしかいなかった。

 「上書き、していけるかな」

 「あるよ、きっと。これからの方が長いし、自然とか、命とかの方が強烈なこともある。抗いようもないし。」

 「そうだね。だから今日、こんなグッときたのかも。やっぱり来てよかった。誘ってくれてありがとう。三好くんのおかげ。」

 「もう傷じゃない?」

 「傷じゃない。記憶。私の、大事な記憶。」

 最後にもう一度乾杯をして私はホテルに、三好くんは自分の家に帰った。

 次の日は朝早く三好くんが車で迎えに来てくれた。

 アルコールで浮腫に覆われた私とは違いスッキリとした表情で、低血圧をものともしない猛々しさすら感じた。

 三好くんイチオシのパン屋さんで塩パンと揚げパンとタルトを買い、渓流のそばで塩っけとざらついた砂糖の甘みと果物の酸味を食らいつくし、川の流れと石がぶつかる音、草木が揺れる音、川の冷たい水の温度に身を任せた。

 「三好くんの何入ってる?」

 「ん、メロン。あとスイカとイチゴ」

 「すんごい食べるじゃん」

 「一口食いたかったらあげるよ」

 「これ食べきってからにもらうね」

 「三井のは?」

 「私のはオレンジ。漢字で甘い橙色って、なんか可愛くない?」

 「うーん。そうなの?」

 「野生児には伝わらないか」

 少し声を張って笑い合う。

 きっと記憶だったと思う。だけど、それがいつしか傷になって、私たちはその傷を晒したのかもしれない。

 前よりも気軽に話す気にはなれず、変に明るく振舞ってやけに楽しそうに話題を掘り下げて、何かから目を逸らした。

 「運転気を付けて」

 「うん。ありがとうね」

 「三井」

 「うん?」

 「三井は、間違ってないよ」

 背の高い三好くんが太陽の影になって、色黒の肌が余計に濃く黒く刻まれる。手をかざして見えないフリをした。

 その言葉が私の背中を押してしまう。

 その上で、きっと三好くんは伝えている。

 「…ありがとう」

 「辛いかもしんないけど。間違ったって思う方が、楽かもしんないけど。間違ってない」

 「分かったって。ありがとう。来年も来ようかな。遊び相手またしてくれる?」

 「もちろん。白馬にいればだけど。」

 「そうだった。じゃあ事前に連絡するね」

 「うん。じゃあ、また」

 「うん。またね。」

 口の端に残る瑞々しい甘橙の小さな果肉をあちこちに感じながら、ハンドルを滑らせた。

 始まりの記憶と終わりの記憶が一緒にあるのなら、それは傷にはならないのかもしれない。

 記憶が記憶の蓋をし、記憶の蓋がなければ、そこは傷口として空洞になり、必死に自分で埋めようと余計なものを足して、ひりつかせるものなのかもしれない。

 そんなことを思った。

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