第10枠 提出物
「どうすりゃいいんだ、これ!」
引っ越し間もない自宅でのこと、真新しいPCを前に思わずお手上げのポーズで叫んでしまった。慣れない自作PCの設営やら設定にもさんざん苦労させられたが、それ以上に厄介だったのがこの『提出物』だった。
アバターの絵を自分の動きに合わせて動かすLive2Dの完成まであと数週間、そうなればすぐにデビュー配信だというのに、秋葉の『提出物』はほとんど白紙だった。このままではすずに会うどころかデビューもおぼつかない。
一人で考えていても埒が明かない。まず千日に相談するためDiscardで通話してみる。
「おお、秋葉殿、どうされましたかな?」
「
千日の声がうっとりとしたものに変わる。
「『提出物』……『提出物』……!ああ、何人ものコルメンを苦しめてきたこの試練に
残念ながら話にならなかったので適当にお礼を言って通話を終えた。
『提出物』とはコーテックスのVtuberが運営に文字通り提出する課題のことで、デビュー前の新人である秋葉たちは主に活動方針、カバーしたい曲、実況したいゲーム、コラボしたい先輩などを具体的に決めるのが主な目的になる。運営はそれを見て曲やゲームの権利者に許可を取ったり、見積もりを出したりするのでこれが無いと活動できない。
デビューしてからはこれらに加えて収録番組であらかじめ録っておく必要のある音声や台詞、あるいはグッズのサインなんかも加わるらしい。そして主に昼から夕方に行うボイストレーニングやダンスレッスンは既に始まっている。デビューしてからさらに忙しくなると考えると、少しばかり気が滅入ってきた。これでは辞めたくなる人が出るのも無理はない。
Vtuberはセルフプロデュースだとは聞いたことがあったが、いざそれにあたってみると空を掴むような心持だった。アイドルにも自分の活動方針を決める機会はないわけではなかったが、それでも小さな池から大洋に放り出されたような感覚だ。何をしていいのかこれではさっぱり分からない。とりあえずやりたいことの欄に歌とダンスとはすぐに書けたが、逆に言えばそれだけだ。
次に
「涼、活動方針とかってどう書いた?」
しばらく待ったが返事がない。もう一度聞いてみようとしたところで、声ではなくメッセージが送られてきた。
「えっと……あゆみちゃんって、無言でつながっていたいタイプ?」
何を言ってるんだ。新しいマイクにそう声を張り上げようとしたところで、秋葉は原因に思い当たった。
「ねえ、スピーカーとかマイクとかの設定大丈夫?」
それっきりしばらく反応がなかったので、作業に戻る。
それから30分、もう連絡したことも忘れていたタイミングでいきなり低い声が響いた。何となくモゴモゴしているようなくぐもった声だった。
「ごめんごめん、スピーカーがオフだったしマイクもミュートだった。教えてくれてありがとう」
やっぱりか。それではこちらの声も聞こえないしあちらの声も届かない。秋葉は小さく溜息をついた。それにしても、たったそれだけのことを直すのに時間がかかりすぎではないだろうか。
「30分も何やってたの?」
「マネージャーに来てもらった。前も似たようなことがあったときに自分でどうにかしようと思ってね、そんでPCをダメにしちゃって、これ2台目なんだよね、その間はスルメ食ってた」
まるで意味が分からない。コーテックスは莫大な給料が出るとのことたが、これは活動資金も込みなので、PCをダメにしたとなるとかなりの痛手のはずだが……呑気に間食とは。さっきモゴモゴしてたのはこれかと納得した。そしてマネージャーの苦労を慮ったところでようやく本題に入る。
「それで、活動方針なんだけど」
「ああ、ウチはお笑いで行こうと思ってる」
お笑い……?確かにドジで天然なところがあるが、嬉野のアバターはかなりクールなお姉さん的な外見だ。お笑いネタを喋っている姿はちょっと想像できない。
「涼は無理に笑いを取るよりクールキャラを貫いた方がいいんじゃないかなあ」
「へえ、ウチをダンスで意気消沈させた君がそう言うの?」
「レッスン見たけど涼のダンスは普通に上手いと思う。それに……」
「それに?」
嬉野のような天然キャラは自分から無理に笑いを取りに行くと滑ってしまう。天然は天然だからこそ価値があるのだ。
だがここでそれを言うと彼女は意識してしまい、天然にならない。このままクールなキャラで売るという体裁のままで話を進めよう。
「ううん……何でもない。別にダンスを売りにするとかでなくてもいいから――」
結局、こちらが相談するつもりだったのに嬉野に助言をしただけに終わった。
最後の相談相手をフレンド一覧から探す。クリックしようとしたところではたと手が止まった。
彼女――玉鬘みのりは普段は常に本の虫で、嬉野の失敗や千日の奇行にも目もくれず私語ひとつしなかった。初日に至ってはサングラスとマスクで素顔すら隠していた。だから初めてのボイストレーニングで素顔が露になったときは衝撃を受けた。
見とれるような青い瞳で目鼻立ちはくっきりとして、特に鼻が高い。後で分かったことだがあのロングヘアも本来はブロンドで、それをわざわざ黒に染めているらしい。明らかに日本人の顔立ちではなかった。声もこの上なく澄み渡っていて、声優もアナウンサーも出来そうだった。
ただしトレーニングが始まってみると、歌やダンスはそこまででもない。さすがにそれも上手かったら自分の立つ瀬がないな、と思っていたところだったのでみっともないことだが安心してしまった。
というわけで日本人ではなくボイトレ以外ではほとんどしゃべらない人間とどんな話をすればいいかも分からない。そもそも日本語が通じるのか?いや、少なくとも歌の発音は問題なしだった。こちとら英語はさっぱりだ。
というわけで日本語で挨拶することに決したので通話を始める。
「玉鬘さん……今大丈夫?」
「……ええ」
「提出物の活動方針のところって、どう書けばいいと思う?」
しばらく沈黙が続いた。周囲に関心がなさそうな普段の様子を思い出し、質問したことを少し後悔し始めたところで、返事が返ってきた。
「……貴方……Vtuberは今回が初めて?」
小さな、しかし芯の通った声だった。
「う……うん」
「Vtuberは声優じゃない……役に合わせるのではなく、己の知識、技術、あるいは己そのものをアバターに乗せる……貴方の質問……その答えは己にしかない」
思いがけず誠実な答えが返ってきた。これまでの印象から他人に全く興味のない人なんだと思っていた。
ただ、言ってることは真っ当かもしれないけど……マイクをミュートにして溜息をついた。
歌やダンスはもう書いちゃってるんだよなあ。
結局8年アイドルとしてやって来た自分にはこれしかない。学もなければゲームも自信なしだ。
だがコーテックスのメンバーは全員、歌はやっている。これでは差別化として心許ない。特にダンスが出来ない3Dモデル入手までは尚更である。
とはいえ、3D実装まで他になんらかの強みが欲しいという方針は頭の中で整理がついた。
「玉鬘さん、ありがとう」
ミュートを解除してお礼を言う。光明はまだ見いだせないが、彼女が第一印象のような冷たい人間ではないと思えたのは一歩前進……かもしれない。
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