第5幕 握手会
支配人と別れ、劇場を後にした。このまま見なかったことにしよう。あのVtuberは人違いだ。そう思い込もうとしていた。
しかし帰り道の店の小型スクリーンでとある広告を目が目に入ってしまった。
『コーテックス・Meeting 』
一番の推しとのトークを楽しもう!
・1タレント1回分の参加券:6,980円(税込)
・1回につきトークの時間は1分間
その下には対象となるタレントと話せる時間帯が記されていた。会場は都内でも有数のホールだ。
今までは気にも留めていなかったから初めてかどうかも分からないが、どうやら参加券により所属Vtuberと1対1でトークできるというシステムらしい。
それではまるで自分たちの『握手会』ではないか。こちらはシングルCDの特典として握手券がつき、それで握手と短時間のトークが出来るというシステムだが、あちらはトークだけで成り立つらしい。その人気ぶりがうかがえる。
対象タレントの欄を探すと、『雁来とまり』の名前もそこにあった。参加券は、買おうと思えば菊水にも買える。だがさすがに自分がこの会場に入ってトークしようと思っても、アイドルとして8年も顔を売ってしまっている身では見つかって上手くはいかないだろう。上手くいったとしても、彼女がすずとして応じてくれる可能性は0に等しい。
アイドルなんかじゃなかったら、最低でも会場には遠慮なく入れただろう。
アイドルなんかじゃなかったら、すずとしては反応してもらえなくとも、少なくとも自分の言いたいことは言えたはずだ。
アイドルなんかじゃなかったら――
菊水ははっとなって顔を上げた。
今、何を考えてた?よりにもよって自分から、アイドルとしてやってきた8年間を否定するのか?
菊水は頭を振る。Vtuberと言えども直接面と向かって手を握るわけじゃない。あのファンと共有する時間は、PC越しでは得られないはずだ。
菊水はそう自分に言い聞かせ、自分が一番記憶に残っている握手会を思い起こした。それは自尊心が破壊されかかっている、自分なりの自己防衛だった。
◇
7年前――
それは菊水にとって初めての『握手会』だった。正規メンバーになってそれなりに公演を重ねてきたが、本当に自分にファンがいるのか、グループの傘にぬくぬくとしているだけではないかという考えが頭をもたげ、はっきり言って気分は悪かった。
『握手会』の会場ではメンバーごとにレーンが用意され、待機する。参加者はCDについている握手券により参加の権利を得て、レーンに並ぶ。握手券によってどのメンバーと握手できるかの制限はない。
だから、メンバーの人気が列の長さになって現れる。これもプレッシャーだった。しかしこのグループが競争をあおり、演出してきたことは『総選挙』を見てきた自分でもよく分かっている。覚悟はできていた。
見知らぬ人と握手して話さなければならないことへの緊張と恐怖、人気がはっきり現れることへの不安。そういったことをおくびにも出さず、自分にできる最高の表情でファンに応対し、感謝を伝える。それが『握手会』というものだった。
とはいえ、いざ始まってみると目の前のファンに応対することに集中することになるので考える暇はなく、案外プレッシャーで押しつぶされることは無かった。大半のファンは握手券を1、2枚出すだけなので、応対時間は5~10秒。『応援してます』『頑張って』という声に合わせて『ありがとうございます』『来てくれてうれしい』と言っているうちに、『剥がし』と呼ばれる係が時間切れのファンを誘導して終了する。それが数十分も続けば、もう自分の時間帯は終わろうとしていた。
列が
「10枚出し、来ますよ」
係の人の声に心臓がひっくり返るかと思った。10枚出しとは、数字の通り握手券を一度に10枚出すことで、その分長時間話が出来る。まさか握手会デビューしたばかりの自分に来るとは思っていなかった。大先輩の中には1000枚出しに応対した人もいるとのことだが、自分には10枚だろうと過分だろう。
どんな人が来るのか……菊水は身構えた。
「こ、こんにちは!」
中学生くらいの女の子が入ってきた。180度ひっくり返った心臓が、もう一度裏返ったかのような心地だった。てっきり男性が来るのかと想像していたのだ。
女の子は握手に出した手が震えていて、明らかに緊張している様子だった。菊水はいつもよりほんの少しだけゆっくり、柔らかな動作で握手に臨んだ。時間に余裕があるため時間切れになったら参加者を誘導する『剥がし』の人がいないことによる心理的余裕もあった。
手を握られた女の子は、少しずつ表情が柔らかくほぐれていった。
「ミオって言います。みっちゃんにずっと憧れてて……劇場にも何回もいきました。ダンスがすごい目立ってました」
「うれしい……!来てくれてありがとう」
この感謝の言葉は一切よどみのない純粋な気持ちだった。
「はい。歌もダンスも好きなんですけど、特に公式サイトのメッセージを見て感動したんです」
菊水は今度はわずかに戸惑う。確かにプロフィールにメッセージは書いたが、正直自分ではあまり印象に残っていない。まだ一度も更新していないこともあり、どんな内容だったか一瞬では思い出せなかった。思い出す前に女の子が答えた。
『このグループは独りでは決して成り立ちません。全員で助け合い、高め合う。それが必要だと思っています』っていうのがすごく好きで……だってアイドルって、だいたい自分が一番だと思っていて、それを目指すものじゃないですか」
そういうことか……正直なところ競い合いたい相手はすず一人だったから、彼女がいない今となってはそういうモチベーションが無かったというのが正直なところなのだが、何がファンの胸を打つかは分からないな……。
そう思っているうちに『剥がし』の人が来て、1分間の会話は終わった。
◇
菊水はコーテックスの広告が映ったスクリーンから素早く目を離し、足早に進み始めた。
そうだ。コーテックスや『雁来とまり』がどれほど人気であろうとも、この体験に勝るものは無い。あの時握手会に来てくれた10枚出しの少女も、多分今も私のことを応援して――
「ミオ、あれ知ってる?」
菊水の右側をすれちがった2人組の若い女性。その会話に思わず振り返った。7年前、握手会で自分の前に来た女の子と同じ名前で呼びかけられた女性。
奇跡を予感して振り返った菊水が目にしたのは、さっきまで自分が見ていたコーテックスの広告を見つめながら会話する2人の姿だった。菊水から離れた奥の方の女性に見覚えがあった。まさに頭の中に浮かんでいた少女が大人になった姿に思える。
「うん、言ってなかったっけ?実は箱推しなんだよね」
『ミオ』と呼ばれた女性は顔をほころばせてコーテックスについて話し続けた。話の中にまたしても『雁来とまり』の名前が出たとき、菊水の胸は少し痛んだ。
やがて話が途切れたところでもう一人の女性が『ミオ』に質問した。
「でもあんた……三次元のアイドルの方が好きじゃなかったっけ、同じCD何枚も買ってさ」
「いや、ああいうのはね……人数多いけどその分個性も薄いし、握手会も襲撃事件とかあったでしょ?もう怖くて行けないよ。三次元アイドルは、もうダメだと思う」
その時、菊水の心をギリギリまでつなぎとめていた糸が切れた。
心の底から悔しいとか悲しいとかの感情が沸き上がってくるわけでもないのに、まるでそれが自然であるかのように涙が出てくる。菊水は溢れ出そうになった涙を何とかこらえつつ、足早に2人から離れた。
客観的に見れば大したことではないのかもしれない。何せ7年経っているのだ。それだけの時間が過ぎれば推していたアイドルグループから離れることがあってもおかしなことじゃない。そもそも彼女がかつて自分に10枚出しをしてくれた少女と同一人物という確証もない。7年も経てば女性の外見は変わる。
普段であればそんな感じで彼女の存在を合理化するか、そもそもこのやりとりで傷ついたりなんかしなかっただろう。だが『雁来とまり』に揺さぶられていた今の状況では、とどめの一撃には十分だった。
◇
菊水は自分の家ではなく、かつてすずと住んでいた寮、それがあったところにたどり着いた。『劇場』からは歩いても15分程度のところだ。人通りは少なく、全盛期ですらそこに漁があることは知られていなかった。現在はもう取り壊されており、空き地になっている。自身もメンバーとして軌道に乗ったところで、寮から離れて住むようになった。
だが、今はすずが共に暮らした場所にいたかった。あの黄金色に輝いていた日々が嘘ではなかったことを証明してほしかった。
彼女に貰った片耳のピアスを手に取り、菊水は呟いた、
「すず……会いたい」
涙をこらえる代わりに、そのピアスを握り締めた。
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