あれが後宮です

「あれが後宮です」


 と、オジエが声をかけた。その声を天からの光のように感じたが、「後宮です」と言われても、周囲は高い塀で囲まれており、中は見えない。殺風景を絵に描いたような灰色の壁が延々と続くだけで、見ようによっては刑務所のようにも見える。


 一瞬安堵したラロワだったが、一向に蒸気車くるまは止まる気配を見せない。ひたすら壁に沿って走り続けている。後宮はただでさえ城内の最奥にあるのだが、その入り口となると、また更に奥となる。表門から見て、丁度逆の位置にあるのだ。


 裏門はそもそも存在しない。後宮へと至るためには、一旦表門から入り真逆の端に行く、という手順を踏まねばならない。


 おい、まだかよ。


 そう口の端まで出かけたのを、ラロワはなんとかこらえた。「後宮です」と言われてから随分経った。そう言われた時、勝利を確信したラロワだったが、まさかの逆襲を受けた。


 こんなところで白旗を上げるわけにはいかない。断じていかない。自分にそう言い聞かせた。夢にまで見た後宮なのだから。


 それはロヴの、ひいては手品団の夢でもある。ラロワが夢に見た後宮とは、もちろん完全な創作物である。本物の後宮を見る前に、負けるわけにはいかないのだ。


 ラロワが見えない戦いを繰り広げていると、急に蒸気車くるまが停車した。


 止まんじゃねーよ。


 そう口の端まで出かけたのを、ラロワはなんとかこらえた。停車した反動で危うく黒星を喫しそうになったからだ。高そうな革の椅子に汚点を残すわけにはいかない。それはつまり人生の汚点でもある。


「到着でございます」


 オジエの一言に窓の外を見ると、門であった。


 それは巨大な扉で、いかにも重々しく、黒一色で塗りつぶされている。ラロワは一瞬、焦げている、と思ったほどだ。しかし光沢があり、どうやら鉄でできているらしい。


 それがぴったりと閉じられている。容易には開かれることがなさそうな風情である。頑なに来るものを拒む、そんな雰囲気すらある。


 すると、内側から低く太く、ゴンッ、と音が響いた。


 かと思うと、黒く巨大な鉄扉は左右へと開かれた。緩慢な動きで開いていくと、またその先に同じような扉があった。蒸気車くるまは開かれた扉を進むと、また同じようにゴンッ、と低く太い音が響く。


 ちなみにこの音は地面を伝って蒸気車の中にも響いてきた。当然、ラロワの身体にも響くこととなる。


 ふっざけんな。


 そう口の端まで出かけたのを、ラロワはなんとかこらえた。次の扉がまたゆっくりと左右へ開かれる。


 どんだけ入れたくねぇんだ、とラロワは思ったが、とりあえず門にまでは辿り着いた。もうあと少しで栄光への扉が開かれる。それまでは決して内なる扉を開いてはいけない。しかし、二つ目の扉が開かれると更にまた扉があった。


 えぇー!


 そう口の端まで出かけたのを、ラロワはなんとかこらえた。見えない戦いは一進一退の様相を呈してきた。


 結局、それを全部で五度ほど繰り返した。




 蒸気車くるまを降りた時のラロワの顔は蒼白で、額には玉のような汗が光っていた。


 迎えに出た宦官が、これは一大事と、すぐに医務室に連れて行こうとした。しかしオジエは「心配には及びません」と、やんわりと辞し、「特別の用がございますので」と、すぐにラロワと連れ立って、主に宦官が使う厠へと直行した。


 こうしてラロワは勝利した。厠を出ると「命の恩人」とオジエに感謝の意を表した。あのまま医務室に連れて行かれていたら、ラロワはこの勝負に負けていたであろう。それはつまり、ひょっとしたらこの日で後宮に暇を告げなければならなかったかもしれないことを意味する。


 来て早々粗相をし、後宮に痕跡を残したとあれば、これから帝妃の子を産む人間には到底ふさわしくない、という烙印を押されてもおかしくはない。むしろ、至極妥当な裁定であろう。


 繰り返しになるが、ラロワにとって淑子になることは人生そのものであった。ラロワがオジエを「命の恩人」と称したのは、大げさでもなんでもなかったのである。




 生き返った思いのラロワは、早速後宮内へと通された。


 改めていよいよである。後宮に入る前に思わぬ強敵が現れたが、遂にラロワの宿願は叶うこととなる。


 最初にラロワが通されたのは言わば受付のようなものである。後宮内の事務所であり、宦官の居住区域も兼ねている。そこを抜けるとちょっとした広場があり、その先にやたらと大きな館がある。


 二階建てなので、高さはそれほどでもないが、とにかく横に広い。広いというより大きい。その中央には扉ではなく、絢爛豪華な門が備えられている。その先がいよいよ淑子たちの園となる。


 門の向こうには一本の道が真っ直ぐに伸びており、道の両側に建物が連なっているのが見えた。館の中に町があるのか、とラロワは首帝市に着いた時と似たような衝撃を覚えた。


 オジエに案内されるまま門に近づくと、甘い、ちょっときつい花のような匂いが鼻を突いた。巨大な門をくぐると、匂いは更に強くなった。後宮全体から漂ってくるようだな、とラロワが思った次の瞬間、その向こうに広がる光景に目を奪われた。


 広い。


 道はちょっとした町の仲見世通りくらいの大きさはあった。しかしラロワが広いと感じたのはそこではない。その通りの向こうに見える中庭だ。


 広々とした芝生が広がっており、花壇が色とりどりの花を沿えている。そして、その庭園の向こうには、青空にそびえる天守閣が見えた。


 ラロワは庭園に向かって走り出したくなった。それを察したか、オジエがラロワに声をかけてくれた。


「中庭を見てみます?」


「は、はい!」


 ラロワは、許可を得たので遠慮なく走り出した。ただ、オジエも走っていいとは言ってないのだが。

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