第9話

 夜、風呂に入った後に椚の間で千里と一緒に夕食を取った千春は、一人で旅館の廊下を歩いていた。

 昼間、そういう約束を取り付けたからだ。彼が宿泊している銀杏の間に着くと、控えめに扉を叩く。中から「開いているぞ」という声が返ってくると、千春はため息を吐きながら取っ手に手をかけた。

「不用心だよヴィオ。俺が来るってわかってても、鍵はかけておかなきゃ」

「全く、お前は本当に心配性だな」

 室内では、窓から差し込む月明かりと小さなランプだけが光源だ。うす暗い広縁の椅子にのんびりと腰かけていたヴィオは、とんとんと指先で丸机を叩く。そこには徳利とお猪口が並べられており、一杯付き合えということだと察した千春はがしがしを頭を掻いた。

「弱いくせに飲むの好きだよね、君」

「人聞きの悪いことを言うな。俺が苦手なのはワインだけだ」

 椅子を引きながら、呆れ顔を浮かべる千春にヴィオはそう話す。生まれてこの方酒に酔うという経験をしたことのない千春からしてみれば苦手ならば飲まなければいいと思うのだが、ヴィオは仕事の付き合いで仕方なく手をつけなければならない時以外でも、よくグラスを傾けている。本人はワインだけが苦手だと言うが、清酒を二合も飲めばほろ酔いになる彼は、千春にとってはかなり酒が弱い部類に分類されていた。

「あれから俺も思い出してな。お前が急にセンリ様センリ様と言い出したのは、確か千夏が生まれた頃合いだっただろう。お前、その頃に千里と出会ったのか?」

「……そうだね。当時の俺は、完全に彼女をセンリ様だと勘違いしてた」

 千春とヴィオの出会いは、お互いが三歳の時まで遡る。流石に双方当時の記憶は殆どないが、年に一度はヴィオが古泉家に宿泊に来ていた為、定期的な交流はあった。

「ヴィオはいつ彼女に出会ったんだい?」

 千春がそう問いかけると、ヴィオは徳利を持ち上げる。飲まないと話してくれないのかと浅いため息を吐いた千春は、仕方なしにお猪口を手に取った。

「多分お前とそう変わらん。俺が五歳になる年の秋、急に浴場に現れてな」

「……浴場!?」

 動揺する千春をよそに、ヴィオは千春のお猪口に酒を注いでいく。千春は何とも言えないような顔で一口煽ると、やや気まずそうに窓の外に視線を投げた。

「ええと、事件にはならなかったんだよね?」

「ああ、丁度メイド長が新人を寄越すと話していたタイミングだったものだから、俺もすっかり勘違いしてしまった。それで、少し話をした後に振り返ったらもういなくなっていた、というわけだ」

「うん、大体同じだね……」

 遭遇した展開はともあれ状況は似通っている。しかし、千春には大きな疑問があった。

「その、俺が彼女と出会ったのって百歩譲ってまだ理解できるんだ。センリ様が創建した千狸浜神社に彼女が現れたのも、同じ能力を持つ者として何か繋がりのようなものがあるのかもしれない。けど……」

「そうだな、俺にはあいつとの縁のようなものは無いだろう。しかし、無意味に現れたとも思い難い。ちなみにお前は、あいつと会った時どういう状況だった?」

 お猪口を傾けて、ヴィオは千春に詳細を尋ねる。千春はどこまで話そうかと一瞬迷いながら、重要な部分だけ抜粋するかと自分のやらかしについては省くことした。

「当時の俺は、困ってたね。自分一人じゃどうにでもできないことがあって……途方に暮れていた時に、彼女が現れたんだ。彼女のおかげで俺の悩み事は解決したんだけど、気が付いたらいなくなってたって流れだよ」

 そちらはどうなのかという視線を千春が向けると、ヴィオは「ふむ」と頷いて顎に触れる。

「なんとなく傾向が掴めてきたな。俺も、将来的な事で少々悩んでいた。俺の事情など知る由もないあいつの言葉は突拍子も無かったが……。当時の俺に逃げ道を用意してくれたと言えるだろう」

「つまり、ヴィオも彼女に助けられたってことだね。……もしかして、助けが必要な人の所に現れてる?」

 千春の想像に、ヴィオはそうかもしれんなと相槌を打った。そして、千春はハッと顔を上げる。

「そうか、だから彼女は今回、戻れないんだ。千狸浜には、救いを求める人がたくさんいるから……」

「……なるほど、あり得る話だ。となると、何らかの方法で千狸浜の人間の悩みが解決されない限り、あいつは元の場所には帰れんというわけだな」

 確定ではないにしろ、千春にとってはほぼ決定的だった。そう考えれば、過去の二度はすぐ消えてしまった彼女が未だにこちらに留まっているのにも納得がいくのだ。

 しかしそれは、あまりにも酷な話だった。この数日間で、千春は彼女の気質をある程度把握した。もしも千里がこの事を知れば、彼女はきっと千狸浜に戻ると言い出すだろう。

 そうしなければ帰れないからと理由を付けて、人々の期待を背負い、矢面に立ってしまうのだ。中途半端に手を出すことを嫌がっているだけで、やらなければならない事情ができたとなれば躊躇するような性質ではない。聞き分けが良いように見えて彼女の中に頑固さと無鉄砲な一面を垣間見ている千春は、真剣な顔でヴィオに向き合う。

「ヴィオ、この件は彼女には秘密にしよう」

「承諾しかねるな」

「……それは、何故だい?」

 二人の間に、ヒリついた空気が走る。ヴィオはぐいっと酒を煽ると、どかりと背もたれに身体を預けて腕を組んだ。

「本人の意思次第だろう。あいつが帰りたいと願っているなら、今現在最も可能性がある事実をありのまま伝えるべきだ。それがかつてあいつに助けられた、俺なりの誠意だからな」

「けど、そうすれば彼女は」

「無論、万化の巫女として千狸浜を救うと言うだろう。何か問題があるか? お前たちにとっても本人にとっても、有益でしかないと思うが」

 ヴィオの言葉は、正しかった。しかし千春はその正しさを受け入れられず、首を横に振って否定する。

「ヴィオ、彼女は普通の子なんだ。霊力も見えないし性質だって自在には操れないし、センリ様のように槍を振り回せるわけでもない。潰されるとわかっている重荷を背負わせたくない気持ちを、わかってくれないか?」

「普通? ちゃんちゃらおかしいな。都合の良い部分だけを切り取って、千里を無能に仕立て上げるな。センリは式神を扱えたのか?」

「……」

 ヴィオが吐き捨てるように言った言葉に、千春は何も言い返せなかった。そう、数々の活躍を歴史に残してきたセンリでも、式神を使役できたという逸話は残っていない。式神自体は大昔から存在する技術で、当時も神社の関係者には必ず使い手がいたはずだ。だと言うのにそういった記録が無いということは、センリには式神を使役する能力はなかったと考えるのが自然である。

「だって、俺たちに都合が良すぎるじゃないか。彼女がそんな責務を負う必要は、無いのに」

 自分たちの一族が招いた失態を、押し付けるような真似はしたくない。そんな千春の葛藤を、ヴィオは見透かしたように息を吐く。

「ああ、確かに無い。だが選択するのはあいつの権利だろう」

「……ヴィオ、妥協案がある。一定期間経って、彼女がまだ帰りたいと思っていたら君の言う通り事情を話すっていうのはどうかな」

 もしも千里がベルニュートでの生活を気に入って故郷に戻るという意思が薄れているようなら、何も告げずにそのまま彼女を見守る。そうした千春の提案に、ヴィオは月を見上げながら答えた。

「まあ、確かにそうなる可能性も否定はできないな。わかった、その条件を呑もう」

 その返答に、千春は心底安堵したような表情でゆっくりと息を吐く。それを見たヴィオは、解せぬとばかりに首を傾げた。

「惚れているのなら、手元に置いておけばいいだろうに。千狸浜の人間が騒ぐと言ったって、多少時間をかければ民も聞き入れよう」

「昼間も言ったけどそういうのじゃないんだって」

 すぐその手の話に持っていきたがるんだからと付け足して、千春は眉を寄せながらお猪口を口元に運んだ。その反応に、ヴィオは呆れたような顔をして椅子のひじ掛けに腕を置く。

「おい、自覚が無いのか意地を張っているのか知らんが何とも思っていない、は通用せんぞ。お前、旅館の入り口で俺と話した時と昼間に千里を紹介した時の二度しか、あいつの名前を呼んでいない。どう考えても意図的だ。ずっと『君』か『彼女』でかわしていただろう」

「……何でそれが特別に想っていることの証明になるんだい?」

「お前が式神に名前を付けない理由と一緒だ。名付けという行為は対象に愛着を生みやすい。そして、愛しい者の名前を呼ぶ行為には自然と感情が宿る。お前の気持ちが駄々洩れになるのを防ぐために、口にしないよう留意していたんだろう?」

 むーたんのような例外を除いて、通常式神は役目を終えたら消える運命だ。式神に愛着を抱きすぎて本物の生命のように扱っていれば、いざという時それらを切り捨てることができずに術者が命を落とす可能性もある。

 そうした理由で、式神使いは式神に名前を付けない。千春は千里がタヌキに『むーたん』と名付けて可愛がっている姿を見て複雑な気持ちになりつつも、彼女がそうやって笑っているのを見ているのは嫌ではなかった。彼女がそう呼ぶたびに、その声に相手を愛しく思う感情が見てとれたからだ。

 そして、千春はそれを反面教師にしようと考えた。名前を呼ばないようにすることで、自分の感情が露にならないよう対策したのだ。たったそれだけと言われてしまえば何も言い返せないが、千春は泣いていた自分にどうしたのと千里が声をかけてくれたあの瞬間から、彼女に囚われていた。

 名前を呼ぼうとすると、個人を識別する記号としてではなく彼女に対する感情が漏れ出そうになる。ヴィオの指摘にこれでもかというくらい深いため息を吐いて、千春は頬杖をついた。

「……そうだね。っていうか、彼女のご両親が悪いよ。何で『千里』なんて名前を付けたんだ? うちが古泉で向こうは古川だし、センリ様と関係ないって言っても共通点がありすぎるというか、運命的なものを感じてしまうというか」

「ああ、お前の一族は名前に『千』を使うのが伝統だからな。センリとも読めてしまうから、これまでは誰もそう名付けられなかったんだったか」

 しかしまあ、とヴィオはようやく本心を告げた千春にやれやれと肩をすくめる。

「では仮にあいつの名前が『ラウラ』だったらお前は運命とやらを感じなかったのか?」

「いや、関係なく惹かれてたと思うけど。っていうか、例として自分の妹の名前を使うのやめなよ……」

 なまじ知己なだけに、顔を思い浮かべてしまう。しかし千春の進言はヴィオに全く響いておらず、彼は悪びれなさそうに話を続けた。

「それで、お前は自分が悪役になってあいつを国外に逃がして、これからどうするつもりだ? 家族一丸となって千狸浜復興に尽力するのか?」

「……そのつもりだけど」

 千里の力を借りずとも、古泉家が千狸浜の治安を守り、都に越した人々を里に呼び戻すことができれば、彼女はいずれ元の場所に帰れるだろう。当然現状では活路は見いだせていないが、挑戦しないことには成功も訪れない。

「だが、お前たちの施策が成功して里が復興の兆しを見せれば、いずれ神園大社から視察の人間が訪れるだろう。そうなった時、お前は自分と家族をどうやって守るつもりだ?」

「これまで不干渉を貫いてきたんだから、今更どうこう言われたって譲る気は無いよ。軍隊でも連れてこられない限りは、追い返すくらいならできるし」

 優秀な人材は都に招集され、神園大社によって各地へ派遣される。古泉家の面々はほとんどが神園大社が求める基準を満たしており、それが知られれば一家離散の危機が訪れる。しかし仮にそうなったとしても、千春は自分がどうにかすると告げた。式神は複数を同時に使役することが可能な為、集団相手にも引けを取りにくいのだ。

「他人の荷物を気にするのもいいが、自分の背中に括りついた大岩も少しは考慮しろ。気が付いたら肺が潰れているかもしれんぞ?」

「別にいいよ。俺は家族も千狸浜も好きだし、自分が一番力を持っていることもわかってる。適材適所じゃないか」

「全く、聞く耳持たないとはこういう事だな。この調子では、例の依頼は無かったことにするしかない」

 自分をもう少し顧みろというヴィオの言葉は、千春の考えを改めるまでには至らない。しかしヴィオが依頼という単語を口にすると、千春はキッと目じりを釣り上げた。

「ヴィオ、それとこれとは話が別だろう。こっちの予定には支障ないし、予定通り受けるつもりだけど?」

「知らん、一旦白紙だ」

 すっかり機嫌を損ねたように、ヴィオは真っ暗な窓の外に視線を投げてぞんざいにそう告げる。千春は食い下がろうとしたが、少し時間を置くとゆっくり深呼吸をした。

「……話は終わりでいいかい?」

「ああ、他には特に話題もない。明日は八時に集合で構わんな?」

「うん。おやすみ、ヴィオ」

 短い挨拶をして、千春は銀杏の間を出る。静かな廊下を歩くとわずかに床板が軋み、キィと鳴るその音が少し耳障りに感じた。少し頭を冷やしてから部屋に戻ろうと決めて、彼はそのまま階段を下りていく。ちょうどその頃、千里は一人廊下へと繰り出していた。


「むーたん……いるー……?」

 囁くような声で、千里は暗闇に呼びかける。彼女は、いなくなってしまったむーたんを探していた。

 千春がヴィオと話があるといって出て行ったのは三十分ほど前のことで、その間千里は椚の間で繋紡大陸の一般常識について自主勉強をしていたのだが、ふと気が付いたら引き戸が開いていた。

 部屋の鍵は千春と千里がそれぞれ持っているが、千春だとしたら開けたままにはしないし戻ったと声をかけるだろう。彼女がもしやと思い室内を確認すると、案の定むーたんの姿はどこにもなかった。

 むーたんが、脱走した。それも、器用に内鍵を開けて出て行ったのだ。まさかの事態に焦った千里は、居ても経ってもいられず部屋を飛び出し、慌てて周辺を探る。少し探してもむーたんが見つからなければ恥を忍んでヴィオの宿泊している部屋を訪ね、二人に協力を仰がねばと千里は必死にむーたんの痕跡を探った。

「く、暗いから全然見えない……。でも部屋の明かりを持ち出していいかわかんないからなあ」

 やや中腰になりながら、千里は壁に手をついて慎重に辺りを観察する。そうしてしばらく廊下を進んでいくと、斜め前方の部屋の戸が急に開いた。戸口付近に置かれているらしい光源のおかげで、千里の視界はほんのりと明るくなる。

「……」

 訝しげな視線を向けるヴィオの瞳とかち合い、千里はしばし固まる。しかし彼の足元から角ばったフォルムのタヌキがひょこりと顔を出すと、彼女はくわっと目を見開いた。

「むーたん! ヴィオさんの所に来てたの!?」

「ああ、今しがたガタガタと戸を揺らしてな。ほら、迎えが来たぞ『むー』」

「……む!」

 ヴィオが声をかけると、むーたんは踵を返して室内に戻っていく。そして広縁の椅子の上にちょこんと飛び乗ると、そこで丸くなって目を閉じた。

「ご、ごめんなさい。むーたん、ヴィオさんのこと好きみたいで……」

「風呂に入ったからもう魚の匂いはしていないはずだが、はて」

 何がむーたんを惹きつけているのか、とヴィオは考えるように腕を組む。旅館で提供される濃紺色の浴衣に身を包んだ彼は、昼間のラフな格好の時とは違って妙に風格があるように見えた。

 そういえばそこそこ偉い立場の人なんだっけ、と千里は今更ながらに緊張を覚える。千春の知人だということとヴィオのさっぱりとした態度で忘れかけていたが、彼は千里の衣食住を手配できるほどの権限を持っているのだ。

「実は、酒が少し余っていてな。人助けと思って、俺の話に付き合ってくれないか?」

「あ、お話だけなら喜んで。お酒はすみません、私の国の法律では二十歳からと決まっていますので」

 お相手はしかねると千里が軽く頭を下げると、ヴィオはぱちぱちと数回瞬きをしてから肩を震わせた。

「くっ、そうか。いやすまん、こうもはっきり断られたのは初めてでな。意思が強い事で結構だ」

 怒らせてはいない。むしろ、少々ツボにハマったようだ。ヴィオは口元を緩めたまま、下駄箱の上に置いていたランプを手に取った。千里の学んだ知識によれば、電灯ならぬ霊灯は学校や商店などの大勢の人間が出入りする場所には設置されているものの、一般家庭や小規模な宿にはある方が珍しいほどだという。その例に漏れず半滝旅館も客室に霊灯は存在せず、油を使ってランプで灯りを取るのが主流らしい。

「では、お邪魔します」

 足元を照らしてくれるヴィオの気遣いに感謝しながら、千里は下駄を脱いで部屋に上がる。むーたんは千里が隣にくると身体を起こし、おすわりの体勢から前足を上げて抱っこを要求した。

「しかし、変わった式神だな。普通はもっと感情が希薄なんだが、こいつはもはや犬に近い」

 千里が抱き上げて膝の上に載せると、むーたんは満足そうに口角を上げて再び丸くなる。

「確かに、千春さんの生み出した式神は命令に忠実で自我のようなものは薄かった気がします。他に見たのは鶴と鼠と……兎と猫、それに熊猫かな」

 おそらく他にも色々と種類があるのだろう。千春の式神は豊富だと千秋が話していたし、折り紙で動物の原型さえ作れればいいというのであれば、相当数を扱えることになる。

 丸机の上に置いていたお猪口を持ち上げたヴィオは、千里の話を聞いて「ほほう」と興味深そうに呟いた。

「熊猫、か。それは、賊と対峙したという場面で使ったのか?」

「いえ、私が混乱してて靴を履かずにうろついてしまったので、千狸浜神社に戻る際に千春さんが移動用にって出してくれたんです。……あの、ヴィオさん?」

 千春が熊猫を使役した際の状況を説明すると、ヴィオは口元を押さえて顔を背けた。お猪口を持つ手は震えていて、肩も小刻みに上下している。お酒が入ると笑い上戸になるのかなと千里がむーたんの耳を指先でつまみながら待っていると、彼は呼吸を整えてから前を向きなおした。

「あ、あいつ、よくもまあそんな有様であれだけシラを切ったものだ」

「えっと、熊猫は普通の式神とは違うんですか?」

「そうだな、滅多な事では出さん。あれは千春の式神の中で最強だ。よほど怒らせたか、あるいは相手がいた時だけ、使役する」

 ヴィオが仕掛けた言葉遊びに、千里は気づかなかった。彼女は怒らせた、という言葉に引っかかりを覚え、当時の出来事を改めて思い返してみる。

「や、やっぱり私がセンリ様じゃなかったから多少なりとも気落ちして……?」

「それは無いから安心しろ。先祖と今生で相まみえるなどという夢想を抱くほど、あいつは素直じゃない。ガキの頃ならばいざ知らずな」

 ヴィオの言葉に、千里は半信半疑ながら頷いた。千春から直接、団扇の件で出会った少女がセンリではないという事にその内気が付いたと聞かれていたこともあり、そうと決めつけるのは逆に彼に失礼にあたる。

 一方、ヴィオはそんな千里の様子を見てどうしたものかと思案していた。ヴィオは今、暗に『千春がお前を好いているが故の行動だ』とヒントを出したつもりなのだが、彼女は全くもって気が付いていない。

 仕留めるというのは、何も命を取ることに限った表現ではないのだ。恋愛においては、いかに相手の心を射止めるかが重要になる。ただの乗り物でいいのなら、千春は他にも移動に適した式神を扱える。にも拘わらず彼が誇る最強を惜しみなく繰り出したということは、何としても外敵から彼女を守るという強い意志が垣間見える。それだけ、大事な相手だということだ。

 しかしながら、千里はそんな事情を知らない。千狸浜にやってきてまだ数日だという少女は、角ばったタヌキの後頭部を撫でながら何かを考えているようだった。

「あの、ヴィオさん。昼に旅館の裏で会った時、私言い忘れていたことがありまして」

「ん? お前が東の人間でも新人のメイドでもなかったことか?」

「ほんっとうにすみませんでした! 友人とプール……水遊びをしていて、気が付いたらあそこにいてわけもわからず話を合わせてしまいまして……!」

 両手を合わせて、千里は頭を下げる。突然のことでむーたんが僅かに身じろぎしたが、ちらりと一瞥だけすると再び目を閉じた。霊力の節約の為に夜には眠る、という教えがようやく身についてきたようで、むーたんは夜になると勝手に省エネモードに突入するのだ。

 千里が平謝りすると、ヴィオはフッと笑って頬杖をつく。

「いや、あれは俺が阿呆だった。しかし、お前は当時とそこまで変わらんように見えるな」

「はい、私からすると三年前の出来事になります」

「なるほど。……そう、礼を言っておかねばと思っていたところだ」

 ひじ掛けから腕を離し、ヴィオはまっすぐに千里を見つめる。

「当時の俺は根性の捻くれたクソガキでな。自分より不出来な者が許せず、実力よりも年齢やら面子やらを気にする仕組みに苛立っていた。あのまま育っていれば間違いなくろくでもない人間になっていただろう、感謝している」

「……私、そんな大それたことしましたっけ?」

 少々雑談をしただけではなかっただろうかと千里が疑問符を浮かべると、ヴィオはゆっくりと頷く。

「ああ、偉業をなしたと思ってくれ。お前は傍若無人な指導者になる道を辿っていたクソガキと民の未来を救った」

「さ、流石に言いすぎな気がします。でも、ヴィオさんのお役に立てたのならよかったです」

 現れた場所が場所であった以上、今思えば人を呼ばれて不審者として扱われてもおかしくない状況だった。ヴィオの勘違いのおかげで難を逃れた千里としては彼の言葉をこそばゆく感じるが、自分が思う以上にヴィオに良い影響を与えたというのであれば素直に気持ちを受け取るしかない。

「トゥルフでの生活は心配するな。恩のある古泉家の客人であり、俺自身の恩人でもあるお前の生活の基盤は用意する。昼にも言ったが、信用に値すると判断すれば都に呼ぼう。そうなれば、暮らしにも余裕が出るはずだ」

「ありがとうございます。都の方って、ずっと晴れてるって聞きましたけどやっぱり暑いですか?」

「そうだな、国境沿いとはだいぶ気候が違う。……不満ではないのか?」

 会話の最中、ヴィオはきょとんとした顔で千里にそう尋ねた。千里は今のやりとりのどこに不満を覚える要素があったのかわからず、首を傾げる。

「不満って、何にですか?」

「いや、恩人だと言うのであればもっと厚遇してしかるべきだろう。それに、俺はまだお前を信用していない、と告げていたも同然だ。それに対する、不平は無いのかと聞いている」

 確かにヴィオは、千里に自分のみならず彼が指揮を取る民の人生までをも救ったような大仰な言い回しをした。そこまで言うのであれば一生面倒を見ると言い切るくらいの熱量をぶつけられてもおかしくはないのかな、と千里は考える。

「ええと、仮にヴィオさんが私に働かなくても暮らしていける環境を用意してくださったとしても、私は何らかの形で労働します。生き甲斐がなくなっちゃいますので。それから、信用されていないのは当然だと思います。私もヴィオさんの事を完全に信用しているわけではありませんし」

 おそらく大変に失礼なことを言っているという自覚があったが、千里は言葉を取り繕わなかった。正味な話、千里はこちらに来てから誰かを真の意味で信頼したことはない。それもそのはずで、単純に一緒に過ごした時間があまりにも短いからだ。

 少なからず人となりを理解できはしたものの、その人物の行動や発言全てを信頼できるかは別問題である。千春が信用しているという前提があったことで千里はある程度ヴィオに対して心を許しているが、そもそも千春自体にも彼女はまだ懐疑的な部分があるのだ。

 この発言でヴィオが機嫌を損ねるのであれば仕方ない。自分とは価値観が合わないのだから、千里としては無理して支援してもらう必要はないのだ。この話が流れたら今後の生活が一気に怪しくなるが、そうなったらそうなったでその時考えようと千里は思う。

「ヴィオさんは人の上に立つお仕事をされてるんですよね。でしたら、新参者の私を警戒しておくのは道理……あの?」

 目の前で小刻みに震えて腹を抱えているヴィオに、千里はどうかしたのかと問いかけて話を中断する。爆笑をかっさらうような漫談をした覚えは無いのだがと怪訝な表情を浮かべる彼女に、ヴィオは膝を叩いて笑った。

「自分の生活がかかっているというのに、よくそうも歯に衣を着せぬものだ。俺が怒って約束を反故にするとは考えなかったのか?」

「可能性としては考慮しましたが、そうなったらそうなったで別の道を……ヴィオさん?」 

 ついには顎を上げて天井を仰ぐように笑い始めたヴィオを見て、千里は飲みすぎたのかなと周囲を探る。しかし丸机の上にも少し離れた座卓にも徳利は一本しか見つからず、千里は酒に弱いのかもしれないとやや心配になった。

「十八年前と同じことを、今改めて聞くと感慨深いものがある」

「はあ、感動しているというよりかは爆笑にしか見えませんが」

 椅子の背もたれに右腕を回し、左手で顎を押さえくくっと笑うヴィオに、表現が間違っているのではないかと千里は突っ込んだ。

 しかし、十八年前、という単語を聞くと少し気が引き締まる。千里としては特別重要な話をした自覚はなく、座りたい椅子に他人が座っていたらどうするかという問答に自分の意見を述べただけだ。野良の椅子を探す、という彼女の意見に当時のヴィオはあまりピンと来ていない様だったが、それから年齢を重ねる内に彼なりの答えを見つけたのだろう。

 今こうして笑っている彼は自分との邂逅があったが故の存在なのだと考えると、どこか誇らしいような気恥ずかしいような不思議な心地だ。

「こうなってくると、千春とお前の馴れ初めも知りたくなってくるな」

「……それはトップシークレットです! 千春さんがいいと言わない限りは、私の方で話せることはほんのちょこっとしかありません」

「要するに千春が情けなかったということか。あいつも妙にぼかしていたしな」

 千春から直接聞き出そうとしたものの失敗したので自分に矛先を向けたな、と千里はヴィオをじとりと睨みつける。その視線にもヴィオは全く動じず、微笑を称えているだけだ。

「さて、この辺でお前を解放するとしよう。お前がいなくなったと千春が青い顔をして飛び込んでくる前にな」

「確かに、そろそろ戻られている頃合いかもですね」

 心配をかけてはいけないなと千里は膝の上のむーたんを抱き上げる。すっかり寝入ってしまったむーたんは、赤子を抱くように体勢を変えてもすやすやと寝息を立てていた。

「では、お話有難うございました。おやすみなさい」

 千里が立ち上がると、ヴィオは丸机の上に置いたランプを持って部屋の入り口まで付き添う。大分目が慣れてきたが足元が覚束ないので有難いなと千里が心の中で感謝していると、千里が戸に手をかける前に後ろからすっと手が伸びてきた。

「信用していない男の部屋には、一人で入らない方がいいと助言しておこう」

「……」

 うなじの上の、少し高い位置に落とされた真面目な声色の言葉に、千里はぴたりと動きを止めた。

 音を立てないように静かに開かれた戸を眺めながら、千里はしばし沈黙する。むーたんがいるので一人ではない、と返すのは屁理屈だし、同じ階に千春も泊まっていると返すのも他人任せのようでよろしくない。

「そういう部分では信頼していますけど、一般的な意味でのご忠告ですよね。ありがとうございます、気を付けます」

「……そういえば千春と同室だったか。どうやって言いくるめた? 本来は若い娘と同じ部屋を取るような男じゃないんだが」

 下心が抑えきれなかったというわけでもあるまいとヴィオはランプを掲げながら疑問を吐露する。それに対し、千里はのほほんとした顔を浮かべる。

「夫婦向けの部屋の方が単独二部屋より安かったので、受付で私がこの部屋でお願いしますって料金表を指しました。千春さんはすごい顔で私を見たんですけど、声を出す前に受付が終わって鍵を差し出されたので言い出せなくなったんだと思います。悪いとは思ったのですが、二部屋取るより四分の一も安くなるんですよ。仕切りもありますし」

「……まあ、明日にはわかることだから俺からは何も言わないでおくが、お前はどうも千春の弱みを握るのが上手いな」

「はあ」

 一体何の話だろう、と千里が生返事をすると、ヴィオはやれやれと肩をすくめる。

「夜中、あるいは朝にお前に幻滅されるのではないかと千春は今頃肝を冷やしていることだろう。くれぐれも、寛大な処置を頼む」

「よ、よくわかりませんが任されました」

 真面目なトーンでそう言われ、千里はこくこくと頷いた。ヴィオに改めて挨拶をして部屋に戻る道中、千里は寝言かイビキのどっちかだろうなと思案する。しかしそれは人体の妙というもので、本人が気を付けたところで対策にも限界はある。

 自分から同室にするよう差し向けた手前、そういったことに不平不満を漏らすつもりはないと彼女は堂々と凱旋したが、部屋に戻るなり短時間とはいえ書置きも無くいなくなったことをこってりと絞られた。事実には違いないため、千里はむーたんを探しにいったという言い訳をすることなく粛々と千春の小言を受け入れる。

 千春の説教自体は、怒っているというよりは焦りと心配が主軸だった。だからなのか、彼は終始穏やかな口調だったし声も荒げていない。しかし自然と正座してしまう圧は持ち合わせていて、千里は今後千春を怒らせないようにしようと決めたのだった。

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