第15話 名前を呼ばれる心地は、きっと

 花冠祭当日。

 試用期間終了まで残り二週間。


 アニカはグレゴールと共に花冠祭のメインイベントが行われるアマルナ森林自然公園へと向かっていた。

 チラリと顔を上げるとオパールの瞳と視線が合う。

 にこりと細められた笑みはあの日と違って不気味なぐらい楽しそうである。


 あの日――外出許可を貰いに行った日、ライネルは驚くほど不機嫌だった。


「花冠祭に出かけたい……ねぇ。」


 忙しいはずなのにわざわざ応接室へアニカを招き入れ、二人分のお茶とお菓子を用意してくれた。

 アニカと向かい合うように座ったライネルはそれらに一切手をつけず、アニカを凝視していた。


「はい。グレゴールに深いかかわりがあるようなので、何か手がかりになればと思いまして」

「君がそう言うなら行くべきだろう。それは賛成だ」


 本当に賛成しているのか疑いたくなるぐらい強い眼光だ。

 顔が整っている分、表情が消えるとめちゃくちゃ圧を感じる。


 ――花冠祭への参加は良いなら、一体何がダメなのかしら?


 思い当たる節などアニカにはこれっぽっちもない。

 気まずい空気に耐えかねて、アニカは紅茶の入ったカップを口元へ寄せた。


「――今回は俺が同行しよう」


 口に紅茶を含んだ直後の爆弾発言に紅茶を吹き出しそうになる。

 何とか口からの大噴射は免れたものの誤って気管に液体が入り、むせてしまった。


 ――ライネル様と花冠祭に!?


 歩くたび主に女性からの殺意のこもった視線を浴びることは想像に易い。

 無能だと罵られるのは慣れているけれど、嫉妬と殺意を一身に受けるなんて確実に寿命が縮む。

 嫌だという感情が顔に出ていたのだろう、ライネルは先ほどよりも更に不機嫌そうに眉を顰めた。


「そんなにフリードと一緒が良かったか? ……まあ、君たちはいつの間にか仲良しになっていたからな」


 ――何故にフリード!?


 『上司に向かってなんだその態度は』と怒られるとばかり思っていたのに全然違うことを言われた。

 フリードの方が気が楽なのは確かだけれど、別にフリードに固執はしていない。

 それとライネルはどこか拗ねているように見える。

 勘違いかもしれないのにそんなことを思ってしまったからか、唇が心なしか尖っている気もした。


 ――もしかして、ヤキモチを焼いているんですの!?


 そういえば前にフリードが「ライネル様とは幼少期からの付き合いで」と話していた。

 身近な人間がぽっと出の奴に取られる悔しさはとてもよくわかる。

 無意識のうちとはいえ、最愛の姉の一番を攫って行ったどこぞのヘルガーのように邪魔な存在になってしまっていたとは露ほども思っていなかった。

 アニカはライネルの敵ではないことを示すべく、息を吸った。


「いえ、そうではなく……。花冠祭に行くことばかり考えていて、同行してくださる人のことが頭から抜けておりましたわ!」


 半分は嘘、半分は本音だ。

 きっと同行者はフリードかなとは思っていたが、何が地雷になるか分からなかったのでアニカは口を噤んだ。


 ――私は敵ではありませんわ!


 ライネルの機嫌が治ってくれるのであれば、彼と花冠祭に行くのはやぶさかではない。

 アニカはこの短い試用期間内で社会の過酷さを身をもって体感していた。

 突き刺さる視線や見知らぬ人間からの罵詈雑言と自分の職を天秤にかけてみて、より大事なほうに重きを置いただけの話である。


「なるほど。別にフリードと一緒に行きたかったわけではないと……そうか」


 話し始めた時の不機嫌はどこへ置いてきたのか、ライネルは満面の笑みを見せた。

 感情のままに表情をコロコロ変える彼はどこか幼く見えた。

 楽しそうにしていてもらえるのであれば、心配の種がひとつ減るので精神衛生的にもありがたい。

 ひとまず胸を撫で下ろすアニカにライネルは言葉を続けた。


「話は変わるのだが、俺もフリードのように君と仲良くしたいと思ってね」

「は、はぁ……」

「君たちはお互いの名を呼び合うだろう? 俺もそうしようと……いや、もう少し捻るか……」


 ライネルはぶつぶつと小声で何かを呟いたが最後の方がよく聞こえない。

 聞き返そうとするアニカよりも先にライネルの形のいい唇が開いた。


「これからは『アニー』と呼んでも?」

「大丈夫ですけれど……」


 それはアニカの大好きなお姉様と、許可はしてないが義兄のヘルガーだけが呼ぶ名前だ。

 無能だからと両親からも一定の距離を置かれているアニカにとって、その呼び名は特別な意味を持っているような気がしていた。

 だからクラウディアに呼ばれると舞い上がるほど嬉しいし、ヘルガーに呼ばれるとムカつくけれど悪い気はしない。


 ――ライネル様に呼ばれる時は、どう思うのかしら……?


 ばちりと彼の瞳と目が合う。

 優しげに細められた眼差しに居心地が悪くなって、すぐに視線を逸らした。


「ありがとう、アニー。俺のこともあだ名で呼んでくれて構わない」

「善処致しますわ……」


 上司をあだ名で呼ぶなんて、それは流石に無理である。

 アニカは過去一ご機嫌な笑顔のライネルへ引き攣った笑みを返した。

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