最も脳への定着率が高いトリガーは、「ドS女性からの怒号」である

 まずは、「①カドモスの構造およびノイド制御室の制御可能範囲」のインプットを始める。ファイルは二つ。

・「火星軌道上ステーション「カドモス」の構造諸元.pdf(5.7GB)

・ノイド制御室の制御可能範囲_21000301.4dm(2.2GB)

 拡張子「.4dm」は「4 dimension map」の略であり、三次元空間に時間変化も加えられるファイル形式である。

 ファイルが大きすぎてそのままでは時間がかかる、と思った田中。BCI変換用のソフトを開く。二つのファイルを変換ソフトにアップロードし、.bci形式に変換。拡張子「.bci」は「brain computer interface」の略であり、Bロードするためのファイル形式である。

「あ、ミスった」

 ため息をつく田中。非侵襲デバイスを耳に装着し、寝そべる。自分の脳に高強度で情報を定着させるためには、自分の脳に適合するようにデータを微調整する必要がある。人によって情報の保持パターンは異なり、例えば「猫の研究者」と「猫をペットとして飼っている人」では、「猫」というデータが脳内でどのように保持されているかが異なる。

 先ほど田中が変換したデータは、十日前に田中がアップロードした自分の脳のBCIデータに適合するように調整されたため、今の田中よりも適合度が低い。

 そのため田中は、今の自分の脳データの抽出を始める。なるべく今の感情や身体感覚を消した状態の方が有用なデータが取れる。専用の薬も存在する。ただ、そこまですることが面倒な田中は深呼吸五回で済ませる。

 抽出ソフトの起動。深呼吸を続ける。


 一分後。

 脳データの抽出が完了。数秒でデータの検証を済ませ、改めて先ほどの二つのファイルを変換。事前に提示される想定定着度は、カドモス構造諸元のデータが八十九%、ロボット制御室の制御可能範囲データが九十三%ほどとなっている。田中はこのソフトに課金して高機能の変換モデルを利用しているため、平均よりかなり高い値である。

 Bロード用ソフトを起動。まず画面で二つのファイルを選択し、目を閉じ深呼吸を始める。すると、脳内に女性の大声が響く。

「田中! ぶちこむわよ!」

もちろんデフォルトの始動方法ではない。田中の趣味でもない。

「草原の凪風音」「南国のサンゴ礁のダイビング風景」「無への近似」など数十種類の始動ジャンルを試した結果、「ドS女性の怒号」が一番定着率が高かったに過ぎない。田中が特別ドMというわけではないため、田中にもなぜこれが一番最適なのかは分かっていない。

 バチン、バチンと頬を叩かれる。

「まだね。全然なってない」

体が前後からグググと圧縮される。

「本当に欲しいの? なに? 欲しくないの? このデータがぶちこまれた新しい自分になるんじゃないの?」

「なります、ならせてください。お願いします」

「はぁ……仕方ないわね」

すると、全感覚が消去される。


 一分後。田中の感覚では感覚消去の直後。

 よし、だいたい理解できた。一応、元資料を参照しながら間違っていないか検証しよう。そう思って田中はまずカドモスの構造諸元pdfファイルを開く。

 主な区画は「居住区&ビジネス区」、「管理区」、「研究区」、「運輸区」。

 「居住区&ビジネス区」は、遠心重力によって火星と同じ約〇・三Gの重力で生活できる区画。うん、間違ってない。

 「管理区」は……ややこしいな。後で見よう。

 「研究区」は無重力環境で、アメリカ、EU、インド、日韓台連合、合計四つの小区画がある。

 「運輸区」は、この輸送船が到着するところでもある。カドモスと今直接つながっているのは三種類。

①火星都市ハルモニア:イオンロケットで発着

②火星の衛星:①とは別のロケットで発着

③地球:この輸送船のような核融合船で発着

小惑星帯採掘が可能だった時期には、何個かの小惑星帯ともつながっていたみたいだが、今はつながっていない。

 「管理区」……ややこしい。一発で覚えきれない。ざっくり言うと、各区画に代表されるカドモス全体を機能させることが目的か。「艦内インフラ室」、「エネルギー&姿勢制御室」、「輸送管制室」、「通信&セキュリティ室」、「ロボット管理室」、「統合室」か。概ね遠心重力区画の中にある。僕も「管理区」の中の「ロボット管理室」に行くことになるな。

 一旦OK。次は「ロボット制御室の制御可能範囲」のおさらいをしよう。

 グラスをかけ、4dmファイルを開く。すると眼前に、空中に透けるようにして1m大のカドモスの三次元マップが表示される。区画の境界は太い緑色の線、部屋単位は白いワイヤーフレームで表示される。そして、無数のカラフルな「点」がそこかしこにある。

 その後田中は、二時間ほどインプットを続けた。


 輸送船五日目。

「連絡です。当機は約七時間後、火星軌道上ステーション『カドモス』に到着いたします。重力異常により、約一時間到着時間が早まっています」

アナウンスが部屋に響く。田中はその放送で目が覚めた。

 朝…といっても太陽が昇るわけではない。宇宙標準時の朝八時だ。アナントはまだ寝ている。

 あと六時間なら、かなり近いはず。田中はそう思って部屋を出た。目的地は、船の前部にある展望デッキ。エコノミー部屋からは遠い。十分弱はかかる。とはいえ、まだカドモスを見たことは無い田中。足どりは軽かった。

 展望デッキに近づくにつれ、消音設計が充実していき、機械音はほとんどなくなる。展望デッキと基本トラスを繋ぐ鉄製ドアが開くと、赤茶色の星が見えた。火星だ。そしてその右側に小さく、人工衛星らしきものが見えた。おそらくカドモスだろう。

 展望デッキには十人ほどがいる。田中は、思ったより人が少ないなと思いつつ、展望デッキのガラス側に近づいた。

「すげぇ…」

思わず声が出る田中。

「連絡です。当機はこれより、火星軌道上ステーション『カドモス』とのドッキングを開始します。指定座席にお座りください」

艦内アナウンス。三分ほど色んな位置から眺め尽くした後、田中は座席へ向かった。


 六時間後。

ガチャン、シュゥゥゥゥー、プシューーーゥゥ。

ドッキングしたか?

「連絡です。当機と火星軌道上ステーション『カドモス』のドッキングが完了しました。移動に関しては、次の連絡をお待ちください」

その後はシャトルの後と同じように、手すりにつかまってカドモスに入った。

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