第23話(香澄目線)

 どれくらいそうしていただろう。


 しゃがみこんだベンチの下で、誰にも見られないように丸くなって、泣いて、泣いて、もう涙も出なくなって。


 それでも鼻は詰まって、喉がひりついて、

 足元はじんわりと冷えていた。


 どこかで、猫の鳴き声がした。


 見上げると、空には雲が流れていて、月はもう見えなかった。


 ――帰らなきゃ。


 それだけを頼りに、立ち上がった。


 足は重く、頭もぼうっとする。

 コンビニの明かりが眩しくて、誰かの笑い声が遠く感じる。

 全部、自分とは無関係な世界に見えた。


 


 * * *


 


 部屋の鍵を開ける音が、やけに大きく響いた。

 玄関の電気もつけず、靴を脱いで、そのまま廊下を歩く。


 リビングのドアも開けずに、寝室に向かう。


 何もかも見たくなかった。

 今は、世界を閉じてしまいたかった。


 


 ドアを開けると、そこには――


 空っぽの布団だけがあった。


 


「……」


 ひとつの掛け布団に、並んで敷かれたふたつのマットレス。

 毎晩一緒に眠っていた場所。


 枕元の読みかけの本。

 ベッド脇のコップ。

 昨日まで、そこに“彼”がいた気配だけが、まだ残っている。


 


 私は着替えもせず、バッグも落としたまま、

 ふらふらと布団の上に倒れ込んだ。


 体が沈む。


 顔が埋まる、その先に――彼の匂いがあった。


 


「……っ」


 嗅覚を通して、記憶が刺してくる。

 笑った顔。

 くしゃくしゃの寝癖。

 朝、目が合うと微笑んでくれたこと。


 全部が、一気に胸に押し寄せて――


 


 ぐしゃ、と枕を抱きしめた。


 


 泣きたくないのに、涙が出る。

 出ないはずだったのに、また出る。


 枕が濡れていく。


 滲んだ涙が、彼の匂いを薄くしていくみたいで、

 私は必死に顔を埋めた。


 


「……帰ってくる、よね……」


 


 小さな声が漏れた。


 誰もいない部屋に、返事はない。

 でも、言わずにいられなかった。


 


「ちゃんと……ごめんって言うから……」


 「もう、責めないから……」


 「――好きって、ちゃんと、言うから……」


 


 声が、震えていた。

 指先も、唇も。


 


 私は祈るように枕を抱いて、

 彼が帰ってくる未来だけを思いながら――


 


 泣き疲れて、静かに眠りに落ちていった。


 


 そこにもう、温もりはなかったのに。

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