第13話
少し休みつもりだけだった。
講義が終わって、身体が重くて、ベンチに腰を下ろしたのは午後五時すぎ。
夕焼けに染まりかけた校門の並木道は、蝉の声がまだしぶとく響いていて、俺の心拍と同じくらい喧しかった。
──気づけば、世界は真っ暗だった。
目が覚めたとき、最初に浮かんだのは「やばい」という感情だった。
何がどうヤバいのかも整理できないまま、手が震えた。
ポケットから取り出したスマホの画面には、既読すらつけていない香澄からのLINEが二十数件、着信履歴は十回を超えていた。
「……っく」
胃のあたりがきゅうっと絞られる。
頭の中で、香澄の声が再生される。
「どうして連絡くれなかったの?」
「浮気じゃないよね?」
そんな台詞を、本人の口調で。
過去のやり取りが脳内で勝手に上書きされて、身体が縮こまるように固まっていく。
いま、すぐにでも帰らなければいけない。
でも足が動かない。喉が渇いている。何もかもが、怖い。
このまま、目を閉じてしまいたかった。
「……どしたの、あんた。そんな顔して」
その声に、びくりと肩が跳ねた。
今まで気づいていなかった。
俺の隣のベンチに、誰かが座っていた。
街灯の薄明かりに浮かんだその人影は、タンクトップにスウェットパンツ、片手に缶コーヒー、そしてもう一方の手には吸いかけのタバコ。
長めの髪を無造作に束ねたまま、目元の疲れた女性が、俺をじっと見ていた。
「……びっくりした? ごめんね、なんか。ずっと隣にいたんだけど」
「……いえ」
声が出た自分に驚いた。
返したのは反射だったのかもしれない。
目を合わせられなくて、缶コーヒーを握る彼女の指先をじっと見ていた。
「ほら、これ。飲む? まだ冷たいよ」
「え? あ、ありがとうございます」
まだ思考がまとまってない内に、差し出された缶。
断る理由が出てこなかった。
言葉‥では説明しにくいけど、何故か安心感が目があった瞬間からその人にはあった。
彼女は、何も聞かない。
そこに居るだけだった。
「おいしい?」
「は、はい」
ただ、何だろう、この空気。
呼吸が、できる。
香澄といるときは、部屋の空気が完璧に管理されているみたいで。
温度も湿度も、表情も言葉も、すべて整いすぎていて。
だからこそ、息が詰まって、苦しかった。
この人のそばには、そういう“整い”がなかった。
タバコの匂い、乾いた空気、そして遠くから聞こえる救急車の音。
全部、雑多で、不完全で、でも……安心した。
「……泣いてんじゃん、あんた」
はっとして手で目元を拭った。
指先が濡れていた。
涙が、勝手に流れていた。
「どした? なんか辛いことであった? 私でよかったら聞いてあげよっか?」
彼女の声は、からかいでもなければ、哀れみでもなかった。
「……ちょっと思い詰めていて、自分彼女が居るんですけど‥‥最近怖くて‥‥情けない話ですよね‥自分の彼女が怖いだなんて」
気づけば、ぽつりと本音が口からこぼれていた。
彼女は頷きもせず、否定もせず。
タバコを火の部分だけ地面にこすりつけて消した。
「わかるよ。あたしも昔、似たような男にビビっててさ。言いなりだった」
さらっと、そんな言葉を言う。
驚いて顔を向けたけど、彼女は視線を合わせず、夜空を見ていた。
「でもさー、ある日突然ぷっつん来て、そいつぶん殴ったらさ。不思議なことに、それで全部軽くなったの。あ、終わったなって。やっと自分の足で立てた気がしたんだよね」
それは武勇伝でも、自慢話でもなかった。
ただの過去として語られた事実。
でも、それが妙に、胸の奥に刺さった。
「‥‥名前、聞いていいですか」
「詩織。黒川詩織。‥‥君は?」
そう言って、小さく笑った。
優しくて、大人びていて、でもどこか寂しげな笑顔だった。
「……真尋、です。綾瀬真尋」
「真尋くんか。ふふ、似合うじゃん。その顔に」
「……似合うって、なんですか」
「泣き顔。ほら、年下の男の子が泣くとさ、姉心がくすぐられるんだって」
タンクトップ姿で、くだらない冗談みたいに言いながら、詩織は立ち上がった。
「じゃ、あたし帰るね。また泣きたくなったら、ここ来な。たまに座ってっから」
そう言って、ポケットに手を突っ込みながら歩き出す後ろ姿。
俺は、まだ缶コーヒーを握ったままだった。
名前しか知らない。
それなのに、なんでだろう。
この人の後ろ姿が、やけに心に焼きついて離れなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます