第10話

 玄関の鍵を回した瞬間、金属の軽い音が静まり返った部屋に響いた。


 ドアを押し開けると、リビングの灯りが廊下に溢れ、そこから香澄が現れる。


 白い部屋着の袖を軽くまくり、髪は後ろでざっくりとまとめられている。


 表情は、怖いぐらいニコニコの笑顔だった。


「おかえり」

「……ただいま」


 視線を落とし、スニーカーのかかとを踏み潰すように脱ぎかけたとき、耳元に声が落ちてきた。


「まっすぐ帰ってこなかったの、知ってるよ? 何してたの? 私、ずっと待ってたんだよ?」


 抑揚も怒気もない。ただ事実を告げるだけの、やわらかい声。

 それだけなのに、背中を冷たいものが這い上がり、肩の筋肉がぴくりと強張った。

 心臓が一瞬で早鐘を打ち、喉が渇く。

呼吸は浅く、落ち着かない。


「……寄り道、ちょっと‥」


 言い訳を最後まで口にする前に、香澄の手が俺の顎をすっと持ち上げた。

 指先は冷たく、けれど逃れられない強さがあった。


「ん」


 ほんの短い音とともに、顔が近づく。

 唇が触れた瞬間、反射的に腕に力を入れて押し返そうとした。

 しかし、押すほどに香澄の笑顔は深まり、その笑顔が怖くなった。


「疲れてるから……」


 言葉がかすれ、足が一歩後ろに下がる。

 だが、その動きに合わせるように腰を引き寄せられ、背中が壁に当たる。

 スニーカーは片方だけが足元に残り、かかとが床に擦れた。


「じゃあ、立ったままでいいよ」


 耳元で囁かれた声が、皮膚を撫でる。

 その距離に圧され、腰から下の力が抜けそうになる。

 香澄の手が腰骨に沿って軽く置かれ、逃げ道は完全に塞がれた。



朝。


 気づけば、玄関マットの上に横たわっていた。

 視界の端には、閉じられたドアのシルエット。

 背中に残るのは、硬い床の感触と、じわじわと冷えた空気。


 頭はぼんやりと重く、手足には鉛を詰められたようなだるさがある。

 布団はなく、肩口まで冷えが染み込んでいた。


 横を見ると、香澄がすぐそばで静かな寝息を立てていた。

 腕はしっかりと俺の体に回され、まるで逃がすまいとするかのようだ。


 目を瞑れば、昨夜の光景が鮮やかに蘇る。

 寄り道を指摘されたこと。

 目を逸らす隙すら与えられず、壁際に追い詰められたこと。

 あの距離、あの声。


「———ッ!」


首筋と腕にある何本もある出来立ての引っ掻き傷が痛い。


 ――別れた方がいいんじゃないか。




数日前、友人が軽く口にした言葉が、今は鋭い刃のように胸に突き刺さる。


 俺、このままだと本当に……。


 その先を考えた瞬間、呼吸がひとつ、浅くなった。

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