⑩幕間三話

 天方海羽から連絡先の交換を持ちかけられた。

 逆行前の時とはずいぶんと違ってきている。もはやまったくの別ルートと言っても過言ではないだろう。初期値鋭敏性を多分に孕んでいるであろうこの世界の未来予測の不可能性を実感する。もしそれを読み切ろうとするものがいるとすれば、やはり神仏の類いか、少なくとも人ならざるものに違いない。

 というようなSFオタク的思考を引っ込めるとわたしは、海羽の求めに応えた。

 裕也さんと共通の友人ができることはマイナスにはならないだろう、そういう欲得ずくな思惑があったことは否定しないけれど、わたしとは真逆の人種であろう海羽に興味があったのもまた事実だった。

 彼女は世間一般の星高生のイメージからはかけ離れた、快活な女の子だった。自己に対する揺るぎない自信が言動の端々から窺え、少し羨ましい。

 連絡先交換の次の日、裕也さんが、外泊するかもしれない、と言い出した。海羽の双子の弟、陸人と盛り上がって、彼の家つまり海羽の家にお邪魔しているという。お義母さんを通してそう聞いた。

 突然のことでひどく驚いた。

 正直に白状すると、嘘かもしれないと疑っていた。

 本当は裕也さんはわたしの知らない女と会っているのではないか。優しい笑みをその女に向けているのではないか。繊細な手つきでその柔肌に触れているのではないか。

 わたしでは絶対にかなわない、例えば人気アイドルのような、恐ろしくかわいくて若く、社会的地位や財力さえも兼ね備えた魅力的で都合のいい女と貪り合うように激しく、深く情愛を交わしているグロテスクなシーンが脳裏をかすめて胸の奥が浮き足立った。

 知った顔の所にいるというのならまだ安心できる、わたしはそんなふうに自分に言い聞かせて心を落ち着かせた。

 とはいえ海羽にメールで確認はしておこう。

 わたしはすかさず彼女に探りを入れた、もとい気遣いの言葉を送った。


『裕也さんがごめんなさいね。』


 わたしは、裕也さんのにおいに満ちた彼の部屋の隣の自室で、ベッドの上で正座して微動だにせずに携帯電話を見つめて返信を待った。二十二分と三十二秒後に携帯電話が明滅した。海羽からのメールだ。時刻は二十三時になろうとしていた。


『全然いいよー

 てか、あたしはあたしで今、友達のとこにいてノータッチだしー』


 これでは海羽に裕也さんのアリバイ証言は期待できない。裕也さんに海羽の携帯電話に出てもらって──あるいは彼の声を拾ってもらって所在を確認する方法も使えない。


『邪魔してしまって、ごめんなさい。』


 と、しおらしく返しつつわたしは、当てが外れて──あるいは、外されて、か──気落ちしていた。


『謝んなくていいよー

 裕也が女の子と遊んでないか心配で居ても立っても居られないんでしょ?笑

 わかるわかる、恋しちゃってるとそんなんばっかだよねー』


 遥か年下の少女に気を使わせる自分が情けないけれど、少しだけ気持ちが軽くなった気はした。

 ありがとう、と返そうとして、再びメールが来た。


『今、少し話せる?』


 話せるが、友人の所にいるのにいいのだろうか?

 というようにメールで尋ねたら、返事は着信音だった。

 ワンコールが終わったところで応じた。


『いきなりごめんねー』海羽の声は優しげで、かつ元気そうだった。


「ううん、いいよ」


『ちょっと話しておきたいことがあってね』海羽は語調をシリアスに寄せた。


 わたしの心臓が不安そうに脈動した。「何かな?」


『愛理ちゃん、裕也のこと本気なんだよね?』


 ストレートに聞かれると気恥ずかしい。「う、うん」


『だよね、顔に〈結婚したい〉って書いてあったもん』


 かぁぁっと顔が熱くなった。「そ、それがどうかしたの?」


『あははー、照れてる。愛理ちゃん、かぁわいー』


「……」


 わたしがむっとした気配を察知したのだろう、海羽はごめんごめんと笑いながら言うと、しかしふっと真面目な声色になった。


『あたしが言いたいのはね、愛理ちゃんもうかうかしてられないよってこと。裕也はヘタレ童貞っぽい顔してるけど、ヤるときはヤるやつだし、あれで結構モテるからね。まだ付き合ってるわけじゃないんでしょ?』


「うん……」わたしは暗い海底に落ちていくような気持ちでうなずいた。


『この前もさ──って言っても四月なんだけど、星高の校門のとこで関西弁の子と揉めてたこともあったんだよ』


 初耳だった。


「どういうこと?」わたしは膝を乗り出すようにして尋ねた。


『あたしも直接見たわけじゃないんだけど、その関西弁の女の子が裕也にすんごいすがってて、しまいにはお金まで出して引き止めようとしてたらしいよ。きっと裕也に振られたんだよ、その子。それで諦め切れずに学校にまで来ちゃった。たぶんそんなとこだと思う』


 心から惚れた──かつてはその愛を独占していた──男性に艶聞が絶えないことへの誇らしさとほかの女に盗られるのではないかという不安が、同時に押し寄せてきて、一瞬混乱し、息が強張って震えた。

 その微弱な息遣いからわたしの内心を察したのだろう、海羽は柔和な微苦笑を洩らした。


『こんなこと言っといてあれだけど、愛理ちゃんなら大丈夫だよ。あたしが今まで会ってきた中で一番の美人さんだもん。裕也も満更でもなさそうだったし、積極的に来られたら拒み切れないよ、きっと』


「その関西弁の女というのは、どんな感じだったの」


『顔のこと?──マスクしてたみたいでわからないんだ、ごめんね──スタイル? 良さげだったみたいよ。でも愛理ちゃんも絶対負けてないよ。グラビアアイドルみたいだもん。あたしにも少し分けてほしいくらいだよ』


 とおどけると海羽は、なははー、とわざとらしい笑顔を想像させる優しい笑い声を発した。

 それからも二言三言交わし、礼を言って通話を終えた。

 その途端、夜の静寂に部屋が侵された。

 もっと積極的にならないといけないのだろうか、と自問する。間を置かずして、いけないのだろうな、と自答した。

 わたしは捨てられた女だ。今はもう彼の唯一ではない。

 もう一度振り向いてもらい、そしてわたしとの時間に仕事以上の価値を見出だしてもらうには、もっともっとがんばらなければいけない。雛鳥のように安全地帯で口を開けて待っているだけでは彼の愛は得られない。

 重々承知している。

 けれど、どうしても怖い。


「裕也さん……早く帰ってきて……」


 無意識にそうつぶやいてしまった、昔から何一つ変われていない自分を少し嗤った。







 少しだけ言い訳に付き合ってほしい。裕也さんにも話していない秘密の昔話だ。

 わたしがまだ三歳のころ、幼稚園に入園してすぐのことだ、お母さん──美穂さんではなく生みの親の──に膵臓癌が見つかった。

 その時にはすでにステージⅣだったらしい。周囲の臓器への転移が激しく手術は不可能で、その他の治療も効果は芳しくなかった。

 予定調和のように余命宣告がなされた時、わたしはその場にはいなかった。

 幼すぎたのだから仕方ないとは思うけれど、もしも診察室でその瞬間の医師やお母さんの顔色を見ていたら違っていたのかな、と思うことがある──これも言い訳かもしれない。

 当時のわたしは、お母さんの病気が大変なものだなんて思っていなかった。入院していたから、具合が悪いんだろうな、と漠然と感じてはいたけれど、その程度だった。その気になればすぐにでも退院できるものだと信じていた。今はちょっと休んでいるだけだ、と。

 だから、なかなか会えない、会えてもすぐに引き離される寂しさからわたしは癇癪を起こすようになってしまった。

 どうして家に帰ってきてくれないのか。まったくもって納得がいかなかった。

 そうしてある日、わたしは、胸裏に抱えていた不満と怒りに任せてお母さんに言ってしまった。


「お母さんなんか大っ嫌いっ!! もう帰ってこなくていいっ!!」


 ベッドで身を起こしていた、痩せ細ったお母さんのつらそうな、泣き出しそうな顔が忘れられない。

 わたしはお母さんの病院──緩和ケア病棟と言うそうだ──に行こうとしなくなった。拗ねていたのだ。意地になってもいた。

 それから程なくしてお母さんは亡くなった。

 だからわたしが最後に見た彼女の顔は、まなうらに焼きついたその哀切の表情だ。

 本当にもう会えないのだと理解した時、わたしは大泣きした。高く澄んだ空に金風きんぷうが吹く、秋の日のことだった。

 春夏秋冬ひととせが巡り、また巡り、同じような景色が繰り返され、やがてわたしは自分のしたことの意味を──罪を悟った。

 あの瞬間のお母さんの気持ちを思うと、締めつけられたかのように胸が痛む。

 彼女のあの表情を思い出すたびに、罪悪感が喉に詰まり、息ができなくなる。

 わたしは恐れるようになった。胸の裡で渦巻く感情を表に出すことを。欲望を人に見せることを。

 剥き出しの心は、いとも容易く人を傷つける。それでもしその人との関係が壊れてしまったら、と思うと、身がすくむ。お母さんのようにその傷を癒やすことができないままついの別れを迎えることになったら、と思うと、喉が引きつって声を失う。

 要はわたしのことを、受け身すぎる、と言う。

 海羽も、遠回しにだけれど、積極的にならないといけない、と言う。

 全部わかっている。予防線で雁字絡めになっている自分を、そのくせ、裕也さんの前では特に、制御し切れずに嫌なところばかり見せてしまう自分を滑稽だとも思っている。

 いやでも、後者に関しては裕也さんも悪い。

 あの人の、大樹のように強く、ぶれない精神性を前にすると、つい安心して気が緩んでしまう。しかも、裕也さんときたら、一度裡に入れた者に対しては果てしなく甘くなるのだから余計にタチが悪い。そんなの、心が、体が、本能が甘えたくなってしまうに決まっている。理性では抗い切れないよ……。

 けれど、だから、好き。

 剥き出しの敏感な心に触れてほしいと、恥ずかしいところも汚いところも全部全部見てほしいと、そしてそのうえでわたしのすべてを愛してほしいと願ってしまうくらいに──愛してる。







「そんなにお義兄さんが好きなら、もう襲っちゃえば?」


 翌日の昼休み、早速、裕也さんの外泊とストーカー女のことについて要に話すと、彼女はもはやお定まりとなった気怠げなあきれ顔でそう言った。

 今日は中庭で食べている。

 月影女学院の中庭は広く、開放感がある。石畳が敷かれており、その上にパラソル付きのテーブルと椅子のセットが複数置かれていて、おまけに花壇までこしらえられているのだから、さながらお洒落なガーデンカフェのようで、当然の帰結として人気スポットとなっている。今日のように快晴だとなおさら混む。

 にもかかわらずパラソル席を確保できたのは、四時間目が思いのほか早く終わったからだった。


「襲うだなんて、そんな……」


 その様を想像してしまったわたしは、胸の高鳴りを悟られぬように努めて貞淑を装って淑女ぶって答えた。

 しかし、要にはまるで通用しなかった。


「何、カマトトぶってんのよ。お義兄さんのが欲しくて欲しくて気が狂いそうなんでしょ?」


 はい、そのとおりです。自涜じとくで自分を慰めるだけの日々はもう嫌なんです。あのころのように、裕也さんの凶悪な陽根に奥を延々と抉り突かれて無限絶頂天国じごくに叩き落とされたいんです。あの、全身の細胞の一つ一つから甘重い電流が突き上がってくるような強烈な快感を知ってからというもの、彼の顔を見るだけで奥がうずいてうずいてたまらないんです。彼の股関に目がいかないようにするのにも苦労する始末です。ええ、わたしは色情に狂っていますとも。でも、全部裕也さんが悪いんです。何も知らない生娘だったわたしを徹底的に開発してこんなはしたない淫乱女に変えてしまったのはあの人です。それなのに、出世したら、仕事がどうとか資格の勉強がどうとか言い訳して全然してくれなくなったんです。わたしの子宮を嬉々として自分専用に調教しておきながら、何もせずに、すっかり発情しているわたしの隣でスヤスヤ眠るのです。何と腹立たしい寝顔でしょうか。納得いきません。身も心もすべて奪ったくせに、挙げ句の果てには離婚などと言い出して、こんな仕打ちが許されていいはずがありません。裕也さんはちゃんと責任を取って毎晩わたしをかわいがるべきなのです。あまつさえ、ほかの女? ありえません。意味不明です。そんなのに精力リソースを割くくらいなら、すぐ隣の部屋にいるわたしの体を使えばいいではないですか。タイパもコスパも最強じゃないですか。わたしは常在性交の構えでいつでも準備万端で裕也さんだけを待ちわびているというのに。一言命じてくだされば、どれほど淫らなご奉仕でも恥を忍んで致しますというのに、なぜ来てくれないのですか。何もかも納得いきません。すべてがおかしいのです。世の中狂っています。欲求不満でイライラするし、声もピリピリしてくるし、でも裕也さんのにおいを嗅ぐと心がぽわんとして落ち着くし、やっぱり大好きだし、でも近くにいるとムラムラしてきて落ち着かないし、またイライラしてくるし、でも優しくされるとイライラが吹き飛んで大好きが溢れてくるし、そうすると大好きが体に満ちて余計ムラムラしてくるし、もう本当に頭がどうにかなりそうです。ムラムラとイライラと好き好きがウロボロスで、とにかく苦しいのです。誰か助けてください。

 などという切実な胸の裡を赤裸々に打ち明けられるわけもなく、


「な、何を言うのよっ。わたしはそんな──」


 わたしは必死に取り繕うが、要は聞こえていないかのように言葉を被せてくる。


「何かねぇ、愛理の惚気話を聞いてると、三十代レス四年目くらいの欲求不満妻が溜め込んでそうな、どろどろぐつぐつのマグマみたいな性欲がチラチラ垣間見えるのよ」


 何て鋭い子だろうか。

 わたしはいたく感心し、敗北を認めた。


「えと、その、たしかに、裕也さんとそういうことをしたいって気持ちはなくはないけど」


「『なくはない』、ねぇ……」


 要は疑わしそうにジトーッとわたしを見てくる。

 わたしはそっと目を逸らした。その視線の先には花壇──鮮やかなオレンジのマリーゴールドがあった。きれいだなぁ。


「──ま、いいわ。そういうことにしておいてあげる」


 要はそう言って雰囲気を和らげると、


「で、あんたは愛しのお義兄様がほかの女に盗られるのを指を濡らして──じゃなくて指を咥えて見てるの?」


 わたしの眉間が反射的に強張った。「……そんなの嫌」


「だったら──」


 今度はわたしが要の言葉を遮った。


「でもそれで裕也さんに嫌われたら、わたし無理だよ、生きていけない」自然とうつむいた。


 要は優しい声になるでも厳しい声になるでもなく、相変わらずのアンニュイな調子で言う。


「いいじゃん別に」


 いい? 

 その意味がわからず、答えを求めて顔を上げると、要は、軽い食感が特徴的な細長い棒状のスナック菓子をサクッとかじったところだった。今日の彼女はお弁当を忘れて、売店で買ったパンやお菓子を昼食としていた。

 要とは、こういう、弱気な恋の虫の話は逆行前にはしたことがなかった。

 要は大学を卒業すると単身、海を渡った。いろいろな国を転々とし、最終的にはイギリスに腰を落ち着けた。イギリス人の男性と結婚したからだ。それからすぐに子供が生まれた彼女とは、国だけでなくライフステージも変わってしまい、次第に疎遠になっていっていた。

 だから、セックスレスの相談をしたこともなく、この会話は先が読めない。

 要は、スナック菓子をしゃくしゃくと噛み砕いて飲み込むと、


「嫌われてもいいじゃんって言ってんの」


「……?」よくわからない。


「あんたは大げさに考えすぎなのよ。失敗してもいいんだって。嫌われたら、また好きになってもらえるように努力すればいいだけでしょ」


「それでも、もう二度と好きになってもらえなかったら──」


「そんなの考えるまでもない。そうなったら、もうどうしようないんだからスパッと諦める」


 それができないから苦しいんじゃない。あなたは本当の意味で人を愛したことがないからそんなふうに言えるのよ。

 しかしなぜか、わたしの喉は反論の声を発することができない。超然とした要の雰囲気に呑まれてしまったのかもしれない。

 要は、前も言ったけど、と置いて続ける。


「失敗を楽しんでこその人生っしょ。

 オタクのあんたにわかりやすいように言うと、山なし谷なしでダラダラ続く優しいだけの都合のいい物語に夢中になれるかって話。なれないでしょ。たまにはそういうのもいいかもしれないけど、ずっとそればっかじゃ退屈で死ぬって」


「それはフィクションだからよ。現実に求めることじゃない」


「じゃあ聞くけど、現実と虚構の違いって何?」


 突然、ふざけた様子もなくそんなことを聞かれ、一瞬言葉に詰まった。が、頭を働かせるまでもなく答えは明白だ。


「目の前に実際にあるものが現実で、想像や認識の中にしかないものが虚構だよ」


「素朴実在論? でも、それも結局、自分の主観に依存してるじゃない。知覚があって、そこに確かに存在すると自分が思い込んでるだけって考えると、愛理の言う『目の前に実際にあるもの』も観念的なものにすぎないって思わない? それって、『想像や認識の中にしかないもの』とどう違うの?」


 一理あるとは思うけれど、直感的には納得できない。それはあくまで机上の論理であって、地に足の着いた考え方ではない。ここは象牙の塔などではなく女子高の中庭だ、お弁当やらスナック菓子やらが広げられたパラソル席にふさわしい結論は、もっと形而下的なものだろう。

 わたしは切り口を変えてみる。


「ほかにも、作者がいるか否かで区別できるよ」


「この世界にだって作者がいるかもしれないじゃない。作者って言い方が気に入らなければ神と言い換えてもいい。

 その存在を証明しようとする仮説の中に、〈この世界は、まるで誰かがプロットと設定集を基に創作した小説のようにできすぎている。だから、設計した存在つまり神が実在するに決まっている〉というものがある。

 この目的論的論証と愛理の作者基準説を併せて考えると、この世界も漫画とかアニメの世界もどっちも虚構ってことになると思うけど?」


「反証できない仮説を持ち出してくるのはずるいよ」


「可能性があって、それを反証できないなら、どこまでいっても結論はグレーだって言いたいの。現実と虚構を白と黒で分けられないなら、勝手に区別して冒険しないのはもったいなくない? 所詮その程度の世界なんだから、ゲームとかアニメを楽しむみたいにもっと気楽に生きたっていいわけでしょ。そっちのが絶対楽しいし、笑えるよ」


「……要も大概大げさに考えてるね」


 これは負け惜しみのようなものだった。子供にやり込められた大人の、子供っぽい減らず口。

 しかし意外にも、要は、痛いところを衝かれたときのような、不機嫌とも照れ隠しとも取れる曖昧なしわを眉間に刻んだ。


「そもそもねぇ」と要は話を逸らすように言う。「恥かきたくないとか、いつだってかわいいわたしでいたいとか、傷つきたくないとか、傷つけたくないとか、そんなこと言ってたら恋愛なんてできないって。不格好でもいいからとりあえずやってみれば?」


「でも──」


 失敗したら──


「失敗したらネタにして笑ってあげる」要は目をにやっと細めた。「何だかんだ言って、間近で見る他人の不幸ほど笑えるものはないからね。ぶっちゃけると盛大に振られればいいと思ってる」


「最低すぎる」


「否定はしないけど、毎日毎日惚気話を聞かされる身にもなってほしい」


「それは悪いと思ってる」


「じゃあ惚気話やめてくれる?」


「やめない」


「早く木っ端微塵に玉砕してこいや」


 ちょっと笑った。







 浮わついたような空気が落ち着くと、わたしは尋ねた。


「襲うっていっても、どうすればいいのかな。ただ強引に迫るだけじゃ上手くいくとも思えないし」


「知らんよ」要は興味なげに答えた。「適当に誘惑すればいいんじゃないの」


「それがよくわからないのよ。わたし、自分から誘ったことなくて」


「んんー?」要は戸惑うような顔になった。「あんた、セックスしたことあったっけ?」


「あ」と口を開けた。そういえば、このころのわたしは性交経験ゼロの乙女だった。「そういう意味じゃなくて、自分からアプローチしたことがないってことよ」


「ふうん?」怪訝そうな面持ち。しかし要は深く追及せずに話を進めた。「誘惑の仕方ね……その前に確認なんだけど、お義兄さんも愛理のことを憎からず思っているのよね? でも自分のことを優先させたいから無責任に愛理に手を出してはこない」


「たぶん」


 結婚していたころと変わらずに大切に思ってくれているのは、わかる。


「であれば、お義兄さんの都合のいい時ならある程度は大胆に迫っても大丈夫だから、シンプルに理性を崩壊させてやればいい。あとは、ずるずると爛れた関係を続けてあんたの体に溺れさせればオッケー。責任感も強そうだし、処女食ったデカパイ美少女を無下にはしないでしょ。そこにつけ込むの」


「ううん、そんなに上手くいくかなぁ」純潔を捧げた巨乳美人妻を捨てた人よ?


「上手くいくか、じゃなくて、上手くやるのよ」要は、いかにも強い女らしいことを言う。「お義兄さんの性癖はわかる?」


「完璧に把握してる」わたしは即答した。「好きなシチュもどうすれば一番感じてくれるかもすべて体で理解してる」


「お、おう?」要はおののくように困惑した。「その自信はどこから来るのよ……」


「愛の力……?」


「隙あらば惚気んのやめなさい」


 要は夏限定の炭酸飲料を飲むと、話を戻した。


「その愛の力とやらでお義兄さんのあらゆる欲望を叶えてあげるのよ。お義兄さんがムラムラした瞬間を絶対に見逃さず徹底的に甘やかして性的に満たしてあげて、〈愛理=極上の快感〉という依存の方程式をお義兄さんの脳に刷り込む。すると、いつしかお義兄さんはあんたとのセックスなしでは生きていけなくなるわ。お義兄さんの生活はあんたを中心に回り出し、あんたとの時間を何よりも大切にするようになる」


 わたしは震えた。なぜこんな簡単なことに気づかなかったのか。何のことはない、裕也さんをわたしと同じ状態にすればいいだけだったのだ……!


「要っ……!」


 わたしは、ひしと彼女の手を取った。


「な、何よ」要は不気味そうにぎょっとした。


「ありがとう、要……! みんなからビッチと警戒されているあなたと友達で本当によかった……! でも裕也さんには絶対近づかないでね……!」


 要は眉間をうねうねさせて複雑そうな表情を浮かべた。

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