②幕間一話

 結婚六年目の結婚記念日のあの日、裕也さんの乗ったタクシーを見送ったわたし、相良愛理は、家に帰る気にもなれず、かといって予定どおりホテルのレストランでコース料理を楽しむこともできず、そのラウンジで一人、コーヒーの黒々とした水面から立ち上る湯気をぼんやりと眺めていた。

 浮かんでくるのは、裕也さんのことばかりだった。

 頼み込まれて参加した合コンでの彼との出会い。

 恋人になった日のくすぐったい気持ち。

 初めて彼の隣で眠った夜の温かさと幸せな痛み。

 わたしを選んでくれたあの時の彼の言葉、声、表情──わたしに触れる指先がもたらす甘い痺れ、その一つ一つまで鮮明に覚えている。

 そして、結婚生活。

 やがて緩やかに色を失っていく日々。

 裕也さんの仕事がとんでもなく忙しいのは結婚前から重々承知していた。そのおかげで何不自由ない生活を送らせてもらっていることも理解している。

 だからこうやって孤独を飲む夜も粛々と受け入れなければならないのだろう。わかっている。

 けれど、彼のいない夜が濃くなるにつれ、どうしようもなく──ざらつく。


「はぁ」


 溜め息をついた、その時だった。およそすべての人が空想はすれども実際に体験することはないであろう現象に遭遇したのは。

 視界が暗転したかと思ったら見覚えのある天井を眺めていた。確かにホテルラウンジにいたはずなのに、実家の自室でベッドに仰向けになっていた。高校入学の日の、まだ織笠姓だったころのわたしに記憶を保持したまま逆行──未来の自分から過去の自分への憑依とも解釈できる──していたのだ。原因や原理はいくら考えても不明だったが、とにかく現実はそうだった。

 状況を理解したわたしは、裕也さんの様子を窺いに行こうとした。もしかしたら彼も逆行しているかもしれない。そうであればどんなに心強いか。何より、彼に会いたかった。

 けれど、すぐに翻意した。

 もし彼も逆行していてわたしを求めているのなら、彼のほうから会いに来るのではないか。

 そうでないなら、逆行していないか、わたしを拒絶しているということ。

 結局、わたしは受け身の選択をした。自分からは行動せず彼の行動を待って判断するというものだ。自分から会いに行って、誰だ、と不審がられたらと思うと怖かった。拒絶されようものなら、わたしはわたしでいられない。それよりは、顔を合わせないまま思い出にしてしまったほうが増しだ。

 こういう受け身の姿勢は、わたしの昔からの癖だった。

 わたしは臆病者なのだろう、と思う。傷つくのが怖いから、貝のように口を閉ざしてじっとしている。たとえ海の底のように暗くて苦しかったとしても。

 裕也さんに会えずに時が移っていく。

 日に日に消沈していくわたしを見かねたクラスメイトで友人の七瀬ななせかなめ──結婚式では友人代表を務めてくれた中学以来の──は、遊びに誘ったりと気を使ってくれた。

 時には他校や大学生の男の子たちがまじることもあり、わたしを、というよりたぶんわたしの容姿を気に入ってくれる子もいた。新しい恋ができれば裕也さんのことを忘れられるかもしれないとも思ったけれど、彼の顔が脳裏をよぎるとそんな気持ちも失せてしまった。罪悪感めいた息苦しさもあった。

 それにそもそも、わたしと同年代の男の子とは目線の高さが合わない。親戚の子を見る目というのが一番近いだろうか。かわいいなとは思うけれど、それだけ。精神年齢で言うと彼らより十年以上長く生きているのだから、それも仕方のないことだった。

 そうして鬱々とした日々を過ごしているうちに、父のほうが先に新しい恋人を作っていた。うすうす女の影は感じていたのでそれ自体には驚きはなかったけれど、まさかお義母さんが新しいお義母さん候補で、裕也さんが義兄になるかもしれないだなんて予想できるわけがない、不意の再会を果たしたわたしの胸裏では、驚きや懐かしさ、うれしさ、恋情の甘いうずき、そしてもしも彼がわたしの知る彼でなかったら、若しくはわたしを必要としていない彼だったらという恐れが入りまじり、ひどく高鳴っていた。

 裕也さんが目顔で自身も同じだと伝えてくれて、胸の裡に安堵、そして喜びが満ちた。

 けれどすぐに、逆行していながら会いに来てくれなかった事実が重くのしかかった。

 裕也さんにとってわたしは不要な存在なのだ。

 頓珍漢なことを言ってしまうほどわたしは動揺していた。悲しみの涙が溢れてしまいそうだった。

 けれどそれでも、以前のように彼と同じ食卓を囲めることが、向かい合って同じ時間を過ごせることがうれしくて仕方なかった。







「なるほどな」


 腕組みをした制服姿の裕也さんが、うなずいた。


「俺たちは俺の事故死をトリガーにして同じ世界線の同じ瞬間から逆行していると見ていいみたいだな」


「ええ、そうみたいですね」


 わたしたちは、わたしの家の最寄りのファーストフード店にいた。少々値は張るが小綺麗なカフェのような雰囲気が売りの店で、そのせいか女性客が多いように思う。

 時刻は午後四時半を回ったところ。放課後にそのまま立ち寄った形だ。 

 あの顔合わせの日の夜、裕也さんからメールが来た。


『二人きりで話したいことがあるから時間を取ってほしい』


 逢瀬のお誘いでないことはわかっていた。都合できる日時を伝えると、二つ返事で了承され、週明けの月曜日の放課後にこの店で待ち合わせることとなった。

 店に現れた裕也さんは、高校のブレザーを着ていて、わたしをどぎまぎさせた。彼と同じ高校だったら、という青い妄想が一瞬のうちに脳裏を駆け巡ったのだ。

 そんな、わたしの恥ずかしい内心など知らない裕也さんは、手早く注文を済ませ、席に着くなり、この話し合いの目的を端的に述べた。


「第一に逆行に関する情報の共有、第二に俺たちの関係について」


 わたしにとっては後者がすべてと言っても過言ではなかったが、しかつめらしく繕って首肯した。裕也さんに異を唱えるつもりはなかった。

 最初に裕也さんが語った。

 彼が事故に遭っていたと聞いた瞬間にはこちらの心臓が止まるかと思ったけれど、当人はけろっとしていて、気勢を削がれた心地がして何も言えなかった。

 続いてわたしも説明した。ずっと裕也さんに会いたかったこと、そしてほかの男の子とは何もなかったことも強調して伝えた。

 裕也さんは口を挟まずに最後まで聞いてくれた。

 彼はアイスコーヒーで喉を潤すと、


「愛理はこの逆行をどう思う?」


 と話を転じた。


「どう、というと、原因のことですか?」


「そう。あとは、どんな意味があるのか、とか」


「わたしにはわかりません。SFは好きですが、こんな現象が現実にあるとは露ほども信じていませんでしたから」


「だよなぁ」


「ええ、元の時代に戻る方法も当然わかりませんし」


「それに関しては一つ考えがある」


 ピンと来てわたしは、


「駄目です!」


 我知らず声を高くしていた。周りのお客さんの耳目が集まる。肩を縮めて、すみません、と会釈し、裕也さんに顔を戻す。


「もう一度死ねば戻れるかもしれないと考えているのでしょう? 駄目です。死んで、そのままだったらどうするんですか。それに、戻ったところであなたは死んでいるんですよ? そんなの自殺と変わらないじゃないですか」想像したら涙がにじんできた。「せっかく会えたのにまたお別れなんて絶対に嫌です。お願いだからやめてください」


「落ち着け。やるつもりはないから。ただの可能性の話だよ」


 そう言って裕也さんは、指先で涙を掬ってくれた。

 ごめんなさい、とわたしが小さく言うと、彼は、気にしなくていいよ、というようにわたしの頭をポンポンした。

 面映ゆくて、照れ隠しで無理に眉間に力を入れた。


「じゃあ次、俺たちの関係について」


 弛緩しかけた心が、にわかに強張った。

 わたしの顔色から察したらしき裕也さんは、少し冷淡な目をして、


「本題に入る前に一つ決めておきたいことがある。俺たちの関係がどうあれ、親の関係には口を出すべきではないってことだ。俺たちの都合で彼女たちの人生の邪魔をするのは気が引けるだろ? お互い片親で、彼女たちには苦労を掛けてきた。ここらで幸せになってもらいたいと俺は思っている」


 わたしは項垂れるようにして顎を引いた。死刑判決の裁判みたい、と思いながら。

 死刑判決の裁判では死刑を下すと伝える主文は往々にして後回しにされる。先に言ってしまうと、判決理由を聞く余裕が被告人からなくなってしまうから。


 裕也さんは、ふと思いついた、というような調子で、


「なぁ、愛理は俺との結婚が正解だったと思うか?」


 間違ってなんかいませんでしたよ。わたしは幸せでした。

 そう言いたい心は、寂寞とした寝室の記憶が押しとどめた。一人で眠る二人用のベッドは広すぎて落ち着かない。眠れぬ夜に心の柔い所を刺す秒針の音も耳に蘇る。

 あなたの面影に抱かれるだけの日々は……ひどく虚しい。

 裕也さんは微苦笑めいた吐息を洩らすと、静かな、けれど断固とした口調で続ける。


「俺の人生の中心は仕事だ。これはもう魂レベルでそうなんだよ。誰であろうとそこに取って代わることはできない。もう一度結婚しても間違いなく同じことを繰り返す」


 心臓を握り潰されたかのような息苦しい痛みだった。何か言わなければ、と思って顔を上げても、空気を食むばかりで声にならない。

 再びうつむいたわたしに、裕也さんは尋ねる。


「以上のことを踏まえたうえで答えてほしい。愛理はどうしたい?」


 答えられない。代わりに涙が溢れてきた。膝の上で握った拳にぽたぽたと落ちる。

 それなのに、もう拭ってくれない。

 裕也さんはどこまでも平然と、平静に、冷徹に言った。


「終わりにしよう」


 いつまで経っても言葉を発せず、いい年して幼子のように泣くばかりのわたしを、裕也さんは手を引いて家まで送り届けた。

 これが手を握ってもらえる最後の瞬間なのかと思うと、胸が張り裂けそうだった。

 本当に張り裂けてしまえばいいのに。

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