第17話 旭川奪還作戦②
午前3時50分。
ロシア軍旭川基地の心臓部──司令本部。その奥深く、マリューチン大佐がいる。
アグリを先頭に、ミカ、サラ、タカノ、そして二十名余りの制圧部隊が影のように建物へと滑り込む。
防音加工の施された軍用ブーツは、コンクリートを踏む音さえ闇に溶かし、隊列は呼吸の間隔まで揃っていた。
「ここからが本番だ」
低く抑えたアグリの声が、張り詰めた空気をさらに硬直させる。
入口を固めていた二名の警備兵は、アグリとタカノのナイフが閃いた瞬間に喉を断たれ、声を上げる暇もなく崩れ落ちた。
深夜の警戒は手薄──だが、決して無人ではない。
廊下へ踏み込んだ瞬間、奥から姿を現した兵士たちが目を見開き、腰の銃を引き抜く。瞳の奥には「何者だ」という驚愕と、反射的な殺意が交錯していた。
「伏せろ!」
アグリの声と同時に、火線が唸りを上げて走る。仲間の一人が胸を撃ち抜かれ、呻く間もなく床に倒れた。
悲しみに浸る暇などない。
「銃声が漏れた!隠密は終わりだ!」
アグリの号令に応じ、隊員たちは即座に左右へ散開。二名が壁際を滑り、敵兵の側面へ短い連射を浴びせる。反撃の弾丸がミカの大腿を掠め、熱と痛みが走る。彼女は唇を噛み、血が滴るまま姿勢を崩さず、逆に引き金を引き返した。
午前3時55分。
「Вторгшийся?(侵入者か?)」
監視モニターの映像に異変を認め、マリューチンが低く呟く。
数名の将校が慌ただしく配置につき、侵入者の動きを追う。突如として司令部を襲った異常事態に、わずかだが混乱が走った。
午前3時58分。
いくつかの短く苛烈な銃撃戦を突破し、一行はついに旭川基地の心臓部──司令本部の扉前へと辿り着いた。
アグリが小さく頷く。
次の瞬間、扉は蹴破られ、激しい衝撃音が廊下に響き渡った。
部屋の中央に立っていたのは、ロシア連邦軍第六方面軍司令官、ユーリ・マリューチン大佐。
背筋を伸ばし、制服の前を整えた姿のまま、先ほどの混乱を欠片も感じさせない冷徹な視線でアグリを見据えていた。
「……ふむ。お前が指揮官というわけか」
流暢な日本語。静かで、どこか皮肉めいた口調だった。その瞳には、状況を冷徹に計算しつつも、何かを決断したようなわずかな陰がよぎる。
四十代半ば。ロシア国防省出身のエリートで、かつてはNATOとの実戦を想定する部隊にも所属した経歴を持つ。
北海道占領後は、ボルコフ中将の副官として苛烈な統制を敷き、現地住民を押さえ込んできた知性派の将校だ。
「……マリューチン。お前をここで拘束する」
互いの動きは、ほぼ同時だった。
二発の銃声が鋭く重なり、室内に反響する。
アグリの左肩に灼けるような痛みが走り、息が詰まる。視界の端が白く滲み、耳鳴りが辺りの音を遠ざけた。
右膝を撃ち抜かれたマリューチンは、苦悶の呻きを漏らして崩れ落ちる。
「マリューチンを拘束する! 援護!」
ミカの指示と同時に制圧部隊が雪崩れ込む。
3人掛かりでマリューチンを押さえつける間、司令本部の奥では数名の将校が拳銃を構え、机や書棚を倒して即席の防壁を作り、血走った目で抵抗を試みた。
銃撃戦は激烈を極めた。
数人の仲間が銃弾に倒れ、床に血を流す。
ミカは太ももの傷を押さえつつ、必死に戦い続けた。サラは腕に擦り傷を負いながらも戦線を崩さない。
弾丸が机に食い込み、木片と紙束が宙を舞った。
「右奥、二人!」
サラが叫び、腰を低くして反対側へ回り込む。ミカは机の陰にグレネードを転がし、瞬間的な閃光と衝撃が室内を白く塗りつぶした。
閃光に敵が怯んだ隙を狙い、タカノが素早く立ち上がり二発、短く引き金を引く。黒い制服の胸に穴が開き、男は後方へ吹き飛ばされた。
別の将校が机の影から半身を乗り出し、反撃の弾を連射。銃口の火花が瞬くたび、壁の石膏が粉となって飛び散り、空気が硝煙と焦げた木の匂いで満ちていく。
弾丸がミカの足元の床を削り、コンクリ片が跳ね上がった。彼女は即座に身を伏せ、床を滑るように左へ移動しながら反撃を浴びせる。
「Сволочи с Дальнего Востока…!(極東の虫けらどもめ…!)」
短い怒号とともに、最後の一人が椅子を盾に突進してきた。
だがアグリが間合いを詰め、銃をはじき飛ばして腹部に膝を叩き込み、そのまま床へと組み伏せた。
動ける敵はいない——。マリューチンを含む3名の将校の拘束に成功。
床には血と肉片が点々と広がり、散乱した書類の上にも暗赤色が滲んでいた。
その瞬間。鬼気迫る口調で、シノハラからの通信が届く。
《こちらシノハラ。司令部周辺に敵兵が集まりつつある!備えろ!こちらもすぐに救援部隊を送る!》
「急げ。次は人質作戦だ」
肩口から温かい血が流れ落ちるのを感じながら、アグリは息を荒げ、冷えた視線を外の闇へ向けた。
この作戦は、ただの制圧戦ではない。
北海道の未来そのものを揺るがす、一瞬先の動向がすべてを左右する賭けだった。
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