人事を尽くして天命を待つ
「よく持ち堪えてくれました。後は私に任せてください」
時雨の目の前に、自身よりも少し背の高い、黒いスーツを着た男が悠然と立っていた。きっちりと撫でつけたオールバックに、遊ぶように前髪をひと房だけ落とした彼は、心が穏やかになるような声色で話す。
「あなたは後ろの子供をお願いします。彼は私が」
スーツの男は
拳銃とスタンガンを手にする男を前に、常人なら固唾を飲むこの場面。しかし彼は、後ろで手を組み、余裕綽々な態度が窺えた。
「次から次へと……! へへへ、そうですね。こいつも撃ち殺してしまいましょうか」
強盗はまるで誰かと話す素振りをし、スーツの男に向かってピストルを乱射する。
雨の中、身体がこわばるような銃声が何度も鳴り響いた。
「やれやれ。考えなしですか」
「なんやねん、これ……
なんで全部、お前らに効かへんねん!」
計算でもされたのか。
発射された弾丸は全て、二人の丁度中間に転がっていた。
弾頭は潰れており、それはまるで、何かにぶつかり、撃ち落とされたようだった。
「次は、どうすればいいんでしょうか!?」
「一体、さっきから誰と話しているんですか?」
「うるさい! 天の声や。俺は天に選ばれたんや!」
スーツの男は顎に手を当て、なにやら思考を巡らせる。
「天の声……ですか。なるほど。
では、あなたの座右の銘はなんですか?」
「あ? 座右の銘? "人事を尽くして天命を待つ"や」
「やはり、そうでしたか。それがあなたの力ですね。
おそらく、事前に準備をすることで、その準備に応じ、その都度最適解が閃くのでしょう。
ですがそれは、天の声でも、あなたが天に選ばれたわけでもありません」
「違う! これは天の声や!
それに、お前……なんで、俺だけの特別な力について知ってんのや……」
銃を持つ男の手は震えていた。
森で猛獣に
ピシャリピシャリと水を踏みつける音が、二人の
スーツの男は、相対する男の動向など気にも留めず、平然と話を続けた。
相手が何をしても対処できると、絶対的な自信を帯びた堂々たる声だった。
「どうして、あなただけの力と断定するんですか?
人事を尽くすなら、自分と同じような存在がいることも考慮しなくてはいけません」
「俺と、同じ……?」
「私は考慮し、準備ができています。私と同じく、
スーツの男がそう言った瞬間――雨が
雨は
物理法則など無視して、主人からの命令を待つ忠実な犬のように、大人しく不動を貫く。
余裕に満ちた表情で、彼は更にこう続けた。
「さて、あなたはこれを凌ぐほどの人事を尽くしてきましたか?」
スーツの男は雨粒を自在に操り、弾丸のように放った。
強盗も負けじと銃で応戦する。
しかし、スーツの男は緻密なコントロールで、水滴一粒と銃弾一つを次々に相殺していく。
スーツの男が制する小さな水の塊の中には、忙しなく水流が発生していた。
その流れを自在に動かし、液体の速度や変化量を調節しているようだ。
速さが増していく水の弾丸によって、濡れたアスファルトに落ちる銃弾は、徐々に強盗のもとへと近づいていた。
カッ、カッ――弾倉にはもう、弾が残っていない。
顔面蒼白になった強盗は、落ち着きなく周囲を見渡し、起死回生の一手を探す。
しかし、そんなもの、見つかりはしない。
天とやらにすがるが、もう遅い。
「ど、どうして……俺は人事を尽くした!
あらゆる準備をしてきた。あとは、なんとでもなるはずなんや!
おい、天よ、なんとか言えよ!」
「あなたは何か勘違いしていませんか?
天命を待つとは、結果を天に委ねるということ。
必ずしもいい結果になるわけではないのです」
「へ……?」
「人事をどれだけ尽くしたか次第で、結果は大きく変わるのです。はたしてあなたは、本当にベストを尽くせていたのでしょうか?」
「なに……?」
「あなたは、自分だけが特別だと思い込んだ。
そして、考えることを放棄し、他の能力者への準備を怠った。
自分の信じた座右の銘に反した時点で、あなたの負けなんです」
話が終わるのを待つように停止していた雨粒は、強盗を襲う。
地面の水溜まりからも、重力を逆流するように、水の弾が飛び交った。
全方位から、水の弾幕が張られた。
空中で待機していた数多ある水の
残酷に、そして無慈悲に、目の前の男を穿つ。
回避不能の攻撃を防ぐ術を、男は用意できていなかった。
人事を尽くしたつもりなのだろう。
しかし、足りない。
目の前の
「なんでや、なんでなんや……!」
男は耳を塞ぎ、絶叫する。
しかしもう、彼の脳内に天の声は流れたりしない。
荒れ狂う水の弾丸により、強盗の意識もそこで途絶えた。
スーツの男は、意識を失い倒れた男に悠々と近づき、拳銃とスタンガンを回収し、手錠をかけた。
「これで、一安心です。もう、大丈夫ですよ」
そう言うと、男は優しく時雨と子供に微笑みかけた。雨に濡れ、セットが崩れても彼の魅力は落ちるどころか、むしろ増して見えた。まさに、水も滴るいい男。
戦闘後にも関わらず、息一つ切れていない彼の立ち振る舞いは紳士的で、優美であった。
(この人みたいになりたい。傷つく誰かを守る。こんな人に、俺もなりたい……!)
時雨は思わず、目の前の男に声をかけていた。
意味を失いかけていた人生に、一筋の光が差した。そんな気がした。
「助けていただき、ありがとうございました。あの、名前を、あなたの名前を教えてください!」
「
微笑みながら流師は、胸部の内ポケットからそっと出した警察手帳を、時雨と子供に見せた。
(警察の人なんや。よかった。こういうときの警察って、安心感凄いねんな)
安堵したのも束の間――流師の言葉に時雨は混乱を極めた。
「ところで、つかぬことをお伺いしますが。あなたは
「銘力者……?」
時雨は、流師の口から飛び出した得体の知れない言葉を、ただ復唱することしかできなかった。
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