涙のあとに

米月

第1話 出会い

雪の舞う季節。

 リゼフィア王国の北端、交易都市エレナの外れに、ルチアーナは暮らしていた。


 父に愛された記憶は、ほとんどない。けれど祖母の家には、ほんのり甘い香りの紅茶と、パチパチと薪がはぜる音と、窓辺に差し込む穏やかな陽光があった。


 それだけで、じゅうぶんだった。


「今日は毛糸を三束と、パンを忘れずにね。あと、オリーブの瓶が割れてなかったらひとつお願い」


「うん、任せて!」


 コートの前を留め、頬に白い息を吐きながら、ルチアーナは町へと向かった。祖母の家から市場までは徒歩で15分ほど。途中、馴染みの露店が立ち並ぶ。


「おっ、今日も来たなアナちゃん!」


「寒くなってきましたね。おじさんは風邪ひいてない?」


「はは!丈夫だけが取り柄さ! はい、毛糸三束。おばあちゃん、まだなにか編んでるのかい?」


「うん、ずっとこたつから出てこないの。ありがとう!」


 紙袋を抱え、ルチアーナはにこりと笑う。

 どこか寒さも和らいだような気がした。


 帰り道、彼女はいつものように裏道へ入る。人通りは少ないけれど、近道で、少しだけ静か。雪が舞う石畳を、コツコツとブーツの音が響く。


 ——そのときだった。


 ぴたり、と足が止まる。


 ……視線。刺さるような、強い視線。


 思わず身をすくめ、物陰へ目をやる。倉庫の裏、木箱の陰に、誰かがいた。息を潜め、じっとこちらを見ている。いや、睨んでいる。


 少年だった。ボロボロのマント、泥だらけの靴。背中には、小さな女の子を負ぶっている。少女の顔は青白く、震えてすらいない。……凍えているのだとすぐに分かった。


 ルチアーナは、動けなかった。


(どうしよう……怖い。でも、あの子、死んじゃう……)


「……大丈夫?」


 やっとの思いで、声をかけた。


 その瞬間、少年の視線が鋭くなった。氷の刃のようなまなざしがルチアーナの心臓を突き刺す。


(こ、こわい……でも……でも……)


 少女の唇は紫色に染まり、目は虚ろだった。自分でも分からないまま、ルチアーナの足は一歩、また一歩と前へ出ていた。


「……このままじゃ、妹さん……危ないよ」


 少年の眉がぴくりと動いた。


「妹……?」


「うち、すぐそこなの。暖炉もあるし、毛布も、スープも……お願い、助けさせて」


 沈黙。

 雪が降り続ける中、少年のまなざしが彼女を試すように揺れていた。


 そして、少女がかすかに咳き込んだ。


「……っ、ラナ……!」


 少年が焦りの色を滲ませたその一瞬、ルチアーナは彼の手を強く掴んだ。


「早く! ついてきて!」


ルチアーナは息を切らしながら屋敷の扉を開け、二人を中へ迎え入れた。


「こっち! 早く、暖炉の前に!」


 祖母は寝室で休んでいる時間だった。居間の暖炉には、まだくすぶる残り火がある。彼女は急いで薪をくべ、火打ち石で火を起こす。ぱちっ、ぱちっ。乾いた音が何度か鳴り、やがて炎がふわりと灯った。


 温かさがじわじわと広がっていく。


「ラナ……」


 少年は少女をそっと降ろし、火の前に寝かせる。その手はかすかに震えていた。どこか怯えた獣のように、目を見開き、すべてを拒むような空気を纏っていた。


 ルチアーナは毛布を何枚も引っ張ってきて、彼女の身体にかけた。マントの中は、想像以上に冷たく、布地は濡れていた。


「……こんなになるまで……」


 彼女は指先でラナの頬を優しく拭った。驚くほど小さくて、白くて、壊れてしまいそうなほど繊細だった。


「君……どうして助けた」


 少年が低い声で問いかけた。


「……え?」


「他人のことなんて、見て見ぬふりするやつばっかだ。なのに、君は……」


 その瞳には疑いと怒り、そして……ほんの僅かに、悲しみが滲んでいた。


「見捨てられないよ……だって、誰かが助けなきゃ、この子……」


 ルチアーナはラナの手をそっと握った。まだ冷たい。けれど、微かに指が動いた。


「——! 動いた……」


「……本当に、ありがとう」


 少年の声がわずかに震えた。


 それが、最初の“ありがとう”だった。


 しばらくして、ルチアーナがスープを運ぶと、少年は警戒しながらもそれを受け取った。ゆっくり、慎重に口に運び、喉を鳴らす。


「うまい……」


 その一言に、ルチアーナの口元が緩んだ。


「名前……聞いてもいい?」


 少年は一瞬黙り、視線を落とす。


「……レオ」


「私はルチアーナ。みんなにはアナって呼ばれてる」


 少し間を置いて、彼は口を開いた。


「……妹は、ラナ」


 名を呼ばれた少女のまぶたがぴくりと動いた。ゆっくりと、ラナが目を開けた。


「……にい、さ……む」


 レオはその小さな声に驚き、身を乗り出した。


「ラナ! しっかりしろ、ラナ……!」


 ラナはふらふらと顔を動かし、ぼんやりとルチアーナを見た。目が合う。小さな唇がかすかに動いた。


「……きれい……なひと……」


 その一言に、ルチアーナは目を見開き、顔を赤らめた。


「も、もう……そんなの……」


 レオは黙ってラナの額に手を当てた。そして、ぽつりと呟く。


「……君のおかげで、妹は生きてる。……借りができた」


「借りとかじゃないよ。助けたいって思っただけ」


「……変わった子だな、アナは」


「……レオも、ちゃんと妹を守ってて、すごいと思うよ」


 その瞬間、レオの表情が少しだけ崩れた。ほんの少し、頬が赤くなったようにも見えた。


「なっ……!」


「ふふっ」


 ルチアーナは思わず笑ってしまう。レオは顔を背けたが、どこか照れくさそうに、肩の力を抜いた。


 ラナの小さな寝息が、静かな部屋に響いていた。暖炉の火が揺れて、影を壁に映し出す。


 この出会いが、やがて運命を変えるとも知らずに——。



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