End If:「安寧(Stable)」
「またどっかのガキ拾ってきたのかよ?」
ロクショウの低い声が、金属の軋む工房に響いた。
奥では、アヤセが湯気の立つたらいの前で、少女の身体を洗っている。
「ったく犬猫じゃねぇんだから、そんなポンポン拾ってくるんじゃねぇよ。
エサ代がかかってしょうがねぇ。」
アヤセは顔を上げず、落ち着いた口調で返した。
「女性の構成員については私に一任して下さっているではないですか。
文句を言わないでください。」
「わかったわかった。」
ロクショウは頭をかき、視線を少し逸らす。
「……ちゃんと面倒見るんだぞ。」
「ええ、もちろん。」
アヤセはそう言って、少女の髪に櫛を通した。
硬い灰色の髪が、梳かれるたびにかすかな音を立てる。
背には、八本の黒い“生きた触腕”が静かに蠢いていたが、
少女はくすぐったそうに目を細めた。
「気持ちいいですか?」
「……うん。」
その返事に、アヤセはふと表情を緩めた。
その横顔は、まるで妹をあやす姉のように穏やかだった。
「名前は?」とロクショウ。
「フィーラーって呼ばれてた。」
少女がかすれた声で答える。
ロクショウは少し目を細め、煙草をくわえた。
「フィーラー、ねぇ……皮肉だな。“感じすぎる者”か。」
アヤセは少女の髪を拭きながら、静かに言った。
「なら、もう一度“感じる”ことを教えてやりましょう。」
その声は、冷たくも優しい響きを帯びていた。
***
薄い煙が立ち込め、蛍光灯が低く唸っていた。
「店の商品が、気づかれないうちに盗まれてる。
ウチの連中も見張ってたのに、誰も犯人を見た奴がいねーんです。」
下っ端の一人、カワズが情けない声を上げる。
その隣では、ドヤ街の商店主が帽子を握りしめ、うなだれていた。
「組長さん……何とか頼めませんか……?」
ロクショウは椅子の背にもたれ、ゆっくりと灰を落とした。
短く息を吐き、立ち上がる。
金属の脚が床を鳴らす。
灰皿に押し付けられた煙草が、ジッと音を立てて消えた。
「どうやら
ざわついていた空気が一瞬で静まる。
「俺とアヤセで出る。――なんとかしよう。」
その一言に、商店主は涙ぐみ、
居合わせた者たちはほっとしたように肩を下ろした。
ロクショウ直々の出動――それは地下街の者たちにとって“約束された平穏”を意味していた。
「部下を甘やかした分だけ、あなたの仕事が増えますよ。」
アヤセがフェイスガードの下から、冷ややかに言う。
「まあ、そう言ってくれるなや。
お前も事務仕事ばかりでなくて、たまには体を動かしたいだろ。」
アヤセが、マスクの下でふっと笑った気がした。
***
地下街は、昼も夜もない世界だった。
点滅を繰り返す照明、ひび割れた壁面、酸の匂いを帯びた湿気。
電線の束が天井から垂れ下がり、溶接の火花が遠くで散る。
ロクショウとアヤセが並んで進む。
周囲の商人たちは、二人の姿を見た瞬間に道を開けた。
鉛會の組長と、その右腕。
誰もがその肩書を恐れ、同時に頼っていた。
「盗みの現場はこの先です。」
アヤセが地図を閉じ、ブーツの踵で水たまりを払う。
「三日前から、複数の店で同じような被害。
どれも監視カメラには“何も映っていない”そうです。」
「“何も映ってない”、ね……」
ロクショウは眼鏡を外し、魔眼を開いた。
瞳孔が収縮し、視界の色が血のように滲み変わっていく。
通常の視界では見えない“ゆらぎ”があった。
空間がわずかに屈折し、光が歪む。
そこに、確かに“何か”が立っている。
――その瞬間、ロクショウの脳裏にノイズが走った。
###
最初は、ただの興味だった。
「透明になる」なんて、子どもの頃に観た映画みたいでさ。
まさか本当にできるなんて思わなかった。
最初は数秒。
指先が、ぼやけて消えるだけ。
仲間たちは「おおー」って笑ってくれた。
それだけで嬉しかった。
少しだけ“特別”になれた気がして。
いつの間にか、消えられる時間は伸びていった。
十秒、二十秒、一分……。
戦いでは役に立った。
みんなが驚くたびに、誇らしかった。
自分の存在が、ちゃんと意味を持ってると思ってた。
けど、ある日気づいたんだ。
私が戻っても、誰も声をかけてくれない。
話しかけても、視線が合わない。
音も、臭いも、体温すら消えているようだった。
だんだん“世界”から剥がれていった。
スキルが勝手に発動してる。
誰も、私に気づかない。
「ねえ、私ここにいるよ?」
何度も言った。
でも誰も答えない。
笑い声は続いているのに、私だけ輪の外。
まるで最初から、いなかったみたいに。
「……お前、誰だっけ?」
その言葉で、何かが壊れた。
私は走った。
泣きながら、叫びながら、誰かのカバンを掴んだ。
盗みなんて、したことなかった。
でも、そうでもしないと誰も私を見てくれなかった。
「ねえ、ここにいるんだよ……!」
声が掠れるまで叫んだ。
けれど振り返る人はいなかった。
気づけば、私は透明のまま泣いていた。
自分の涙さえ、見えなかった。
――それが、私の“はじまり”。
###
ロクショウの視界が戻る。
紅く反転した世界の中で、誰にも見えなかった女がこちらを見つめる。
「……見つけたぞ。」
その怯える瞳に、しっかりと目を合わせた。
歳は二十歳かそこらか。
(堕ちかけてるな……)
背後から、アヤセの足音が静かに近づいた。
アヤセは空気のわずかな乱れを追っている。
気配、湿度、空気の流れ――その全てを読む。
数々の武技と経験から得た“感覚”で、世界を視ていた。
「……震えていますね。寒いんですか?」
空気の向こうに問いかけるように、アヤセが言った。
微かな水滴が床に落ちる。
見えない女の頬を伝った涙だった。
「誰……あなたたち、見えるの?」
震える声が、かすかに響いた。
ロクショウはゆっくりと右腕を上げた。
金属の義手の先端が、空気の“歪み”を掴むように伸びる。
逃げる気配。
しかしその速度よりも早く、ロクショウの魔眼が軌道を読んでいた。
「悪いな。」
わずかに身を捻り、空間を掴む。
バチッ、と空気が弾ける音。
見えない腕を、確かに“掴んだ”。
「――っ!」
抵抗はない。
ただ震えるだけ。
「誰にも見られねぇなら、俺が見といてやる。」
ロクショウの声は静かだった。
怒号でも、命令でもない。
ただ、確かな重みを持つ言葉だった。
「……使ってやる。ウチに来い。」
長い沈黙。
そして、ぽつり、ぽつりと水滴が落ちた。
透明な涙が、床に跡を残す。
見えない彼女の“返事”だった。
アヤセは一歩、前に出た。
「あまり組長とくっつかないように!」
「でも……安心してください。私の気配察知からも逃れられませんよ。」
その言葉は、少し嫉妬を含みながらもどこか優しかった。
ロクショウは鼻で笑うように息を吐く。
「お前、名前は?」
「わからない。長いこと誰にも呼ばれないから、忘れちゃった。」
「そうか……」
ロクショウは少し考え、満足そうに頷いた。
「なら今日からお前は――イズナだ。」
「イズナ……」
小さく反芻するように、その名を繰り返す。
次の瞬間、空気が柔らかく震えた。
まるでその言葉が、存在の輪郭を与えたかのように。
アヤセは静かに息を吐き、
「まったく、次々と新入りを増やして……来月の食費はどうするつもりですか?」とだけ告げた。
「まあ、頑張って働くさ。
ガキども食わすのが、親の仕事ってもんだろ。」
ロクショウのカラカラとした笑い声が暗がりの街に響く
その笑い声に、地下街の商人たちは安堵の息を漏らした。
その後、イズナが“ロクショウの左腕”と呼ばれるようになるのは、また別の話。
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