第9話 炎を纏う巫女と、謎めいた訪問者

土曜日の午後8時55分。

西新宿の空は、週末の喧騒を優しく包み込むような、穏やかな藍色に染まっていた。だが、その地上の一角、E級ダンジョン【毒蛇どくじゃ巣窟そうくつ】の入り口だけは、これから始まる一つの伝説を予感させるかのように、静かな、しかしどこまでも熱い期待の空気に満ちていた。


その中心に、神楽坂しずく――もとい、佐藤結菜は立っていた。

半年間の燻りを、たった一度の配信で吹き飛ばした、シンデレラ。今や、彼女の動向は、数万の瞳によって見守られている。

彼女は、これから始まる二度目のソロダンジョン配信を前に、その小さな胸の中で、高鳴る鼓動を必死に抑えていた。

(大丈夫…大丈夫…)

彼女は、自分に言い聞かせる。

(準備は、ちゃんとしてきた。お父さんから貰った、このフラスコもある。それに…みんなが、見ていてくれる)

彼女の視線の先、ARウィンドウに表示された配信待機画面のチャット欄には、すでに数千のコメントが、温かい光の川となって流れ続けていた。


Gamer_Tetsu: 待機!

MofuMofuLover: しずくちゃん、頑張って!

炎の求道者: 我が魂のビルド、ライチェスファイアー!その輝きを、世界に見せつけてやれ!

US_Fan_Bob: (自動翻訳) Go, Shizuku-chan! We're all watching from America!(「頑張れ、しずくちゃん! アメリカからみんなで見てるよ!」)


その、国境を越えた温かい声援。

それに、結菜の心に、確かな勇気が灯った。

彼女が、深呼吸を一つして、配信開始のボタンを押そうとした、まさにその時だった。

一つの、涼やかな、しかしどこまでもよく通る声が、彼女の鼓膜を、優しく揺らした。


「――やあ。しずくちゃん、だよね?」


結菜は、はっとしたように振り返った。

そこに立っていたのは、一人の、あまりにも美しい青年だった。

月光をそのまま編み込んだかのような、流れるような銀髪。その身を包んでいるのは、どこかのトップギルドの特注品であろう、機能美と気品を兼ね備えた、白銀の軽鎧。そして何よりも、その顔立ち。まるで、古の彫刻家が、その魂の全てを込めて削り出したかのような、完璧な造形。だが、その青い瞳の奥には、遊び人のような軽やかさと、全てを見透かすかのような、鋭い知性が、同居していた。

イケメン。

その、あまりにも陳腐な言葉でしか形容できないほどの、完璧なイケメン。

彼は、その完璧な顔に、人懐っこい笑みを浮かべて、続けた。


「配信、見てるよ」


その、あまりにもストレートな、そしてどこまでも心臓に悪い一言。

それに、結菜の思考が、完全に停止した。

(うわー…!)

彼女の心の中は、二つの全く相反する感情の嵐が吹き荒れていた。

(ついに、私にも追っかけが…!)

それは、これまで経験したことのない、スターダムへの階段を上り始めた者だけが味わう、わずかな優越感と、そしてそれ以上に大きな、面倒くささだった。

(少し、鬱陶しいかも…)

だが、その感情の、さらにその奥深くで。

これまで、誰にも見向きもされなかった彼女の、その承認欲求の化身が、小さな、しかし確かな喜びの声を上げていた。

(…でも、嬉しい…かも…)


彼女は、その内なる葛藤を、完璧なポーカーフェイス(彼女自身はそう思っているが、実際は顔が真っ赤になっていた)の裏に隠しながら、できるだけ平静を装って、答えた。

「…なんですか?」

その、あまりにも素っ気ない、しかしどこまでも動揺が隠しきれていない返事。

それに、青年はくすりと、楽しそうに笑った。


「いやー、配信見てたら、心配になってね」

彼は、その青い瞳で、結菜の、その華奢な体を見つめた。

「E級とはいえ、毒蛇の巣窟は危険だ。君のような、可愛らしいお嬢さんが、一人で挑むには、少しばかり荷が重いんじゃないかと思ってね。良かったら、一緒にどう?俺が、君をエスコートしてあげるよ」

その、あまりにも紳士的で、そしてどこまでも甘い誘いの言葉。

それに、結菜の心臓が、大きく跳ねた。

だが、彼女の、その警戒心もまた、同時に最大レベルまで引き上げられていた。

(…うさんくさい…!)

彼女は、その本能的な判断に従った。


「うーん…。嬉しいですけど…」

彼女は、おずおずと、しかしきっぱりと、その誘いを断った。

「男の人って、お父さん以外は、苦手なんですよね…。貴方は、不思議と特に苦手って感じはしませんが…でも、ごめんなさい」

その、あまりにも不器用な、しかしどこまでも真摯な、拒絶の言葉。

それに、青年は、その美しい顔に、一瞬だけ、純粋な驚きの色を浮かべた。

そして、次の瞬間。

彼は、腹を抱えて、笑い出した。


「はっはっは!面白い!面白いな、君は!」

彼は、涙を拭いながら言った。

「そうか、そうか。親父さん以外は、苦手、ね。なるほど、なるほど」

彼は、何かを深く納得したかのように、一人で頷いていた。

「うーん、残念だね。まあ、いいや」

彼は、その笑いを収めると、最高の、そしてどこまでも爽やかな笑顔で、言った。

「配信、頑張ってね。応援してるよ」

彼は、そう言うと、ひらりと手を振り、まるで最初からそこにいなかったかのように、人混みの中へと、その姿を消していった。


後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその中心で、ただ呆然と立ち尽くす、一人の少女だけだった。

「…うーん、何なんでしょうね、あの人…」

彼女は、そのあまりにも奇妙な、そしてどこまでも印象的な出会いに、首を傾げた。

だが、彼女はすぐに、その思考を切り替えた。

そうだ。

今は、目の前の冒険に集中しなければ。


「――じゃあ、配信しますか!」

彼女は、気を取り直して、配信開始のボタンを、今度こそ、力強くタップした。



「皆さん、こんばんはー!神楽坂しずくです!お待たせしました!」

彼女の、そのいつもより数段張りのある声が、数万人の視聴者の鼓膜を揺らす。

「今日は、E級ダンジョン【毒蛇どくじゃ巣窟そうくつ】に、挑戦します!」

その宣言と共に、彼女はダンジョンの入り口へと、その一歩を踏み出した。

そして、彼女はその魂に宿る、神の賽銭箱へと、祈りを捧げた。

ミラクルポイントが、消費される。

彼女の、その雅な巫女装束が、まばゆい炎の光に包まれた。

光が収まった時。

そこに立っていたのは、もはやただの巫女ではない。

炎そのものを編み上げて作られたかのような、深紅と漆黒の、美しいゴシックドレスをその身にまとった、炎の魔女だった。

そして、その彼女の足元を中心として、半径2メートルの空間が、陽炎のように揺らめき始めた。聖なる炎のオーラ、ライチェスファイアー。

その、あまりにも神々しい光景。

それに、コメント欄は、熱狂した。


うおおおおおおおおお!炎の魔女、降臨!

今日も、美しい…!


彼女は、その熱狂をBGMに、ダンジョンの奥深くへと、その歩みを進めていく。

そこは、彼女がこれまで経験したことのない、陰湿な世界だった。

湿った壁からは、絶えず毒々しい緑色の液体が染み出し、空気中には、甘く、しかしどこかむせ返るような腐敗臭が漂っている。

その、闇の中から。

シュルシュルと、無数の、鱗が擦れる音。

そして、赤い舌をチロチロとさせながら、十数体の、禍々しい紫色の紋様を持つコブラたちが、その姿を現した。

彼らが、その牙から、毒の霧を吐き出した、その瞬間。

結菜は、その腰に差していた、一つのフラスコを、呷った。

アメジストのフラスコ。

父から譲り受けた、御守り。

彼女の全身を、淡い紫色の光が包み込む。

混沌耐性が、上昇する。

毒の霧は、彼女の体を包み込むが、そのHPバーは、びくともしない。

そして、彼女は、その毒の海の中を、まるで散歩でもするかのように、悠然と歩いていく。

彼女に近づこうとする、全ての蛇たちは、その身に纏うライチェスファイアーの聖なる炎に焼かれ、悲鳴を上げる間もなく、その存在を消滅させていった。

無双だった。

あまりにも、一方的な蹂躙劇。


しずくちゃん強い!!!

毒、効いてねえ!

なんだこれ!歩いてるだけじゃねえか!


コメント欄が、そのあまりにも圧倒的な光景に、埋め尽くされる。

「えへへ、ありがとうございます!」

結菜は、その声援に、はにかみながら答えた。

そして、その蹂躙劇の、最後に。

彼女の全身を、黄金の光が包み込んだ。


【LEVEL UP! Lv.8 → Lv.9】


「あっ、レベル上がりました!」

彼女は、自分のことのように嬉しそうに、その成長を報告した。

その、あまりにも穏やかで、そしてどこまでも力強い、新たな英雄の誕生。

それを、世界の、全ての人間が、ただ固唾を飲んで、見守っていた。

彼女の、本当の物語が、今、始まった。

その、あまりにも壮大で、そしてどこまでも予測不能な、神々の悪戯のような物語が。

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