9-2

 翌日、七月七日月曜日。

 七夕の今日、沈み切った気持ちで登校した私を見て、クラスメイトたちはぎょっと目を丸くしていた。特に、斜め前の席に座る山上さんはポニーテールをぴょんと跳ねさせて、憔悴し切った様子の私に驚いているようだった。


 瑠伊は今日も保健室に登校しているのだろうか。と考えて、ふと思考が止まる。

 違うよね。まだ入院中だよね。

 昨日目覚めたばかりだもん。退院している可能性もあるけれど、彼の頭に巻かれた包帯の感じからして、もう少し入院するのが妥当な気がする。

 それに、もし保健室に来ているのだとしても、保健室には行けない。

 私はもう瑠伊にとって友達じゃないから。

 気軽に訪ねることができていた保健室が、遠い彼方の惑星のように感じられた。


 授業が始まってからも、一分一秒が長く、退屈で仕方がない。

 現代文の先生に当てられて、答えに窮した。小説の授業だった。「先週の金曜日に教えたでしょう?」と睨まれたけれど、分からない。習っているはずの小説の内容を答えられない私に、先生は「はあ」とこれみよがしに大きく息を吐く。


「綿雪さん。あなた、今日の課題に作文を追加します。今日のところまで復習して、感じたことを書いてきてください」


 周囲から「うわあ〜」と私を憐れむ声が聞こえる。きっとこれまでの自分だったら、また一つ失われてしまった過去の記憶を思い嘆いていただろう。けれど、今はそんなことよりも瑠伊のことが気になって、先生の小言さえ右耳から左耳へと流れていく。

 


 そうして一週間、何もせず海中を彷徨うクラゲのようにふわふわと過ごした。

 自分が、実態のない魂だけの存在になったような気分だ。

 記憶のかけらは毎日少しずつ失われているというのに、今の私にはひどく他人事のようにさえ感じられた。頭の中に流れ込んでくる未来の記憶も、何もかもどうでもいい。向井さんがまた私に「最低」と言うビジョンまで見えたけれど、確かに今の私は最低だなとさえ思う。

 つまるところ私は、逃げていたのだ。

 瑠伊に会うことも、短歌をつくることも。

 瑠伊の中から自分の記憶がなくなって、生きる屍のように宙を漂うようにただ息をしているだけ。そんな私のもとに、緊張感の滲む表情をした向井さんがやってくる。七月十四日の昼休みのことだ。


「あんたさ、いい加減その辛気臭い顔、やめたら?」


 いきなり喧嘩を売るような口調で睨みつけてきた。今や彼女がいちばん瑠伊の近くにいると知っているから、余計にむしゃくしゃした。


「……ひどい悪口じゃん」


「陰口じゃないだけマシでしょ」


「どっちも一緒だよ。どっちにしろ傷つく」


「そう。でもさ、今いちばん傷ついてるのは誰なんだろうね?」


「……どういう意味?」


 ふと彼女の顔をじっと見つめると、唇が震えているのが分かった。

 いちばん傷ついているのは誰なんだろうね。

 彼女の言葉の意味を考える。

 瑠伊が私の記憶を忘れて、少なくとも私は傷ついたし、寂しいし、悲しい。だけど向井さんが言うのはきっと私のことじゃない。


「ずっと逃げるつもり? 瑠伊から逃げて、瑠伊と出会ったことをなかったことにするの?」


 挑発的な言葉の裏には、どういうわけか悲しみが滲んでいるように見えてはっとする。

 なんで向井さんがそんなに寂しそうなの……? 

 彼女が入院中の瑠伊と会ったのだろうか。きっと会ったんだろうな。中学時代の記憶が戻っている瑠伊とどんな会話をしたの? 瑠伊は向井さんから告白されて振ったことも思い出したと思う。だったら、気まずくなったりしたんだろうか。

 だけどさ、たとえ気まずくても、存在ごと忘れ去られた私よりずっとましじゃない?


「向井さんには分からないよ。忘れられる恐怖も、記憶がなくなってしまう恐怖も。あなたはずっと瑠伊の心の中にいたでしょう……? 中学の頃の記憶が瑠伊の中から消えても、小学生の頃のあなたの記憶はあったんでしょう? 私は……私はもう、瑠伊にとって何者でもないの」


 言いながら、胸の中で大粒の雨が降っていることに気づいた。

 出会ったことをなかったことになんて、したくない。

 私には瑠伊しかいない。優奈だって失って、友達と呼べる存在は彼しかいなかった。それなのに、瑠伊の中からも私が消えてしまった。そして今度は私の中から、彼と共に過ごした思い出がゆっくりと失われていく。

 そうしたらもう、私は瑠伊と完全な赤の他人になってしまう。


「何者でもないなんて、そんなの本人に聞いてみないと分からないじゃない。瑠伊は、あなたにもう一度会いたいって言ってた」


 湿り気を帯びた彼女の声が耳に響き渡る。教室の中で、まるで私と彼女しかいないみたいに、周りの音が聞こえなくなった。


「なんで……?」


 なんで瑠伊は、私のことを忘れたのに、私に会いたいなんて言うんだろう。

 不可解すぎて、彼女の瞳をじっと見つめる。向井さんが嘘をついていないかどうか確かめたかった。ふるりと瞳を揺らして悔しさや悲しみを噛み殺したような視線を向ける彼女は決して嘘なんかついていない。はっきりと理解した。


「さあ、本人に聞いてみたら? 私は教えたからね。あとはどうするか、あなた次第」


 捨て台詞のように言葉を置き残して、自分の席へと戻っていく彼女。

 その背中を見てようやく気づいた。

 これが、向井さんなりのやさしさなんだ……。

 彼女の後ろ姿はとても小さく見える。もしかしたら、泣いているのかもしれない。向井さんは瑠伊のことが本当に好きなんだ。だから、記憶を失ってもなお、私に会いたいと言う瑠伊を見てどんな気持ちになったか、想像できる。

 

「私は……」

 

 目を閉じて、瑠伊の顔を思い浮かべる。

 笑った顔。 

 泣いている顔。

 真剣に私の話を聞いてくれる時の顔。

 ぜんぶ、まだちゃんと私の記憶の中にある。

 彼と遊びに出かけた潮風園芸公園の風景を思い浮かべる。

 海風に揺れるユリの花が綺麗で、ずっと眺めていたいと思った。


 瑠伊に会いたい。

 たとえ彼の記憶から私が消えていても、私の記憶から彼は消えていない。

 だったら、もう一度瑠伊と友達になればいい。 

 自分でも分からないけれど、前向きな気持ちが湧き上がる。

 そっと向井さんの方を見て、瑠伊の気持ちを伝えてくれた彼女に心の中で感謝した。


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