第八章 きみだけが消えていく

8-1

「夕映」


 母が私を呼ぶ声に、遠ざかりかけた意識がふっと戻ってくる。

 静まり返る手術室の前の長椅子に腰掛けていた私の肩を、母が揺さぶっていた。父も一緒で、二人は心配そうな表情を浮かべつつ、娘の私が無事であることにいくらかほっとしているようだった。

 救急車で病院に運ばれたあと、私は右足を打撲していたのでそこだけ治療してもらった。その後、瑠伊が手術室に運び込まれてから、運転手の男性は救急隊員に事情を説明したあとに帰宅した。私はそのまま、瑠伊のことが心配でずっとこうやって待っている。

 そこに、両親が迎えに来てくれたわけだ。


「夕映、今日のところはもう帰ろう。病院からも、これ以上いてもらっても困るって言われとるけん。心配ならまた明日来よう」


 父がもっともなことを言う。今、たぶん時刻は夜十一時を回っている。帰らなくちゃいけないことは分かっている。でも、“手術中”のランプはいまだに消える気配がない。瑠伊の声を……せめて、彼の紺碧色の瞳を見るまでは、帰りたくない。

 私は、ふるふると首を横に振った。

 涙はとうの昔に枯れてしまって、あふれさせるほど、身体に水分が残っていないような感覚に陥る。


「夕映、聞きんしゃい」


 頑なにその場から動かない私に、母が言い聞かせるように口を開く。


「あなたがいま、ここで何をしても、手術の結果は変わらんと。悔しいと思うけれど、仕方のないことよ。だからいまは、あなたがちゃんと身体を休めるほうが大事。じゃないと、いま手術で頑張ってるお友達——瑠伊くんっていうんでしょう? 彼が、悲しむわよ。あなたのことを助けたのに、あなたが身体壊したら元も子もないじゃない」


 ふっと頬を緩めてやさしく微笑みながら、しっかりと私の目を見て諭すように言う。

 確かにそうかもしれない。

 瑠伊は私を守ってくれたのだ。なんであの時、彼が私の家の前にいたのか分からないけれど。私が最近ずっと瑠伊と会わずにいたから、心配して様子を見に来てくれたのかもしれない。

 そこでふと疑問が生まれる。

 私は、母の顔をじっと見つめて問う。

 

「お母さん……なんで、瑠伊のこと」


 以前瑠伊とデートに出かけた際に、瑠伊の名前は出していない。「友達と遊びに行く」としか話していないのに、どうして母は瑠伊のことを知っているのだろう。


「ふふ、親はね、子どものことなら大抵なんでも知ってるのよ」


「えー……」


 意味深に笑う母だったけれど、なんとなく察しはついた。

 さっき、うたた寝をしている間に私のスマホを見たんだろう。ホーム画面にロックをかけていないから、誰でも見ることができる。そこで瑠伊の名前を見つけて、男友達がいると知ったんだろう。いま手術をしている少年が海藤瑠伊であることも、病院から聞いたに違いない。


「さっきね、その瑠伊くんのご両親らしき人たちが来てたわ。いま病院側から説明を受けてると思う。だから瑠伊くんのことはご家族の方に任せて、私たちは帰りましょう」


 瑠伊の両親が……。

 きっと二人は私のことを恨むだろう。大事な息子にひどい怪我を負わせた張本人。赤信号を突っ込んできた車が悪いとはいえ、私がいなければ瑠伊は事故に遭うこともなかった。二人に会って、どんなふうに振る舞えばよいか、分からない。

 自分が本当に大変なことをしでかしてしまったんじゃないかと思って、身震いした。

 そんな私の肩を母は抱きしめて、三人で病院を後にした。




 翌日の目覚めは最悪だった。

 昨日遅くまで病院にいて、帰ってからも瑠伊のことが気がかりでほとんど寝付けなかった。幸い今日は土曜日なので、お昼前まで寝ることはできたけれど、いつにも増して頭が痛い。

 きっとまた、何かの記憶が消えてしまったんだろうな……。

 いつ、どんな記憶が消えてしまったのか、一人では認識することができない。でも、少なくとも昨日、めぐや智子ちゃんたちと会って、瑠伊が事故に遭ったことは覚えている。

 忘れたいと思う記憶ほど、忘れられないものだなー……。

 人間、そう都合よくつくられてはいない。だからこそ、人間関係や病気のことで頭を悩ませたり、気が塞ぎ込んだりする。瑠伊と出会って前を向き始めていた気持ちが後退するようで、悲しかった。


 瑠伊はどうなったのだろうか。

 手術は成功したの? 

 念のためスマホを確認してみたけれど、瑠伊からLINEは来ていない。

 部屋を飛び出して、お昼ご飯の準備をしている母に尋ねた。


「瑠伊は!? どうなったか知らない?」


「それが、病院からは何も連絡がないのよ。私たちは瑠伊くんの家族でも、親同士が知り合いでもないから……」


「……」


 よくよく考えてみればそうだ。病院側は私たちに瑠伊のことを伝える義務がない。

 瑠伊の家族からすれば私たちは赤の他人。瑠伊が私を守って車に轢かれたことすら知らないかもしれない。知っていたとしたら、やっぱり私を恨んでいるかも……。

 それならば私はどうやって瑠伊の安否を知ればいいんだろう。

 

 途方に暮れながらお昼ご飯を食べる。テレビではお昼のニュースが流れていたが、そこで昨日の事故のニュースは出てこなかった。単にタイミングが悪かっただけかもしれない。とにかくなんでもいいから情報がほしい。でも私には知る術がない……。

 自分の無力さを思い知る。こんな気持ちになったのは、優奈を亡くしたとき以来だ。


 意気消沈しながら昼食を食べ終えて部屋に戻るも、何もやる気が起きない。学校の課題でも済ませておけばいいのに、参考書を広げる気にならなかった。ただ時計の秒針が動くのをぼんやりと見つめるだけで時間が過ぎていく。一瞬のようにも、永遠のようにも感じられた。

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