3-2

 翌日の朝は昨日の昼間と同じように雨が降っていた。

 梅雨だから仕方ない。湿気でパサパサになる髪の毛を鬱陶しく思いながら、心臓がきゅっと引き締まるような思いで身支度をしていた。

 今日も、夢を見た。

 優奈と手をつないで海辺を歩いている夢だ。かつて二人で歩いた日本海を臨む海岸が懐かしい。もう、地元のあの場所に戻ることはないのだと思うと、潮風が目に沁みたいに胸が痛かった。

今日は何を忘れたんだろう……。

 目が覚めると一日ひとつ、大事な思い出を忘れている。

 けれど、何を忘れているのか自覚できる日もあれば、自覚できない日もあった。

 誰かに「この間さ……」と過去の話を振られてようやく、その記憶がないことに気づく。自分では自覚できないことのほうが圧倒的に多かった。


「夕映―、もう行くよー」


 一階から母が私を呼んでいる。「はあい」と返事をして下へ降りると、父と母が揃って神妙な面持ちで待ってくれていた。


「じゃあ、行くか」


 父の一声で、家族みんなで家を出て車に乗り込む。何も、全員で行くことはないのかもしれないけれど、二人は私の症状について、医者の話を生で聞きたいようだった。その気持ちが今の私にとっては嬉しかった。

 後部座席で、瑠伊にLINEでメッセージを送る。


【今から病院に行くことになりました。結果について、また報告するね】


 出会って間もないけれど、背中を押してくれたのは紛れもなく瑠伊だから。彼にはすべてを話す義務があると思ってる。



 私たちが向かったのは脳神経内科だ。昨日、母がどの科の病院に行けばいいか、調べてくれたらしい。

 自宅の近くにはなかなか病院がなくて、車を走らせること二十分。くねくねと山道を登って降りて街に出ると、総合病院ほど大きくはないが、それなりに大きな病院にたどり着いた。看板には「脳神経内科」と「精神科」「心療内科」の文字が並んでいる。


 さっそく受付を済ませると、少し待ってから名前を呼ばれた。

 親子で診察室へ入ると、五十代ぐらいの男性の医者が「こんにちは」とにこやかな笑みを浮かべて迎えてくれた。医者ってなんだかお堅いイメージがあったけれど、この病院は違うみたい。精神科もあるし、優しい先生が多いのかもしれない。


「こんにちは」


 三人で挨拶をして、言われるがままに椅子に腰掛ける。久しぶりの病院だったので、私は自然と身体が固くなっていた。


「今日はどうされましたか?」


 それでも、柔和な表情で私から症状について聞き出そうとする医者に、自分の症状を訥々と語ってみせた。


「なるほど……夜眠ると過去の一部の記憶が消えて、未来の記憶が見える、と」


 医者が眉をひそめて、じっくりと症状について考えているのが分かった。私は、父と母と一緒にごくりと生唾を飲み込む。

 こんな症状、普通はないよね。

 きっとお医者さんも、今までに聞いたことのない症例を聞いて悩んでいるに違いない。


「私も、初めて聞いた症状ですね。過去の記憶が消えるのは解離性健忘の可能性があります。ただ、未来の記憶が見えるというのが……うーん。おそらく、ストレスやトラウマが関係しているのでしょう。これから一つずつ、検査をしますがよろしいでしょうか?」


「は、はい」

 

 ちらりと横目で二人を見ると、母と父が心配そうな目で私を見ていた。安心させるように頷く。

大丈夫、検査、ちゃんと受けるよ。


「それではまずは問診から。夕映さん、症状が出始めたのはいつ頃からでしょうか?」


「えっと、確か、こっちに引っ越してきたからです。あ、この四月に、福岡から引っ越してきたんです」


「ほう。それは転勤か何かですか?」

 

「それは……」


 答えに窮した。だって、両親からは「転勤」と伝えられていたけれど、本当は転勤が理由ではないことぐらい知っている。

 隣に座っていた母が、「じつは」と私を見ながら観念したように答える。


「転勤ではなく、福岡にいたときに被災しまして……。夕映にとってショックな出来事だったので、心機一転新しい土地で生活しようという話になりました。ここを選んだのは、昔主人と一緒に旅行に来た時に一目惚れした街だったからです。自然豊かな真白湖の風景に、夕映の心が癒えてくれるんじゃないかって思って」


 母の言葉に、私は心の中で「やっぱり」とつぶやく。

 父も、真剣なまなざしのまま、医者のほうを見つめている。

 お母さんもお父さんも、私のことを気遣って引っ越してくれたんだ。

 二人にも大事な仕事があったはずなのに。実際母は前の職場を辞めて、引っ越し先で新しい仕事に就いた。父は上司に頼み込んだのか、同じ会社の、別の支社に異動している。

 ぜんぶ、私のために。

 

「そういうことでしたか。あの地震で被災されていたんですね。それは、さぞおつらかったでしょう……」


 私たち家族をいたわるように眉を下げて言う医者に、三人で小さく頭を下げた。


「夕映さん。思い出すのはつらいかもしれませんが、あなたの記憶障害に、その震災が関係しているかもしれません。念のためお聞きしますが、ほかに何か心当たりはありますか? 震災以外で、記憶障害が起こり始めた時にショックだったことは」


「いえ……ありません。あの地震が、私にとって人生でいちばん悲しいことでした」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る