第3話

中村悠斗は、区議を務める母と医師の父の間に生まれた。


恵まれた家庭環境の中、育った彼は、やがて進学塾に通い始めた。


その頃から、将来のレールを目の前にコトリと置かれた気がする。父と同じ医師になる道だ。


悠斗は初めて気づかされた――この家に生まれた人間には、それに見合う役割が課せられているのだと。


そこに悠斗自身の意思が介在する余地など、まるでなかった。


部屋に置かれた、零戦の飛行機の模型には、うっすらと埃がつもり、彼の夢はそこに置き去られた。


もし母である彩花に、自分の夢を打ち明けたなら、この一見穏やかに見える家庭に、激しい嵐が吹き荒れるだろう。


それを誰よりもよく知っているのは、他ならぬ悠斗自身であった。


かつての彼は成績優秀で、将来を嘱望される少年だった。


だが、それはこの町に引っ越してくる前の話にすぎない。


引っ越してからの成績は、悪くはないものの、上位の座からはすっかり転げ落ちていた。


その原因を、悠斗は誰よりもはっきりと理解していた。


この町で出会った友人たち――翔太、隼人、拓海――と遊び呆ける日々が増え、塾も頻繁にサボるようになっていたのだ。


母親にその事実が知れるのは、時間の問題に思えた。


家に帰るたび、玄関のドアをそっと開け、母親の表情を盗み見る。


――ああ、今日もまだバレていない――そんな安堵の息をつきながら、


母親の彩花が求める「完璧な息子」の仮面を被り続けた。しかし彼の精神は確実に軋んでいった。


それを、友人との絆だけが、彼の心が砕け散るのを、辛うじて押しとどめている。


脆いながらも、彼には頼もしい存在であり、彼らとの喧噪に満ちた時間は、彼に心の痛みを唯一、忘れさせた。


彼らと連れ立って街を徘徊し、無意味な遊びと、笑い声に包まれた日々が続くと、


足を運ばなくなった塾のことなど、ぼんやりと、遠い記憶のように感じられた。


だが、その秘密が母親の耳に届くのも、最早、時間の問題であろうと、どこかで予感しつつも、


それに対して、何の一手も打てないほどに、彼の心は自暴自棄に傾きかけている。


むしろ、この友人との時間こそが、彼の心が完全に折れてしまわないための、儚い支えとなっていた。


矛盾の迷路である。悠斗一人では、最早そこからは抜け出せない状態であった。


その日、いつも以上に彼らとの会話が弾み、笑い声が途切れぬまま、悠斗は時の流れを見失った。


ふと我に返った時には、既に塾が終わる時刻を大幅に過ぎ、動揺した彼は友人との別れもおざなりに、


家へと突然、走り出した。背中に、友人の声を聞きながら、胸に冷たい不安が広がっていく。


悠斗は恐る恐る、家の玄関へと足を踏み入れた。


そこに立っていたのは、母親だった。ただし、悠斗の予想に反して、


母の顔には怒りよりも深い冷たさが宿り、感情を覆い尽くすような静けさが漂っている。


「遅すぎるから心配して、塾に電話したのよ。でも、あなた、最近行ってなかったんだってね」


その声は抑揚を欠き、まるで人工物のようであった。


「私と主人の子なんだから、ちゃんと分かっているものだと思ったけれど…あなたには、重荷だったのかしら?


塾にすら通えないだなんて、私が期待しすぎたのね」


予想していた激しい叱責とは異なり、母の言葉は静かに彼を切り裂いた。


それは怒りではなく、まるで彼を見限ったかのような冷淡さだった。


その日から、悠斗は真面目に塾に通い始めた。


だが、一度落ち込んだ成績は簡単には戻らず、むしろ坂道を転がるように悪化していった。


母親は区議の仕事に忙殺されているのだろう。


あの日以来、彼女との会話はめっきりと減り、それが仕事のせいか、それとも彼を見放した結果なのか、悠斗には判断がつかなかった。


ただ一つ確かなのは、母親に嫌われたくないという思いだけだった。


彼は必死に勉強に打ち込み、成績を上げることだけを考えた。


しかし、ある日、帰宅した彼を待っていたのは異様な光景だった。


部屋からゲーム機が、テレビが、そして何よりも大切にしていた飛行機の模型


――夢の象徴だったあの小さな機体さえも、跡形もなく消えていた。


呆然と立ち尽くす悠斗の胸に、空虚な風が吹き抜けた。

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