第八話 千春さんに会いに行く

『千春さんとお話したいです。月曜日のお昼、お時間大丈夫ならお家に伺っていいですか?』

 私は、数週間振りに千春さんにメッセージを送った。

 返信は遅かったが、OKがもらえたことに安堵した。


 呼び鈴を鳴らすと、ドアホンから千春さんの返事が聞こえて、ゆっくりと扉が開かれた。

「千春さん、こんにちは」

「……こんにちは。どうぞ上がってください」

 久しぶりの対面に、何となく気恥ずかしいのと、どう対応していいか分からず黙ってしまう。千春さんも、あまり目を合わせてくれず、元気がない。

 千春さんの家には、夏休みに訪れたことがある。彼女は今、実家にご両親と一緒に住んでいる。リビングであおいちゃんや百香さん、ご両親も含めてお食事会をしたことがあった。

「両親は出かけてますが、母は買い物からすぐ帰ってくると思います。でもわたしの部屋とかは……あんまり良くないですかね?」

「うん? 良いと思うけど……」

「じゃ、じゃあ……こちらに」

 少し照れて、千春さんの部屋に案内してくれた。中を見られるのが恥ずかしいのだろうか。


 千春さんの部屋には、初めて入った。

「座っててください。お茶でも持ってきます」

 ローテーブルの横にある座布団に座り、周りを見回した。全体的に整ってはいるが、『実家の部屋』らしさを感じる。

 使い込まれた勉強机の上には、化粧品やスキンケア用品が並んでいる。隣には学生時代から使っていそうな少し塗装のはげたアクセサリーボックス。

 側の壁に貼ってある写真は、高校生のときのものか。吹奏楽部だったようで、トランペットを持って写っている何人かの女子高校生のうちの一人が千春さんだ。明るい笑顔は、当時から変わらないようだ。

 部屋の反対側、ベッドの上にはくたびれたダッフィーのぬいぐるみ。子供の頃から持っているものだろう。横の棚には、旅行のお土産や小物などが所狭しと敷き詰められている。

 ここは大人になった千春さんの部屋だけど、子供の頃の千春さんが過ごした部屋でもある。そんな時間の積み重ねが、今の千春さんを形作ってきたという事実に想いを馳せた。

「あのー」

 いつのまにかお茶を持って戻ってきた千春さんが抗議する。

「あんまり色々見られると恥ずかしいんですけど」

「ご、ごめんなさい、つい……」

 千春さんは、お盆からローテーブルにお茶のグラスを置いて、もう一つの座布団に座った。千春さんと私は同時にコップを取り、一口飲んで置き直す動作までがシンクロした。

 今日は私から誘ったんだから、私から切り出さないと……。私は、深く息を吸って千春さんの目を見た。

「ちゃんと、お話しようと思って」

 千春さんの目が見開かれ、少し目線を落とした。――怖がられてる?

「千春さん、ごめんなさい」

 千春さんの肩がピクリと反応して、目を瞑った。私は続ける。

「あのとき千春さんの言葉を聞くまで、私、何も分かってなかった。千春さんの気持ちを分かってあげられると思い上がってた。でも、やっと分かった。千春さんはずっと辛かったんだね」

 『結局は男と結婚した人じゃないですか!』そんなことを言わせてしまって、私はようやく理解できた。いや、『』ということを理解したのだ。私には、千春さんの気持ちを分かってあげることなんかできない。でも――。

「私にできることは少ないかもしれない。でも私は……千春さんのことを、肯定するよ。精一杯、受け止めようと思う。だからぶつけてきてください。千春さんの思いを」

 辛い気持ち。悲しい気持ち。憤り。無力感。どんな気持ちでもいい。千春さんのマイナスの感情を、ただただ受け止める。それが私にできるかもしれない、数少ないことだと思った。

「え……え?」

 千春さんは顔を上げ、呆気に取られたように私の顔をじっと見る。お互いに目を見合わせた。震える声で、

「いいん……ですか? わたしの思い……受け止めてくれるんですか……?」

 私は頷いた。

「でも……結ちゃんとかいるし……」

「結はいるけど? 千春さんのことを大事に思うのはおかしい?」

 どうして結が出てくるのかよくわからなかったけど、私は千春さんに気持ちを伝えた。

「嘘だ……嘘ですよね? ゆーなさん、わたしのこと、ほんとは気持ち悪いって思ってるんじゃないですか……?」

 千春さんは、また目を逸らした。彼女はこれまで同性愛者として生きてくる中で、そんなに疑心暗鬼になってしまったということだろうか。

「そんなわけない。大丈夫だよ千春さん。私は味方だから。あなたの気持ちを知りたい」

 千春さんは目に涙を溜めて、抱きついてきた。

「ゆーなさんっ……!」

「ちょっ……」

 甘い香りがふわりと舞う。耳元で震える声がささやく。

「ありがとうございます……」

 驚いたが、私はすべて受け止めると言ったばかりだ。きっと、ずっと不安だったのだろう。自分が否定されることへの不安。私には理解できない。でも、他人には理解できないからこそ誰かが支えないといけない。私は千春さんの支えになりたい。本当は、社会全体が受け入れられる状態になるのが一番良いが、それが果たされていないのは私達マジョリティの責任だ。

 千春さんの細い身体に手を回し、背中をさする。子供扱いするわけではないけど、今は甘えさせてやろう。


「わたし、ゆーなさんを好きでいていいんですね……」


 ――ん? 何かがおかしい。

 私は頭がついていかなかった。好きって何のことだろう?

 固まる私から、そっと身を起こす千春さん。顔同士が正面から向き合って、息がかかりそうな距離に近づく。潤んだ目はせつなげに見つめてきて、頬は紅潮している。

「わたし、幸せです。……いいんですよね?」

「え? あ、うん……?」

 何が起きているのか、何を聞かれているのかもよく分からないままに曖昧に返事をした。すると――。

 千春さんの顔がさらに近づき、小さい口が開かれる。

 ぷるぷるの何かが、私の唇に触れた。

 キス。これはキスだ。千春さんが、私にキスをした。

 ――ど、どうしてこんなことに!?

 しばらくして口を離した千春さんは、泣きそうな笑顔で再び私の目を見つめた。

「よろしく、お願いします」

 よろしくって、何を……!?

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