第21話


「もういいわ。怒っても仕方ないもの」

 

 そう言って、母上は勢いで立ち上がって転がした椅子を戻して、座り直した。

 言い返してやる気満々だったが、深くため息をつく母上の姿に僕の勢いも削がれてしまった。

 僕は母上の怒った姿を見たことがいままでなかった。

 アレックス兄さんやビクター兄さんはどうか知らないが、子供の頃に憶えている中では母上もそうだし、父上でさえ怒っている姿は見た事がない。

 さっきの売り言葉に買い言葉。

 まさか、そもそも母上と言い争う事になるとは思ってもなかったのだ。

 小言ばかりを言う人だと思い込んでいたから。


「……出ていかないんです?」


 怒鳴り声を上げたあと、座ってようやく落ち着いた様子の母上は、見透かすような金色の瞳で僕を見つめている。

 その瞳は怒気も孕んでいるように見えた。

 

 正直、立ち上がった勢いで怒って部屋を出て行くんだろうな。と思っていた。

 そのまま座っている母上は、僕にはうまく言葉にできないけど、素を出している気がする。


「そうしたら、あんた出ていくでしょ」

「……出ていかないですよ。外も寒いですから」

「そうじゃなくて……」


 そういう所は、勘がいいですよね。

 でも、本当に出ていかない。だって、僕の部屋だ。そこくらいは信用してほしい。


「はぁ、まあいいわ。で?」

「え?」


 僕に何を言わせたいんだ?

 あと、腕組んだまま貧乏ゆすりはやめたほうがいいですよ。怖いです。


「ファビオ。あんた、親に向かって暴言を吐いたんだったら言うことあるでしょ?」

「暴言って……母上が――」

「その母上もやめなさい。気持ち悪いわ」


 被せて話すの止めてもらえます?


「でも、暴言って――」

「でももなにもないわ」




「……すみませんでした」


 昔のことだけど、僕も子供の頃は外で歩いていれば、すれ違う親子の笑顔に羨ましさもあった。

 親子喧嘩ってどうなんだろうかと、考えることもあったけどしなくていいかな。こんなの絶対負けるじゃん。


「はい。わかりました。あと、これからは私のことは『お母さん』と呼ぶように」


 僕の言葉に満足した様子の母上は頷いて、「キャロンとエリーみたいに『ママ』でもいいわ」と笑った。

 ママなんて絶対言わない。嫌だよ。あなたしか得しないじゃないか。

 ビクター兄さんに聞かれたら、一々ちょっかいをかけられるのが目に浮かぶ。

 

 それに、わかりました。じゃないよ。

 ずっと言い返してやりたいが、あなたから始まった喧嘩だからね。

 ほんのちょっと、僕も言い過ぎたかもしれないけど。


「わかりましたよ。これからは……『母さん』と」

「ママでもいいのよ」


「遠慮します。断固として」


 さっきまでの怒りようも落ち着いたようで、母上――じゃなかった。

 母さんって考える時もそうしておかないとまた間違えるぞ、僕。


 ……母さんは、座って楽しそうに僕を見ている。

 部屋に入ってきた時の無表情もなくなっていて、パッと見ただけでは分からない顔にも、目尻と額に若干の皺が見えた。

 ……母さんが明かりの下にいるから、僕から見ればよく分かる。


「どうしたの? 私の顔ばっかり見て」

「いえ。……黙ったままなのでどうしたのかなって」


 『明かりの下にいたら、年相応に皺が目立ちますね』とか実母でも言えない。

 マイケルだったら、もしかしたらはあるかもしれないけど。


「そうね。ファビオの事を見てたわ」

「黙って?」


「えぇ。久しぶりの顔をみたもの」


 そう言って、母さんは少し考えて膝に手を置いてから口を開いた。


「あなたは頑張り屋さんだから、ザノアールと同じでいつも会える訳ではないから」

「……だから、僕と父上――」


 『父上』と言った途端に、母さんの目が険しくなって眉間にシワが寄った。

 父上のこともそう言ったらダメなの? それくらいは……はいはい、わかりました。


「……父さんですね」

「それでよろしい。私達は貴族じゃないんだから」


 だから、仰々しい話し方はするな。そう言いたげに目で訴えてくる母さんに、「以後、気をつけます」と起こしている体を傾ける。

 近寄りがたいなと感じていた母上も――だから、母さんだって。

 母さんも、二人きりで話してみるとそんな思い込みは、間違っていたかもしれない。

 アレックス兄さんと話した時も思い込みが崩れたけど、母さんの想像も崩れている。

 もしかすると、エリー姉さんの事も僕が思い込んでいるだけ……じゃないな。あれは本性そのままだ。


「じゃあ、明日は休むね?」

「それとこれは違うのでは?」


 話が変わった。さっきまでの言い争いの前に戻ったような話題。

 母さんの目付きがさっきまでの優しい雰囲気から、少し厳しい目付きに変わった。


「違わないわ。あなた、まだ体調戻ってないでしょ?」

 

 僕の事を気にかけている事は分かる。

 元気な時と比べれば、体調は戻っていないのは分かっている。

 ただ、別に話す事もしんどかったあの十日間は過ぎているのだ。これくらいなら、問題ないことも僕にだって分かっている。


「大丈夫ですって、本当ですよ」

「いいえ。明日一日くらいはゆっくりしなさい。さっきも言ったけど大した仕事でもないでしょ?」


 言っていたような気がする。

 ただ、もう一度面と向かって言われるとやっぱり、ムカッとした。


「アレックス兄さんの仕事が大したことじゃないってことですか?」

「そうじゃないわ」


 首を振って僕に返す母さんに、「じゃあ、なんで?」と理由が聞きたくなった。

 さっきは理由を聞く前に怒鳴られたから、今度は僕も冷静に聞かなきゃ。


「……ファビオ。アレックスの我が儘に付き合うのはやめなさい」

 

 優しい目をして僕に語りかける母さん。

 どこか、ビクター兄さんと似た雰囲気で続けた。


「あの子は、自分のしたいことしか出来ないから。ファビオ。あなたもよく付き合ってるけど、もう終わりよ」

「……それは……僕が役に立ってないってことですか」


「違うわ」


 まさかの、戦力外。ではないらしい。

 もしそうだったら、むせび泣くかもしれなかったからよかった。だって、あんなに働いたんだ。それなのに戦力外は受け入れられないじゃないか。


「ファビオはよく頑張ったし、慣れないアレックスの仕事もこなしてたようだけど、あなたの役目は終わりなの」

「終わりってなんでですか。アレックス兄さんが戻ってくるとでも言うんですか!? そんなこと――」

「戻ってくるわ」




「え?」




「だから、あなたがちゃんと休んでいた十日間でアレックスが戻ってくるよう説得したわ」


 本当に戻ってくる? アレックス兄さんが? え?

 母さんがこんなことで嘘を言うとは思えないから、本当の事なのだろうけど、本当に本当?


「……説得っていうかなんというか」


 そう呟く母さんは、僕から目線を外して窓の方を見た。

 遠くを見るような眼差しで、僕もつられる。

 明かりもない月の明かりだけが映る景色は、さっきまで降っていた雪が止んだ。


「だったら、アレックス兄さんの見合い話はなくなったんです?」

「そうね。それに……って、ファビオは私がアレックスの見合いの事どこまで知ってるの?」


 アレックス兄さんとエルマリカさんの見合い話。

 大体の話はアレックス兄さんから聞いたから分かっているけど、当の本人たちが一緒に暮らしていると言ってもいいのか?

 何で一緒に暮らしているか。

 僕も、それについては未だに意味が分からないけど。


「僕が知ってるのは、……母さんがアレックス兄さんに知らせずに見合いを決めたって」


 少し考えて、エルマリカさんのことは言わないことにした。

 もし、母さんが知らなくて僕がバラしたってなるのは……ちょっと避けたい。


「そうね。その件はザックにも叱られたわ」


 苦笑いになる母さん。

 目尻が下がるその顔には、より一層皺が目立った。


「この年にもなって叱られるなんてね」


 議員として働いている母さんでも、そんな悲しそうな顔になるなんて。

 さっきまでの表情が消えた……母さんの顔は、家の中でもそうだし議会仕事で偶に町で見かけた時も同じような顔だった。

 だけど、今の母さんは何というか……人間味が凄くあるように見える。

 まあ、僕を産んでくれた人だからちゃんと人間なんだろうけど、思い出す母さんの顔はいつも人形みたいな表情だけだったから。


 それに、叱られて拗ねているような母さんを見れば、ゼクラットおじいさんから教えてもらった話を思い出した。

 あの時は、ゼクラットおじいさんが盤上遊戯で負け続けていた時だったか。


「おじいさんも言ってましたよ。『人間いつまでも勉強』だって」

「フフ、そうね。勉強ね」


 母さんは僕の言葉に笑って返した。

 さっきからよく表情が変わる母さんは、同じように表情を変えるアレックス兄さんに似ている。

 アレックス兄さんが母さんに似ているのかもしれないけど、些細なことか。


「だったら、あなたも勉強になったかしら」


 まだ、ベッドに腰掛けたままの僕にそう話す母さん。

 思わず、「えぇ?」と口に出てしまった。


「まだ分かってないの? 鈍感さはお義父さん譲りかしら」


 いたずらが成功したような顔を僕に向けて、母さんは右頬を右手で添える。

 左腕は右肘の下に当てて、足を組む。

 さながら一枚の肖像画にありそうな体勢で、返す言葉が見つからない僕に続けた。


「雁字搦めに絡まりすぎなのよ。ファビオ」


 雁字搦めって言われても、そうですね。とはならない。

 いつかアースコット教授にも言われたことだけど、僕にはもっと雁字搦めになっている人を知っているから。

 その人と比べると僕なんて、緩く縛られた紐が巻き付いているだけだ。


「だから、ビクター兄さんのほうが――」

「ビクターは雁字搦めを解いていくのが仕事よ。あなたの一番の仕事はなに?」


 ビクター兄さんはキツく縛られているはずだと思っていたけど、母さんにかぶせられた。

 ビクター兄さんは解いていくのが仕事か。なるほど、それに関してはなんとなく分かる気がする。

 ただ、僕の一番の仕事か。


「今は、アレックス兄さんの手伝いとか諸々です」

「……違う。あなたがしている本来の仕事よ」


 僕の答えに落胆した母さんは、頬に添えていた右手に寄りかかる。

 そこまで落ち込むような事でもないと思うが……。

 けど、本来の仕事か。だったら書店か。


 あまり考えないようにはしていたが、まさか母さんに指摘されるとは。

 詰められるの嫌だな。


「……書店です」

「そうね。なら、その仕事をしなさい」


 ほら、やっぱりそうだ。

 僕の方を見ないで、分かってるから。


「ファビオ。人の仕事を手伝えるのは一人前になってからよ」


 え? 僕まだ半人前って事?

 ……たしかに、経営してないから、半人前か。

 でも、これから二十年は半人前って事になるじゃんか。

 ビクター兄さんが取り上げているからどうしようもないよ。

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