第9話
昨日の夜に書店まで走ってきたあの職員は、何かと体中が痛いと喚いて休憩室を陣取った。
横になって寝ようとした時はさすがに焦って起こしたけど、愚痴話にも付き合わされて気づけば外が明るくなるまで話を聞かされた。
職員も外の明るさが分かったようで、ようやく重い腰を上げて商会まで帰ったけど、半分寝ていて怒る気力もなく呆れというか、早く帰ってくれと願うしかなかった。
「ビクター兄さんは、昨日から寝てないんですか?」
「うーん、どうだろうね。今日は会っていないけど、寝てないんじゃないかな?」
ゾトーさんと三階から一階へ下りる最中、ビクター兄さんのことを話題に出した。
返す答えの適当さは、マイケルに通ずるものがある。
マイケルが書店に来るまで、一階で仮眠を取っていればマイケルは出勤した。
肩を揺らされてマイケルに起こされれば、ニヤついた顔を間近で見てしまい、嫌々ながらも眠い目を擦りながら店を開けた。
昨日アレックス兄さんからもらった割引券がよほど嬉しいのか、僕が商会の手伝いに向かうと話しても、にやけ面のマイケルは生返事で開店準備を始めた。
この状態のマイケルには、ちゃんと説明しても無駄だと知っているし諦めている。
とりあえず店番をお願いして、ライフアリー商会まで歩く。
朝の涼しい風で目が覚めたけど、今日のこれからを考えると準備不足感は否めない。
妙に人が多いライフアリー商会の建物に入って三階の執務室に行けば、ビクター兄さんはライフアリー通運の方に行っているらしく、往き道の途中で会ったゾトーさんが対応をしてくれて今に至る。
「ファビオ坊ちゃんも大変そうですけど、大丈夫です?」
「どうなんですかね? 私用は特にないんで、アレックス兄さんに教えてもらった事が本当だったら、大丈夫だと思いますけど」
三十代半ばくらいのゾトーさんが、飄々とした笑みを浮かべて僕に聞く。
あいにくというか、幸いというか大した用事はほとんどない。
ゼクラット書店も客入りはいまいちだし、これから出版を控えている本もない。
さらに言えば、学園なんかは受講が必要な講義も少ないし、アースコット教授の所にもしばらくは行かない。
本当に用事らしい用事はないのだ。
「そうですか、てっきり忙しくて大変だと思ってましたけど、大丈夫なんですね」
「え、えぇ」
本当にこの人は、モヤッとする一言多い。
もしかすると、マイケルよりもその辺の一言は多いんじゃないか?
まぁ、数える気にもならないからいいけど。
それに商会の方が忙しそうにしている。一階なんて、人が溢れている。
人混みを形成している一階は、受付カウンターから外までたくさんの人が押し合っているのが見える。
「なんで、人が集まってるんです?」
「聞いてませんか?」
ゾトーさんが、僕の顔を見て「その顔は聞いてなさそうですね」と言って腕を組む。
そこまで大事なんてあった? と、昨日までの事と思い出してみるが心当たりは全くなかった。
「聞いてませんよ。前まで商会も暇そうでしたけど、これって最近ですか?」
ゾトーさんは僕の右肩に手を置いて「まぁ、通運に行きましょうか。ビクターさんに説明してもらえば分かりますから」と肩をすくめる。
「とんでもない置き土産を残されていきましたよ。アレックスさんは」と呟いて一階の人だかりを掻き分けて進んでいく彼に、遅れてついていく。
アレックス兄さんの置き土産と言われても、通運の仕事をお手伝いしてほしいとお願いされたことくらいだ。
「私も忙しいんで、早くビクターさんのところへ行きましょう」と彼は玄関まで止まらずに歩いて行く。人だかりを押し返しているゾトーさんのせいで、僕にぶつかる人が多い。
「すみません! 通ります!」と避けてもらって、謝りながら進んだ。
商会を出て、すぐそこにある通運の事務所まで歩くのにも一苦労だった。
外で待つ人の多さとしびれを切らした人の怒号も多ければ、対応し切れていない職員の焦る声がそこかしこから聞こえてくる。
押して押されて戻されてを繰り返して、ようやく人がいない所まで出てこれた。
「ファビオ坊ちゃん、遅いですよ? 若いのに体力ないとこの先心配にですよ?」
腕を組んで待つゾトーさんに、あなたが押したせいだ! と怒ってやりたいところだったけど、寝不足のせいでいつもより息が上がってしまう。
両手を腰に当てて肩も揺らして息をするけど、一向に息が整う感じがしない。
「まぁ、今日は特別忙しいですから」と彼は笑って、「さぁ、行きましょう。もう息も整ったでしょ?」と腰に当てていた僕の腕を取って、連れて行くように歩き出す。
「ちょ、ちょっと。僕まだ息、あがってるんで、先行っててください」
「そう? じゃあ、先に行ってるからちゃんと来てね」
私も待つよ。とか言わないあたりマイケルに似ている。
ゾトーさんは、さっきの人混みから解き放たれたように軽い足取りで通運の方に歩く。
そんな彼にゆっくりとついていくけど、こんなに息が上がるのは久しぶりのことで気持ち悪くなった。
やっぱりこれって、ちゃんと寝られなかったせいだと思う。
* * *
ライフアリー通運は、大きな屋根をせり出した平屋建ての建物が事務所で、簡素な作りの仮設住宅が並んでいるけどそのほとんどは倉庫だ。
元々は出稼ぎで来る職員の仮設住宅だったそうだけど、今は人が住んでいる気配すらない。
商会の名前の通り、ライフアリー商会の通運事業から分裂した商会だから色々な物を運ぶのが主な業務だ。
さすがにライフアリー通運がどんな物を運んでいるのかは、僕には分からない。
開業してから八年程度で、大商会として他国との貿易をしているのだから、アレックス兄さんの経営能力の高さが分かる。
いつもなら朝から走り回っている多くの職員は、今日に限ってはいない。
遠くにいても聞こえる怒号すらなく、事務所は閑散としていた。
ゆっくり事務所まで歩いて息を整えれば、事務所の玄関前に立つゾトーさんをすぐに見つけた。
「今日って、通運は休みですか?」
「そんな事ないよ。いつも通り、営業は、しているよ」
営業は、か。
最近会う人たちは、その含みある話し方を好むのか?
聞かされる側にとっては、答えを言い渋るその言い方に悶々とするんだけど。
「もう大丈夫そうだね、入ろっか」とゾトーさんが事務所の扉を開く。
初めて入る事務所に少し緊張するけど、扉の先は商会の建物とよく似た作りになっていた。
受付カウンターで作業をしている職員が数名といった所で、奥に見える大きな机には大量の書類が積んであるくらい。
パッと見てビクター兄さんの執務室のような雰囲気もあって、「中ってこんな感じなんですね」と一緒に入って扉を閉めたゾトーさんに話す。
「あれ、ファビオ坊ちゃんは初めてなんだ。何回も来てそうだけど、意外だね」
「本屋が運送屋とどうやって関われるんですか」
「確かにねぇ、これは失礼しました」と頭を掻くゾトーさんは、僕の横を通ってカウンターに歩く。
息を吸えば埃が舞っているのか、鼻がむず痒くなった。
鼻先を触っていれば、カウンターの職員に彼は「ちょっといいかな? ビクターさんってどこにいる?」と聞いた。
「あぁ、ゾトーさん。ビクターさんなら奥の会議室で、今後の対応の整理をしてますよ」
職員が笑顔で返せば、その職員は僕の方も見る。
「そちらの方は?」
「アレックスさんとビクターさんの弟さんだよ」と僕を寄せて「ほら、自己紹介してくださいよ」と急かす。
「どうも、初めまして。ファビオ・ライフアリーです」
「ご丁寧にどうも、私――」
「やっと来た! ファビオ! ……あれ? ゾトーまで何でいるの?」と職員が自己紹介をしてくれる声がビクター兄さんの声でかき消えた。
いきなり、すごい大きい声出すね。
作業中の職員たちも、ビクター兄さんの声にびっくりして、その場にいる全員がビクター兄さんに注目した。
「まぁいいや。そんなところで遊んでなくてさ! 二人とも早く!」
カウンターの奥の扉から、いつもに比べて何倍も気分の高いビクターさんが僕たちを呼ぶ。
自己紹介の途中だった職員さんは苦笑いを浮かべた。
「どうぞ。入って良いので、いってらっしゃい」
カウンター横の通路を開けて、ゾトーさんと僕を案内してくれる職員。
奥の机に積まれていた書類は、床にも積んであって見た目以上に煩雑としていた。
「忙しい時のビクターさんみたいになってるね」とゾトーさんは積みあがっている書類を跨ぐ。
彼の言葉に同意してしまうのは、ビクター兄さんに失礼かなと思うけど本当に似ているせいで、なんて返したら良いのか分からない。
「まぁ、きょうだいだから似るってことですかね」と精一杯考えてからゾトーさんに返す。
アレックス兄さんとビクター兄さんの共通点というか似ているところがこことは、僕も気をつけておかないと。
床の書類を整えているゾトーさんを横目に、ビクター兄さんの近くまで来れば、「もっと早く来るって思ってたんだけど」となぜかありがたいお言葉をもらう。
だったら、あの職員のことなんとかしろよ。
「ここまで狭いとは……。私の仕事はこんなものですかね。ビクターさん、あとよろしくお願いします」
「ちょうど良いからゾトーも聞いてもらってもいい?」
横で帰ろうとするゾトーさんをビクター兄さんが呼び止める。嫌々と食い下がっていたが、上司であるビクター兄さんのお願いと断れなかったようで三人で会議室に入った。
ビクター兄さんの執務室より、少し大きい薄暗い部屋の中には、机に置かれていた書類と同量か少し多いくらいの書類の塔が乱立していた。
「アレックス兄さんにやられたよ」とビクター兄さんが呟く。
「これがですか?」と聞くが、やられたとは?
ビクター兄さんは、書類の塔に手を置いて溜息をつけば、「これ全部ね、決裁待ちの書類なんだよ、証明書とか契約書とか諸々が分けてすらない」と微笑んで僕を見る。
「決裁だけってアレックス兄さんから聞きましたけど……こんなに、ですか?」
ビクター兄さんは微笑んだまま動かない。
手の先が冷たくなるようなこの感覚は久しぶりだ。
今この時、僕の思わぬ所から考えもしない問題が舞い込んだ。
そして、それに巻き込まれようとしている。というか、突っ込んでしまった。
「じゃあ、二人にも手伝ってもらうね」とアレックス兄さんのように、目を見開くビクターさんが僕たちを見つめてくる。
きょうだいって、やっぱり似るんだね。なにかと大変なことになりそうで、アレックス兄さんの事を応援していたが、少し間違えたかもしれない。
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