第5話
窓のカーテンを開ければ、朝の日差しが部屋に入ってくる。
机に読みかけの参考書と空のコップ。
光と一緒に来る暑さが徐々に部屋を包みだす。
目が覚めても包帯と装具をつけている今の日々が、僕には逆に清々しくもあった。
殴られた日から、三十日経っている。
学園には、骨折で療養中となっているらしい。復学は日常生活に支障がなくなってからだ。
身内の恥を公にするようなことは、父上も母上もしなかったようだ。
二階にある自分の部屋から空のコップを片手に一階に降りる。
まだ誰も来ていないそこから、いつも通りの足取りで休憩室に入ってお湯を沸かす。
待っている間は特にやることもないので、休憩室に置いてある本を読みながら時間を潰した。
外から扉を開けて入ってくる音が聞こえた。
そのまま歩いてくる足音。休憩室に差し掛かれば、よく見知った男が休憩室に入ってくる。
黒い髪は短く切られ後ろ髪に寝癖がついている。黒い目に眼鏡をかけて僕に八重歯を見せて微笑んできた。
服は特段おかしい所はない。が、その身長は平均的な身長の僕の胸あたりまでしかない。要するに身長が低いのだ。
そのくせ、横に広い体はどこかミスマッチしている感じが漂う。
「ファビオ君。おはよう!」
おはようございます。と返す僕。
その男とは、僕も長い付き合いである。
「マイケルさん。今日はずいぶん早いんですね」
その男の名は、マイケル・ガットマンという名前だ。
そして、僕が経営していた本屋に今残っている唯一の従業員だ。
「そうなんだよー。妹に急かされてさー」
まいっちゃうよねー。と暢気に休憩室にある椅子に座った。
僕は、ちょうど沸いたお湯を片手に休憩室でゆっくりとするのだ。
口は十分に開かないから、朝からパンが食べられない。
朝の寝ぼけた頭で口を大きく開けて痛い目に遭ったのだ。
「書店の支度はいいんですか?」
「ファビオ君は真面目だねぇ。ちょっと休憩してから開けるよ」
マイケルは、椅子に座って僕が沸かしたお湯のあまりを飲んでいる。
この人は、誰に対しても同じ対応をする。ついでにのんびり屋のサボリ魔でもある。
「そうだ! ファビオ君。調べてたアレ。今教えてあげよっか?」
だが、このマイケルという人間はその性格に似合わず、情報を仕入れることに関しては天性の才能を持っている。
僕もマイケルの情報に助けられた事は多々あるのだ。主にエリー姉さんの事だけど。
「店開けてからでもいいでしょ。どうせ客も来ないし」
今教えてもらうのはいいが、どうせそれを言い訳にしてサボるのは目に見えている。
本屋の従業員として、そろそろ自覚をしてもらいたい所ではあるが、それは僕も同じなので言わない。
「それもそうだね! ファビオ君は、あの本の事で頭一杯だしね!」
あと、マイケルは一言も二言も多い。
人間性でマイケルを採用した当時の僕は、僕史上最もアホだ。満場一致で。
「本のことは考えてないですよ。別に」
嘘である。昨日も寝るまで本の事で頭一杯だった。
朝だからそこまで考えてなかっただけなのだ。
マイケルは、少し笑っていればお湯を飲み終えて休憩室を出る。書店の支度にいったのだろう。
朝からマイケルに茶化されて複雑な気分だ。
僕がビクター兄さんから来た話は、エリー姉さんが何故僕を殴ったか。その原因になった本の調査だ。
それは僕の仕事じゃないと断ってもよかったけど、全ての元凶たる本の完成度の事を考えると、そうは言ってられない。
読ませてもらったその本は過去に読んだ本の中で一番面白く、文章から漂う品性も素晴らしい。
社交会で話題に上がるのも容易に想像つくぐらいだ。
もしも無名の作家だったらこの才能は世に出さないと、僕たち本屋の大きな損失だ。
それで、この書店の専属作家になってもらうのだ。
僕の計画のために。
あぁ、僕も準備しなくては。学園を休んでいても働かないとね。
* * *
マイケルが書店を開けて、昼が過ぎた。
書店には、全く客は来ない。僕もマイケルもカウンターに備え付けられている椅子に座っている。
別に、書店なんてそんなものだ。置いているのは魔術書と参考書ぐらい。変わり種で誰かの料理解説本ぐらい。
休憩室に置いてあった本は朝で読みきった。
一応説明すると、僕が寝泊まりするこの本屋『ゼクラット書店』は僕が経営していた。過去の話だが。
正直に白状するなら、まだ十五歳だった僕が開業したはいいものの経営のことなど素人だった。それだけ。
お金を貸してもらっていたビクター兄さんに経営権を取り上げられて僕は、この書店のお手伝いさんに降格した。
そもそも、僕がこの書店を開業したかったのにも色々な計画があった訳だが、今はその計画のスタートラインにすら立っていない。
だけど今回の件で、その計画が進めそうなのだ。あの本のおかげだ。
「暇だね。帰っていい?」
マイケルが、書店のカウンターで頬杖をつきながら僕に言ってきた。
なんだ。その勤務態度は、こちとら顔が痛くて痒くても掻けないんだぞ。
「じゃあアレ。教えてくださいよ」
「あぁアレね。いいけどさ時間掛かるよ?」
「店仕舞いには間に合わせるんでしょ」
どうせすぐ帰るんだから。とマイケルに言えば、笑ってごまかしてくる。
僕は曲がりなりにも二年間は、ここの経営者だったんだぞ。失敗したけど。いま一緒に仕事してるけど。
「で、だ。この本はね――」
切り出すマイケル。僕は彼の言うことを黙って聞くことにした。
これからマイケルが話す内容っていうのは、エリー姉さんに殴られた原因になった一冊の本のことだ。あのやけに完成度の高い本のこと。
ビクター兄さんにも教えてもらったから、僕の認識は間違えていないと思う。
要するに、エリー姉さんとライアンさんの婚約解消の話が面白おかしく本にされて出回った。それが、社交会でも取り上げられてエリー姉さんの言った大恥を掻いたってことだ。
で、あの時エリー姉さんが持っていた本、あれを僕が出版したと思い込んだエリー姉さんが送迎の馬車に乗ってやってきて僕を殴って今に至るという訳。
「正直さ。エリザベスさんの早とちりも的外れって訳ではないんだよね。実は」
「はい? どういうこと?」
たまらず、マイケルに聞き返す。僕にも原因があったってこと?
いやいやそんなことはないでしょ。心当たりないんだって、本当に。
動揺する僕を余所にマイケルは喋り続ける。書店には今のところ閑古鳥が鳴いている。
「結構、前にさ。資金難のせいで紙売ったじゃん?」
「あ、あぁ。あの時は大変でしたから」
僕が経営をしていた時のことだ。僕の失敗でいきなり廃業しかけてたのだ。
それを、ビクター兄さんに相談してある程度はお金を貸してもらったけど足りない分は、紙を売ってなんとか事なきを得たのだ。
「大変だったよね。なんで版画機を三つも買うんだよ。バカじゃん」
「まぁまぁ。もう終わった話だからさ。続きを教えてよ」
あの時は、マイケルを雇ってすぐの事だったからか鮮明に当時のことを覚えていた。
マイケルも、少し深いため息をこれ見よがしに付く。
「それでね。その紙がエリザベスさんが持っていた本に使われていたんだよ。だから――」
「だからって、僕だってすぐわからないでしょ!」
「分かるよ!? むっちゃ高級な紙だからね!」
売った時のお金のこと今でも覚えてるよ! と僕に大きな声で言ってくる。
うるさいなぁ。と思いつつも、あの時の紙って高かったんだ。と思い返す。少し残しておいたら良かった。
「まぁそれは置いといて。高級な紙が使われたのがここにある本って訳。因果なものだね」
「傍迷惑な話ですよ。全く。……それで」
この話は、その本を売った奴がどんな奴か。だ。
マイケルがもったいぶったように、大げさに話す。
「それでね。誰が売ったかまでは分かってないんだ」
「分かってねぇのかよ!」
何が情報屋なんだよ。演劇俳優みたいに喋ってたから、期待した僕がバカだったよ。
すると、マイケルは頬杖を解いて僕の正面を向く。
「ファビオ君さ。ちゃんと考えてみなよ。そもそもこの本の書かれていることってどこで起こった話だい?」
「学園ですけど。」
「じゃあさ、学園の誰かがこの本のネタを誰かに言って書かせた訳だ」
それは、僕も考えたさ。それにしては本が出来上がるまでが早すぎる。
「でも、それじゃ早すぎませんか?」
「早すぎるね。僕たちが本を作ろうとしても色んな所にお伺いを立てないといけないし」
本を作ってはい終わりではない。著作者へのマージンとか、面倒くさい事務仕事がたくさんあるのだ。
だから本が出来上がってから、すぐに社交会で話題になるというのは僕たちではできない。
売リ出すのに最短で九十日前後はかかるのだ。
それをこの本は、十日も掛からずやってのけた。快挙である。
そんなルートがもしあるのなら、是非ご教示いただきたいぐらいである。
僕の悩み事の大半が消えるのだから。
「だからね。そんな無法じみた事ができる所はこの都市で一つしかない」
「……闇市ですか」
「正解! 闇市で売ったのは簡単に分かることだし。正直、誰が書いたかも調べたらすぐ分かるよ」
「じゃあ、調べてくださいよ。僕、療養中ですよ」
「療養が必要な人が今僕と喋ってるけど……いいの? チクるよ?」
「冗談ですって」
マイケルは言うと言ったら、絶対に言う人間だ。
そのせいで、ビクター兄さんに何回小言をもらったことか。
「で、どこを調べたらいいんですか?」
「ファビオ君さぁ。本の裏見てないの?」
えっ。と口にする。僕はカウンターに置いているその本の裏を見た。
あまりに面白かったから、四回は読み返している。裏まで見ることはしていなかった。
「この日って」
「うん。ファビオ君の思った通りだね」
裏の日付は、ちょうどエリー姉さんとライアンさんが喧嘩した日から次の日だ。
日付の横に発刊と書いてある。
「すごく筆の速い作家ってことですか!」
変なことを言っていないはずだが、マイケルが僕を馬鹿にしたような目で見てくる。
「学園に通う誰かが書いたってことだよ!」
「なるほど」
じゃあ、学園で調べたらいいのか。でも――。
「でも僕、療養中ってことになってますけど……」
「……治った。って言ったらいいんじゃないか?」
治ってないんだよ。僕の顔を見ろ。装具もとれていないこの顔のどこが治ったっていうんだよ。
おいマイケル。こっちを見ろ。
「とりあえず調べたし、やることも分かったからいいんじゃない?」
「いいですけど……」
それじゃ頑張ってね。と言って椅子から立つマイケル。
外を向けば少し日差しが赤みがかっている。
「今日はもう客こないね。店閉めよっか」
「いやいや、僕がいますから。先帰っていいですよ」
途端に目を輝かせて僕に、ありがとう。よろしくー。とマイケルが言いながら休憩室に入ってすぐ自分の持ち物を取る。
「おつかれっしたー」
マイケルの暢気な声が書店に響く。
それにしても学園の誰かか。そこまで考えたことなかったな。
けど一回、マイケルに推理小説でも書かせてみるか。面白そうな本を書けるかもしれない。
「それにしても、客こないなぁ」
僕が働くゼクラット書店の名前の由来は、商売上手なおじいさんの名前をもらった。
繁盛するようにと願ったこの本屋は、名前の由来とは裏腹に今日も客は来ない。
僕が本屋を閉めたのは、マイケルが帰ってすぐの事だった。
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